ちぎれんばかりに尾を振り身体を摺り寄せてきたので顎の下を撫でてやると、腹を見せ横たわり恭順を示してきた。屈みこみ、望みどおり腹を撫でてやる。全身を
弛緩させうっとりと目を閉じる犬の愛らしさにゴルベーザの頬も自然と緩む。
「動物がお好きですね」
革手袋越しでもわかる温かな身体を撫でながらゴルベーザは、まあな、と背後に立つカインに応えた。
「実は狼に育てられたのだ」
「……騙されませんよ」
いつもと違う反応に、ゴルベーザは首だけをカインのほうへ向けた。あからさまな嘘を見破ったつもりでいる彼のしたり顔がおもしろくて、黒い兜の下で白い歯を
こぼす。
「それは冗談だが、忘れられない狼がいるのは事実だ」
「飼っておられたのですか」
いや、とゴルベーザは首を横に振り、狼とは程遠い相貌をした栗色の犬を見下ろした。
「あれは……対等の友人だった」
「……」
カインは軽く握った拳で下唇を擦った。拳を唇に当てたまま俯き、何か考え込んでいる。そして意を決したように顔を上げ、ごくりと唾を呑み込み口を開いた。
「お話を聞かせていただいてもよろしいですか」
ああ、とゴルベーザが頷くと、カインは、失礼します、と犬を挟んで主の向かいに屈みこんだ。腕を伸ばし、犬の白い腹を撫で始める。犬を撫でることをカインに
任せゴルベーザは記憶を巡らせ、懐かしい、灰褐色の若い狼の姿を思い描いた。
「きっかけは忘れてしまったが、群れを離れた狼と遊ぶようになった」
「子どもの頃ですか」
「十一、ニ歳だった。わずかな家畜を狙うので人々には忌み嫌われていたが、何故かそいつと気が合ってな。野を駆けたり、川で水浴びをしたり。腹を空かせた私の
前に、仕留めた野うさぎを持ってきてくれたこともあった」
生肉は食うものじゃないな、とゴルベーザが自嘲交じりに呟くと、カインも愛想笑いを浮かべる。
「焼かなかったのですか」
「火を使うとあいつが逃げるからな」
カインは無言で頷き表情を硬くして、また唇を擦った。これは表情を取り繕うとする仕種だ。カインが隠そうとしている感情に察しはついたがそれに言及すること
はせず、ゴルベーザは足許に横たわった犬に視線を落とした。
「その狼はどうなったのですか」
「殺した」
え、とカインは調子外れな声を上げ、ゴルベーザの顔をじっと見上げた。ゴルベーザの脳裏に狼との別れの場面が蘇る。
「あいつに恨みをもつ奴らにやられた。私が駆けつけたときには、折れた骨が肺を突き破り背中へ抜けていた。だから殺した。こうやって」
ふさふさとした白い毛に覆われた犬の首に両手をかけ、捻る真似をする。犬は無邪気に尾を振って喜んでいる。
「子どもの力でも簡単にできたぞ。もっとも、肉が抉られていたからだが」
「そ、それは最期を楽にしてやっただけで、ゴルベーザ様が殺したわけで――」
「同じことだ」
カインの言葉を遮り、ゴルベーザは犬の首から手を離した。
「手当をして助けようとは露程も思わなかった。威風堂々としたあいつが弱っていくさまを見たくなかった」
「そ、それで、その男達は……」
「まさに死ぬほど後悔しただろうな。自分が死ぬ場面になって」
ゴルベーザはくっくと喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。彼らの表情は憶えていない。きっと涙で視界が霞んでいたのだろう。それでも何の躊躇も逡巡もなく、
正確な方向に魔法を放った。
「何か言いたそうだな」
口を小さく開けたまま身を硬くしているカインに、ゴルベーザはからかい交じりに声をかける。カインは慌てた素振りで、いえ、と首を横に振り俯いた。
「考えていることを当ててやろうか」
カインは顔を上げ口を引き結び、首を何度も横に振ったが、ゴルベーザはそれに構わず続けた。
「奴らを不憫に思っているのだろう。獣と人の命を同じ秤にかけるのはおかしい、と」
「い、いえ。そんなことは……」
「盗む、犯すは当たり前、恩ある主を殴り殺し、盗んだ鶏で糊口を凌いでいた、そんな屑のような奴らでもか」
「……」
「憎しみが憎しみを生み命を奪い合う。不毛の地は何もあそこだけでない。この世はそういうものだ」
「……」
