近頃カインの部屋で過ごすことはさらに多くなっていたが、彼と魔物の仔らがもたらす安寧は、ときにゴルベーザを当惑させ軽い
混乱に陥れていた。
目的のためにただひたすら修羅の道を歩んできたゴルベーザにとって安穏に身を置くことはひどく落ち着かない気持ちにさせることでもある。そのため、それを配
下の青年に気取られないうちに早めに切り上げることを心がけているが、常に思惑通りいくものでもない。今日も、いつもの争いに勝利し膝の上を陣取った一匹がす
やすやと寝息を立て始めたために、機を逸してしまった。安心しきって眠っている魔物の仔の頭を撫でながら、ゴルベーザは小さく嘆息し、隣に座るカインの横顔を
眺めた。彼は、争いに敗れ渋々自分の膝の上に乗ってきたもう一匹の喉許を、よしよし、とくすぐりながら、慈愛の笑みを浮かべている。
額から鼻にかけてのラインは完璧と言っていいだろう。唇と顎は紛れもなく男のものなのに、頬に影差す長い睫毛、艶めく白い肌のために「女と見紛うような」と
形容されるのは、本人は不服らしいが、無理からぬことだ。
彼を彼たらしめる澄んだ青い眸。空よりも深く海よりも鮮やかな青い眸は吸い込まれそうなほど美しく、誰もがその眸の奥深くに宿るものを見極めようとして知ら
ずのうちに目が離せなくなる。彼はこれまでそれを「不躾な視線」と捉え、俯くことも愛想笑いを返すこともせず、視線の主の存在を己の視界から消し去り気に留め
ることはなかったという。
つれない一瞥を得るためならば高価な贈り物を捧げ床に額づき靴に接吻を請う者たちが後を絶たないというのに、彼は哀れな崇拝者たちに微笑み一つくれてやるこ
ともせずそれらを素気無くあしらってきた。彼の関心は技を磨き心身を鍛錬することのみに注がれており、これほどの容色に恵まれながらそれを利用してのし上がる
ことも、力ある者に擦り寄ることも毛頭なかったようだ。
その美しさは惜しみない称賛に値するが、彼がただそれだけの無能な男なら、すぐに飽きてしまっていたことだろう。勇壮でいて慎重、豪胆かつ繊細。控えめな怜
悧さも諧謔を解する心も持ち合わせていながら口が重く人付き合いの不器用なところはいたましささえ憶える。
彼を支えるものは竜騎士の矜持。
たとえ孤独に身を置き、朋友の暗黒騎士に対する嫉妬に苛まれても、それさえあれば強く気高く生きていけると思っているらしいが、それは諸刃の剣、彼を生かす
翼であり彼を縛る鎖にもなりうる。
主の視線に気づいたカインが顔を向け、首をわずかに傾げる。
「ゴルベーザ様?」
「……」
黙ったままの主を訝ったのか首を大きく傾げ窺うように見上げてきたので、ゴルベーザはカインの端正な顔を見つめたまま、特に思うこともなく、口を開いた。
「自分の顔は好きか」
「え」
唐突な問いかけにカインは目を見開き、軽く握った拳を口に当て、そうですね、と口篭もった。
「……特に考えたことはありませんでしたが、いまは……好きです」
「心境の変化があったのか」
カインは俯き、魔物の仔を撫でる手の動きを速め、もじもじと身体を捩る。
「ゴ、ゴルベーザ様が私の容貌を好いてくださるので……」
耳まで紅くして応えたカインに、ゴルベーザは息を吐くだけの笑いを漏らした。こんなときの彼は乙女のようにしおらしい。
「母親に感謝せんとな。そっくりに産んでもらって」
ゴルベーザの言葉に、ご存知でしたか、とため息混じりに呟いて、カインは大きく頷いた。
ゴルベーザが長い腕を伸ばすと、カインは小さく肩を竦ませた。一つに束ねられた彼の髪を解き、指の間からさらさらと流れ落ちる髪を弄ぶ。
明るすぎず暗すぎず、これまで見たどんな黄金よりも眩い輝きを放つ金の髪は、革手袋越しでもその柔らかさが伝わる。もし素手で触れたなら、きっと本物の金の
ように、しっとりと冷たく感じるだろうとぼんやり考えながらゴルベーザは、指先に巻きつけた毛先でカインの耳をくすぐった。彼がそれを嫌がり首を振り身体を
捻って逃れようとすると、安眠を妨げられた魔物の仔が不機嫌そうに片目を開けたので、ゴルベーザはカインにではなく魔物に「すまん」と謝罪した。
