蒼玉

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 その石は空の青よりも海の青を思わせる。石の中央に輝く六条の光を眺めながら、何かに似ている、と思い巡らす。やがてカインは、それが子どもの頃、海の中か ら見上げた太陽に似ているのだと気づいた。


 一度だけ家族で海へ出かけたことがある。少なくともカインの記憶にあるのは一度だけだ。病弱だった母の体調の良い日を見計らい、竜騎士団団長という激務の合 間を縫って、父はカインを海水浴に連れて行ってくれた。
 湖とは比べ物にならない広さと海水のしょっぱさに臆したのも最初だけで、すぐに波と戯れ砂の城を作り魚を追った。
 砂浜に目を向けると、幾人もの使用人が差し掛ける大きな傘の許で、白い服を着た母が手を振ってくれた。大きく手を振り返し、上達したはずの泳ぎを見せつける ために勢いをつけて砂底を蹴った。途中大きな波に飲まれ身体の自由が利かず慌てふためいたが、溺れる寸前で父に抱き上げられた。父は無鉄砲を叱ることも過剰に 心配することもせず「危なかったな」と白い歯を見せて笑った。
 泳ぎ疲れるとだらりと身体の力を抜き、波間にたゆたう海草の真似事をした。海水が沁みるのを堪え目を開け空を見上げる。ぎらぎらと輝く太陽は水中から見上げ ると柔らかな陽射しに変わる。眩しさに目を細めると、幾条もの光が放射状に視界いっぱいに広がる。首を左右にゆっくり傾げると自分の動きに合わせて光も揺れ る。それがおもしろくて息が続くまで何度も首を揺らした。


 カインはゴルベーザから手渡された青い石の美しさにしばし魅入っていた。
 宝石についてほとんど何も知らず興味もないカインは、正直なところ、これがどれほどの価値を持つものなのかわからない。それでも、深く澄んだ鮮やかな青色と 輝きに、さらに懐かしい思い出に心動かされた。

「蒼玉だ」
「美しいです」
「これだけ見事な星条だと、値も跳ね上がる」
 せいじょう、と呟いてわずかに眉を寄せたカインに、ゴルベーザが怪訝そうに首を少し傾げ石を指差す。
「星があるだろう」
「……あ。そうですね」
 この光は「星条」と言うらしい。太陽の光に似ていると思ったことは主に伏せておこうとカインは思い定めた。
 幼い頃の記憶がないという主に、自分のしあわせだった幼年の想い出を話すことなどとてもできないが、請われれば話さないわけにはいかない。カインは表情を読 み取られないように石に視線を落とし、唇を右手の甲で軽く擦った。
「おまえにやろう」
「……高価なものではありませんか」
 価値のわからない自分が賜ってもよいのだろうか。無粋だと思ったがやはり気になって、カインは遠慮がちにゴルベーザに尋ねた。
「そうだな……これが買えるくらいだ」
「これ……?」
 主が指しているものがわからずカインが首をわずかに傾げると、ゴルベーザは片足を、どん、と軽く踏み鳴らした。
「これが一機、中古だがな」
 カインは驚きで目を見張った。石を乗せていた左の掌に右手を添え、両手で水をすくうように、掌を丸める。大事に思う余り背中を丸め腰まで曲げて蒼玉に意を注 ぐカインの姿に、ゴルベーザがふっと笑いを漏らす。
「そ、そのような高価なものを賜るわけにはいきません」
 カインは頭を下げながら腕を伸ばしゴルベーザの前に石を差し出した。
「私が欲するのはクリスタルだけだ。他の石は要らん」
「ですが……」
 カインは肘を少し曲げて上目遣いに再び青い石を眺めた。こんなものが中古とはいえ飛空艇一機に相当するとは信じ難い。宝石とは、王の冠で輝き貴婦人の白い首 を飾り、見る者に賞賛とため息をもたらすものだ。自分が所有すれば、まさに「宝の持ち腐れ」になりかねない。
「別におまえのために取り寄せたわけでもない」
 負担を軽くしてやろうと慮ってくれたのかもしれないが、ゴルベーザの言葉にカインは眉を曇らせた。
 主が取り寄せたものでないのなら、これはきっと戦利品だ。まだ誰も身に着けず、宝飾品としてさらに美しく生まれ変わるまで箱の中に収められていたものだろう が、自分の知らない誰かが大切にしていたものだと考えると、やはり気が重い。
「裸石なら気にならんだろう」
 自分の憂いはやはり主に見透かされている。ばつの悪さにカインは頬を赤らめ、軽く咳払いをして息を吸い込んだ。
「石の価値がわからない私が賜るより、換金なさったほうが有益だと思――」
「つまらんことを言うな」
「すみません……」
 カインはさらに頬を染めて俯き肩を落とした。主の心遣いに手放しでよろこぶことも素直に感謝することもできない自分の融通の利かなさにほとほと嫌気が差す。 主の不興を買ってしまったかもしれない。カインはゴルベーザをちらりと仰ぎ見ては目を伏せ、を繰り返した。こんなとき、彼の表情がわからないことがもどかし く、それを覆い隠す黒い兜が少し憎らしい。

