愛は惜しみなく奪う

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 部屋に入るや二匹の魔物の仔の熱烈な歓迎を受けて、ゴルベーザは黒い兜の下で相好を崩した。白いリボンを首に巻いたクーは胸許に飛びつき甲冑の装飾の凹部分 に爪をひっかけぶら下がり、青いリボンを巻いたアールは足許にまとわりつき、あやうく蹴り飛ばしかねない。
 腰を曲げて腕を差し出すと、アールは当然のように腕の中に飛び込んできた。右手にクー、左手にアールを抱えてゴルベーザは、長椅子まで進み腰を下ろした。
 扉を押さえていたカインが口許に笑みを湛えて近づいてくる。白いバスローブ姿の彼は、こんな恰好ですみません、と前合わせを片手で押さえたまま頭を下げた。 シャワーを浴びていたのだろう。頬は上気し、長い金の髪はまだ乾いていなかった。
「ずっと扉の前でうるさく鳴いていて、不思議に思っていたらいらっしゃったので、驚きました」
「魔物は勘がいい」
 ゴルベーザは二匹を座面に降ろし、顎をしゃくってカインにも着席を促した。カインが、失礼します、とゴルベーザの向かいに腰を下ろす。
 早くも成猫の大きさにまで成長したクーとアールは、我先にとゴルベーザの膝の上を奪い合っていたが、ゴルベーザが脚を大きく広げたので二匹は膝の上をあきら め、股の間に入り込み黒い甲冑に覆われた腿に銀色の身体を擦りつけ、みゃあみゃあ、と甘えた声を上げ始めた。
「何を考えている」
 口許を緩めてじっと二匹を見つめていたカインにそう尋ねると、彼はびくりと居住まいをただし、首を小さく横に振りながら舌を緩く噛んだ。
「言いにくいことか」
「いえ……つまらないことです……」
 ゴルベーザがほんの少しだけ首を傾げると、カインは溜息を一つつき口を開いた。
 自分のわずかな所作も見逃さずその意図を正確に理解するカインの怜悧さは、ゴルベーザが彼を気に入る理由の一つだった。
「こいつらがあまりに懐いているので……」
 カインはいったん言葉を切って、唾を飲み込んだ。
「ゴルベーザ様は甲冑にマタタビをくゆらせているのではないか……と……くだらないことです。すみません」
 カインは、赤くなった顔の前で必死に手を振った。
「……意外と早くばれるものだな」
 え、とカインが目を丸くして動きを止め固まってしまったので、ゴルベーザは堪えきれず、くっくとくぐもった笑いを漏らした。
「……ご冗談ですね」
 カインはわずかに唇を突き出し眉を寄せた。赤くなったり青くなったりする彼の反応がおもしろくて、いつもつい、からかいたくなる。これで本人はポーカーフェ イスのつもりなのだからなおさらおもしろい。
 いや。ゴルベーザは思い直した。ここに来た頃の表情はもっと硬かった。感情を面に出さないように努めているのがよくわかった。それはいまも同じだが、箍(た が)は随分緩くなったようで、こうして唇を尖らせたり眉尻を下げたり白い歯を見せたりするようになった。
 いや。ゴルベーザは再び思い直した。何もそれはカインだけではない。現に自分は、よく笑うようになったでないか。

 ゴルベーザの突然の訪問に昂奮冷め遣らぬ二匹の魔物だったが、ようやく落ち着きを取り戻しおとなしく横たわった。喉許を二匹交互に撫でてやると、ゴロゴロと 喉を鳴らし大きなあくびをして、気持ちよさそうに目を閉じた。
 しつけをカインに任せ、排泄と爪研ぎの場所を憶えてから二匹を自室に入れようとゴルベーザは考えていたが、魔物は成長が早く、既に、掌に乗る大きさだった頃 が懐かしい。幼い姿をもっと記憶に残しておくべきだったと思い、いま、目前で気を赦しきって眠っている姿も人の上背より大きくなってしまう前に記録に残してお くべきだと思い、ゴルベーザはカインに紙とペンを持って来るように命じた。
 カインが紙を挟む板も一緒に持ってきたので、それを受け取りながらゴルベーザは満足そうに頷いた。手渡された不恰好な軸だけのペンを訝っていると、カイン が、抱き合うように眠っている二匹を指差した。
「羽根にまとわりついて邪魔ばかりするので、外しました」
 そうか、とゴルベーザは頷いて、身体を二匹の方へ向け長い脚を組み、腿の上に乗せた板に紙を挟み、ペンを走らせ始めた。
 かりかりとペン先が紙を擦る音が部屋に響く。
「クーの方が毛色が濃いな」
「アールの方が気が強いんですよ。実は」
 ほう、とゴルベーザはカインの話に関心を寄せた。 
「普段はクーに気を遣っているのに、喧嘩をしかけるのはアールの方です」
 クーは積荷に紛れていたところを拾い、アールは見捨てられた村で鳴いているところを拾ってきた。クーはカインに敵意を剥き出しにするほど粗野だったが、アー ルは飼われていただけあって人懐っこくおとなしかっただけに、カインの話は意外で興味深かった。
「叱ると、クーは拗ねてそっぽを向きますが、アールは甘えて擦り寄ってきます」
「飼い主と同じだな」
「……そうでしょうか」
 カインの頬にまた朱が差す。 
「アールの方が喰えん奴かもしれんな」
「それは、そう思います」
 でもどちらも可愛いです、と言い足して目を細めたカインは、当初渋々世話を任せられたとは思えないほど魔物の仔を慈しんでいるようだ。彼の笑顔にゴルベーザ は、魔物たちが自分の上背より遥かに大きくなっても笑って世話をしていられるだろうか、と意地悪く考え、大きな魔物に翻弄されるカインを想像して忍び笑いをし た。