カインが恨めしげにじっと見つめてくる。それに素知らぬふりをして、ゴルベーザは金の髪を彼の背中に撫で付けた。どんなに弄って遊んでいても、癖のない髪は
たちまち重力に従って真っ直ぐに流れ落ちていく。
「髪も母親似か」
「はい」
「生きていたら幾つだ」
「三十八になります」
八つ上か、と呟いたゴルベーザにカインはわずかに眉を顰めた。彼の表情から感情の移ろいが手に取るようにわかり、ゴルベーザは漆黒の兜の下でほくそ笑む。
「それほどの美女なら妃にと請われただろうに、竜騎士に嫁したのか。解せんな」
「身体が弱かったので王妃はとても務まらなかっただろう、と聞いています」
「なるほどな」
バロン王が独り身だったのは存外それが理由かもしれんな、とカインの耳に届かないほどの声で呟いて、彼の髪から手を離した。
「ゴルベーザ様は?」
「……」
何を訊かれたのかわからずゴルベーザが無言のままでいると、カインは、動詞も目的語も省略したぞんざいな問いかけを省みて、すみません、と俯き軽く咳払いを
してから顔を上げて言い直した。
「ゴルベーザ様は御自分の顔をお好きですか」
「……」
予期しない問いかけにゴルベーザは一瞬たじろいだが、それは本当に一瞬だけで、その一方で、どう応えるべきかと驚くほど従順に考え始めていて、それが自分で
も滑稽で思わず噴き出した。
何と間の抜けた質問だ。しかもそれと同じ問いを先に口にしたのは自分だったのだ、とゴルベーザは肩を震わせた。
カインは何を思ってそんなことを訊いたのか。
同じ問いかけでも、生まれてこの方ずっと容貌を誉めそやされ本人も充分にそれを自覚していると彼と、人前で決して兜を脱ぐこともなく誰にも素顔を知られてい
ない自分とでは、まるで違う。
彼にはまだ素顔を見せていない。配下の青年が主のまだ見ぬ容貌に好奇心を抱くことは至極当然のことだろう。
「あの……何かおかしなことを言いましたか」
「……」
笑っていたのは自分に対してだったのに、戸惑いを見せながらも真剣な表情で尋ねてくるカインの愚直なまでの純粋さに、ゴルベーザは喉許で押し殺すような笑い
声を上げた。
「おまえはおかしい。『変』ではなく『愉快』だ」
「……そんなことを仰るのはゴルベーザ様だけです」
頬をほんのりと朱に染め、笑われるのは心外だ、と言わんばかりにわずかに眉を顰める美しい青年に、ゴルベーザはさらに声を上げて笑い、彼の肩を抱き寄せた。
応える義務など無いが、彼の反応が見たくて「そうだな」とゴルベーザは前置きした。
「気に入らない顔と何十年も付き合うのは苦痛だろうな。さいわいにも、憂いたことはない」
主の応えにカインは安堵したように口許を綻ばせ白い歯を見せた。
「ゴルベーザ様のくちび――口許はきれ……艶っ――色っ――」
適切な言葉で形容することにしくじり、首を捻りしどろもどろになる配下の青年の、花のような唇こそ艶かしく美しい。
「もうよい。褒めようとしているのは伝わったぞ」
なんとかな、と付け足してゴルベーザは腕を伸ばし、カインの下唇を指で軽く弾いた。ぷるん、と二度三度弾いていると、カインは口をゆっくりと開き、舌をちろ
りと覗かせた。それが口付けを請う仕種だとわかっていたが、ゴルベーザは気づかぬふりをして、気まぐれに、ふっくらとした唇を弾き続けた。
カインは辛抱強くされるがままに身を任せていたが、やがてわずかに眉を寄せ苛立ったように「うう」と小さな唸り声を上げ、ゴルベーザの指に軽く歯を立てた。
口の端に笑みを湛え、主の見えもしない表情を上目遣いに窺いながら、ゆっくりと噛む力を強くしていく。これも近頃よく行うじゃれあいの範疇であったが、親指に
ぴりりと走った思いのほか強い痛みにゴルベーザは眉を顰めた。それでも自分から振り解くことはせず噛まれるままに任せる。
「凶暴だな」
空いている方の手で魔物の仔にするように顎の下を撫でてやると、カインはようやく主の指を解放し、労わるように噛み痕に口付けたので、その見え透いた仕種に