「要らぬなら、他によろこぶ奴にやろう」
 カインは弾かれたように顔を上げ、ゴルベーザが石を掴もうと手を伸ばしたところで、思わず両手を合わせ石を包み隠してしまった。主の革手袋が手に触れる。カ インは我に返り、自分のしでかした無礼に青ざめ、慌てて手を開き頭を下げた。
「あ……も、申し訳ありません」
 羞恥で身体が熱くなる。耳まで紅くして謝罪するカインに、ゴルベーザは変わらない調子で詰め寄る。
「要るのか、要らんのか。どっちだ」
「い、いただきます! お心遣い痛み入ります」
 石が惜しいのではない。主の心遣いが他の者に向けられることが耐えがたいのだ。
 改めて自分の狭量さと嫉妬深さに呆れ、消え入りたくなるような恥ずかしさを堪え、カインは両手を胸の前に引き寄せさらに深く頭(こうべ)を垂れた。
 ゴルベーザが喉の奥でくぐもった笑いを漏らす。
「やはりおまえは思ったとおりの反応を返すな」
 自分の困惑もこれまでのやりとりもすべて主の予想の範疇だったようだ。顔を上げたカインは頬を染めたまま唇をわずかに尖らせ、せめてもの意趣返しに、彼が言 うはずの言葉を先に口にした。
「単純ですから」
 ゴルベーザは笑いを止め、まじまじとカインを見下ろした後今度は声を出して笑った。主の笑い声にカインも相好を崩し、したり顔をごまかすように下唇を上の歯 で巻き込み、熱を取るように片手で左右の頬を交互に押さえた。
「早速加工させるとしよう。何が望みだ。指輪か。首飾りか」
「……」
 宝飾品に興味のないカインは、どう応えていいものか考えあぐね、微かな唸り声を上げて小首を傾げる。
「私に任せるか」
「お願いします。ぜひ」
 渡りに船とばかりに即答したカインを見透かすように、ゴルベーザが息を漏らす。
「そう面倒がるな」
「い、いえ、そういうわけでは……すみません」
「今日は謝ってばかりだな」
「す――」
 またもや謝ろうとしたカインの丸く窄めた唇に、ゴルベーザは立てた人差し指をそっと押し当てた。彼はその手でカインの掌から蒼玉を摘み上げ顔の前で石を四方 から眺めた後、カインの右手を取り、中指の根元の上に石を乗せた。
「魔法防御にも効果があるので、手袋の上から着けても問題ない」
「はい」
 次に彼はカインの鎖骨と胸骨の間に石を当てた。ずっと掌に乗せていたため石の冷たさは感じなかったが、カインは僅かに身を竦ませた。
「首飾りよりも、色に合わせた甲冑をあつらえて埋め込むか」
 さらに新しい甲冑を下賜されることも決して本意ではなかったが、他人事に聞こえないように注意を払いながら、お任せします、とカインはゆっくり頭を下げた。
 ゴルベーザはカインの顎の先を摘み顔を上げさせ、青い石を鎖骨から首筋へと滑らせ耳朶に当てた。
「耳飾りには……少し大きいな」
「それには、対でなければ……」
「もう一つ探せということか」
「い、いえ、そのようなつもりでは」
 カインは頬に朱を上らせ身を捩り、頭を軽く振った。
「どうした」
「すみません。くすぐったくて……」