顔を上げたり俯いたり、唇を舐めたり噛んだり、拳を握ったり開いたり。落ち着かない仕種を繰り返すカインに、ゴルベーザは笑いを漏らした。
「構わん。言ってみろ」
ゴルベーザに促され、カインは胸に手を当て大きな息を吐き、顔を上げた。
「……憎しみの連鎖は絶たなければならない、と教わりました」
「バロン王にか」
「……はい。戦死した兵士の遺族が個人的に復讐することが禁じられているように――」
ゴルベーザは、ふ、と息を漏らし、知っているか、と前置きした。
「戦で夫を失った妻が娼婦にまで身を落として夫にとどめをさした敵国の兵士を探し出し、寝首を掻いた話を」
「……知っています」
「支配者が手前勝手な決まりを作ったところで人の心は縛れぬわ」
「他者が縛れないからこそ、当人に強い自制が必要だと思――」
カインは、はっ、と息を呑み、すべて言い終えないうちに、あたふたと頭を下げた。
「口が過ぎました。申し訳ありません」
ゴルベーザは、ふん、と鼻先で笑い、再び犬の腹を撫で始めた。指が触れるとカインは慌てて己の手を引っ込めた。
「それだけ人間の心は弱く脆い」
「……はい」
「恨みだろうが憎しみだろうが、私の邪魔をする者は、退けるだけのことだ。おまえの言う『連鎖』はいずれ完全に断ち切られる。なぜなら……」
この星は焦土と化し、人類は滅び、跡形もなくなってしまうからだ。
そう言葉にして続けることができなかった。掌に小さな生き物の鼓動が伝わったからか。心のままを口にしてしまった自分を恥じ、唇を噛んだまま俯いている配下
の青年をいじらしく思うからか。
ざわざわと蟲が這う音が聞こえてくる。それらを振り払うように、ゴルベーザは頭を横に何度も振った。
「……ゴルベーザ様?」
「いまはいい。もう少し後で教えてやろう」
「はい」
小首を傾げながらも口許を綻ばせ大きく頷いたカインに、ゴルベーザはわずかに眉を寄せた。
何か喜ばせるようなことを言っただろうか。
カインが何かに心を弾ませていることはわかったが、それが何なのかまではゴルベーザにはわからなかった。
さて、とゴルベーザは腕を伸ばし犬を抱いて立ち上がり、カインを見下ろした。
「そんな子ども時代を過ごした主を憐れんでくれるなら、私の言いたいことはわかるな?」
黒い兜を舐めてくる犬の背中を撫でながら額を合わせ、抱く腕に力を込めて左右に揺さぶってみせる。
「……それとこれとは別です」
先ほどまでの神妙な態度から一転し、自分の言外の要望を毅然と拒否したカインに、ゴルベーザは、ほう、と感嘆の息を漏らした。カインも立ち上がり、真っ直ぐ
にゴルベーザを見上げる。
「それはただの犬です。小さくとも魔物のあいつらと一緒に飼うことはできません」
「……」
「右も左も魔物だらけで安穏には程遠く、犬は生きた心地がしないでしょう」
「おまえもそうだったのか」
「い、いえ……わ、私は、そんなことは……」
「おまえが正しい」
ゴルベーザは腰を屈め、犬を降ろした。くうん、と鳴いて足許にまとわりつく犬の頭を名残惜しそうに撫でる。
「おまえは私の許では生きられないそうだ」
そうだな、と同意を求めてカインに顔を向けると、彼も、そうです、と申し訳無さそうに頷いた。
「私の許には魔物と世を捨てた変人たちと、純情な竜騎士だけだな」
「じゅっ……そ、そんな風に仰らないでください」
カインは頬を紅潮させ片手を顔の前で何度も振った。
「『純情』が不満なら『可憐』か『愛らしい』か」
「……純情でいいです」
ため息混じりにそう言って口を尖らせるカインの様子にゴルベーザは声を上げて笑い、彼の肩を抱き歩き始めた。
「カイン」
「はい」
「昔の話だ。遠い、子どもの頃の」
「……わかっています」
カインは甘えるようにゴルベーザの肩に頭を預け寄りかかり、ごく小さな声で「いつか」と呟いた。その呟きにも、そのまま黙り込んでしまったことにも気づかな
いふりをして、ゴルベーザは、宥めるように、肩を抱いていた腕を彼の腰に回し、さらに強く抱き寄せた。
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ゴル様が育った場所については
こちら
2009/08/10