ゴルベーザは思わず笑ってしまった。
からかいを物ともせず、カインはしたり顔で片頬をこちらに突き出した。
「ゴルベーザ様の番です」
「ん?」
「指でも、頬でも、唇でも」
どこでもいいから噛め、ということか。
どうも調子が狂う。いま主導権は配下の青年に握られていてるが、それ自体は問題ではない。気を悪くしているわけでも不快なわけでもない。こんな他愛もない戯
(ざ)れ事も楽しむことはできるが、いつのまにか調子が狂い、とにかく落ち着かない気分になってしまうのだ。
ゴルベーザはやれやれと小さな息を吐き、カインの長い髪を後ろに撫でつけ輪郭を露わにした。
「おまえの美しい肌に噛み痕を残すなど、無粋にもほどがある。だから――」
口許を覆うガードをスライドさせる。カインが期待に目を輝かせる。
「これはお気に召すかな」
カインの顎をくいと持ち上げ、鼻先に軽く口付けたあと唇を目の下の膨らみから耳に滑らせ、耳介の溝に舌を這わせた。ひう、と空気が漏れるような声をあげ、カ
インはびくりと身を竦ませる。彼の後頭部を大きな掌でがっちりと固定し、舌を長く伸ばし唾液を溜めわざと音を立ててくすぐるように舐めてやると、カインは息を
荒げ声にならない喘ぎを漏らした。
「ゴ、ゴルベーザさま……」
縋るような声には応えず、耳殻から耳たぶ、耳の後ろから首筋へと舌を動かしていたゴルベーザは、朱に染まったそこに小さな傷を目に留めた。髪の毛の細さほど
の数本の紅い傷。おそらくかまいたちかその類いよる切り傷だろう。
「傷がある。治してもらわなかったのか」
あ、と声に出さずカインは、傷を左手で押さえた。
「この程度なら自然に治ると思いま――」
カインが言い終わらぬうちに、ゴルベーザは彼の手を跳ね除け傷に唇を寄せた。
「あ……」
小さな声を上げ身を竦ませるカインに構わず、ゴルベーザは舌で傷を丹念に舐め上げた。ともすれば、閉じかけた傷を開くかのように、乾きかけた血を溶かすかの
ように、硬く尖らせた舌先で掬い取るように舐める。
「ゴ、ゴルベーザさ……ま……」
腰を捻り首を振って逃れようとするのを肩を掴んで固定し、そのまま押し倒す。膝から滑り落ち安息の場を失った魔物の仔達が、抗議するかのように「みゃあ」と
ひと鳴きした。
「お、おやめください……」
「何故だ」
「い、痛痒いです」
「それだけか」
「……何か、変な気持ちになりそうで……」
ほう、とゴルベーザはからかうように笑った。
「どんな気持ちだ」
「……」
「構わん。言ってみろ」
頬を紅潮させ、長い睫毛を何度も瞬かせ、潤んだ青い眸で恨めしげに見上げてくる。
「……し……したくなるので」
素直な言葉にゴルベーザは含み笑いして、首を小さく横に振り続けるカインの、形だけの抵抗のために腕に添えられた白い手首を掴み、自分の漆黒の兜へと導い
た。
「邪魔だと思うなら脱がせてもいいぞ。おまえが思うほど、重要なことでもない」
主導権は本来の場所に収まった。
カインは目を見開き口を小さく開けたまま驚愕の表情を見せた。主の言葉を訝しむように眉を寄せしばらく何か考えていたが「いいえ」と首を横に振り、黒い兜に
添えていた手を離し座面に投げ出した。
「遠慮しているのか」
「邪魔だと思ったことは、正直、ありますが……いまはまだ時機でないように思います」
「よくわからんな」
「言わば……『願掛け』のようなものです」
「……」
ゴルベーザは黒い兜の下で眉をひそめ、目の前の顔をじっと見下ろした。
「願いが叶うまで。すべてのクリスタルが揃うまで」
「……そうか。くだらんな」
「くだらないから……くだらない日常こそ大切にしたいです」
「そういうものか」
「ゴルベーザ様の願いが叶ったとき、私の願いも叶うでしょう」
「……」
今日は潔く負けを認めよう。
きっと、と言い添えた迷いの無い美しい笑顔を見つめていると、まもなく来るその日をどう過ごそうかという考えが過ぎり、ゴルベーザは配下の青年に知れること
のない自嘲の笑みを浮かべた。
2016/05/06