 口にするのは却って逆効果だと思ったが他に言い訳も思いつかなくて正直に告げた。案の定ゴルベーザは、からかうように、青い石でカインの耳朶を弾き革手袋に 包まれた指先で耳介をなぞり始める。カインは首を竦め目を伏せ、主の愛撫とも呼べない気まぐれな指の動きに翻弄されないよう唇を緩く噛んで堪えた。
 硬い石が耳朶からこめかみに当てられる。
「おまえの眸と同じ色だと思ったのだが、傍で比べると違うな」
 カインは長い睫毛を瞬かせ、目を見開き黒い兜の向こうにあるはずの双眸をじっと見上げた。
「おまえが空なら、これは海の色だ」
「……はい」
 ひと目見たときから自分もそう思ったと言おうか言うまいか。カインは唇を何度も舐め口の中で舌をもごもごと動かしていたが、次にゴルベーザが放った言葉にさ らに目を丸くし破顔した。
「海に映る星……いや、映るのなら、月か太陽だな。知っているか。水中から見上げた太陽はこれに似ている」
 まるで同じ思い出を共有しているかのようなゴルベーザの言葉にカインは、知っています、と声を弾ませ黒い甲冑に腕を回し身体を寄せた。
 不意に抱きつかれたというのにゴルベーザは一歩も揺らぐことなくカインを抱きとめ、蒼玉を持つ手で金の髪をやさしく撫でた。
「どうした」
「……すみません。このまま……よろしいですか」
「おかしな奴だ」
 ゴルベーザの低く穏やかな声はどこまでもやさしい。たとえ鼓動を聞けなくとも体温を感じなくとも広い胸の中は心地よい。蒼玉の下賜もいまなら素直によろこぶ ことができる。いやむしろ、先ほどまでとは打って変わり、この青い石に愛着さえ抱き始めている自分の変わり身の早さがなんともおかしい。カインは緩んだ頬を黒 い甲冑に押し付け、自分の衝動を笑って受け止めてくれる主の鷹揚さに感謝を捧げ、髪を撫でられる心地よさにうっとりと目を閉じた。

「竜神の兜だ」
 カインは、聞き慣れない兜の名を口にしたゴルベーザの黒い兜を見上げた。
「同程度のものをもう一つ見つけ出し、兜の目に埋め込むのはどうだ」
「たいそう貴重なものなのでは……」
「この世界ではな。当てはある」
「別の世界に、ですか」
 ゴルベーザは、ああ、と頷いて、カインを抱いていない方の腕を伸ばし、二人の視界に入る位置で蒼玉を掲げた。
「できあがったら、竜神の兜と名付けよう」
「飛空艇一機と等価の兜になりますね」
「不服か」
「す……いえ、楽しみです」
 ゴルベーザは、それでいい、と返答を褒め、首の後ろに手を回し一つに結わえた金の髪を解くと、カインの脚の間に片膝を割り入れた。股間を膝甲で撫で擦られ、 カインは熱い息を漏らしながら少しずつ後ずさる。
 背後のベッドまであと数歩。カインは長い睫毛を震わせて目を閉じ、黒い兜の口許を覆うガードが滑る音を心待ちにして、顔を真っ直ぐに上げ少し唇を開いた。








2009/09/25

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