 手を止めるとカインがそわそわとした様子で首を伸ばしてきたので、描き上げた絵を彼の方へ向けて見せてやった。カインは目を見開き口を小さく開けたまま、お お、と息を漏らした。
「すごい……絵もお上手なんですね」
 あんな短い時間で、とさらに感嘆の息を吐いて、カインは紙を手に取りまじまじと眺めた。
「いまにも動き出しそうです」
「眠っているのにか」
 それが褒め言葉であることはもちろんわかっていたが、いつもの癖が出てしまった。
「『こちらまで眠くなるようです』と言うべきでしたね……」
 本当にそう思っているわけではないだろう。顎を少し引いた上目遣いだが、語気には珍しく反抗が込められていて、ゴルベーザは、何故かぞくぞくしたものが背中 を走るのを感じた。だが、あまりからかいが過ぎると警戒され、素直な表情を引き出せなくなってしまうのも惜しいので、ゴルベーザは、そういうわけじゃない、と いつものカインの口調を真似てみせた。
 案の定、カインはばつの悪そうな笑みを浮かべ、話を逸らそうとした。
「絵を学んでおられたのですか」
 返される答えがわかっている訊き方だった。あのような荒廃の地で育ったのにそんな悠長な暇などなかったはずだ、と。
「『習うより慣れろ』だ」
「才能だと思います。本当に。色のあるものも拝見したいです」
「そのうちな。おまえも描いてみろ」
 いいえ、とカインは勢いよく首を横に振った。いつになくはっきりとした意思表示は却ってゴルベーザの感興をそそる。
「絵は苦手で……下手なので……」
「巧く描けとは言っていない」 
 ゴルベーザはカインにペンを差し出した。金の髪に細い指を入れこめかみを何度もさすりながら、カインは困り果てた顔をして首を傾げている。手を下ろし、お赦 しください、と頭を下げてきたが、ゴルベーザはカインの顔の前でペンをゆらゆらと揺らし続けた。カインはペンをちらりと窺い見ると顔を上げ、観念して深いため 息をつき、それを受け取った。
「本当に下手なんですが……」
「構わん」
 カインは、もう隠そうともせず、大きなため息をついた。

 紙と魔物の仔たちに真剣な眼差しを交互に送りながら、カインはペンを動かした。肩に力が入り、ペンを持つ指は過分な圧力のせいでピンクに色づいている。集中 するといつも口を少し開けてしまうことに本人は気づいていないようだ。
 あまりに注視したためか、視線を感じたクーがぴくりと耳を動かし顔を起こした。あ、とカインが情けない声を上げたので、ゴルベーザは腕を伸ばし、寝てろ、と クーの頭を撫でる。魔物の仔は大きなあくびをして再び横になった。
 線画を描くのにそこまで力を入れここまで時間をかけることが不思議だったが、ゴルベーザは何も言わず腕を組み背もたれに背中を預け、懸命なカインの様子を飽 きもせず眺めていた。

 カインが、ふうと息を吐き出し左手を下ろしたので、慌てるカインをよそに「見せてみろ」と彼の膝の上から絵を取り上げた。
 過ぎた謙遜だと高を括っていたゴルベーザは、カインの描いた絵を一目して絶句した。
 どうやったらこんな絵が描けるのか。こんな風に見えているのか。そこにはのたくった線で信じがたい頭身の、見たことのない生き物が描かれていた。
 息を止めなんとか堪えようとしたが、肩が小刻みに震えるのを抑え切れず、ついに声を上げて笑い出してしまった。
「だから下手だと言いましたのに!」
 耳まで赤くしたカインが絵を奪い返そうと手を伸ばしてきたが、ゴルベーザはくるりと身を反転させ、彼から絵を遠ざけた。 
 笑っているうちにゴルベーザは腹に違和感を憶え、身体を少し前に折った。そうか、これは……
「おまえのおかげだ」
 え、と膨れっ面のカインが首を傾げた。
「これが『笑い過ぎて腹が痛い』ということか。おまえのおかげで初めて知った」
 眉を寄せ口を尖らせていたカインは、眉尻を下げ唇を歪めた。カインが瞬時に何を思ったかはわかっている。
「そう情けない顔をするな」 
 ゴルベーザはカインの頭を素早く撫で再び絵に視線を落としたが、また噴き出してしまいそうなので、すぐに顔を逸らした。
「気の塞ぐことがあったら、この絵を眺めることにしよう」
「……ゴルベーザ様でも落ち込むことがおありですか」
 膨れっ面を隠さずにじっと睨んでくるカインの両頬を、ゴルベーザは片手で挟んでぎゅっと押し込み小さく揺さぶった。
「おまえにいつまでもそんな顔をされたら、落ち込むかもしれんな」
 笑いながらそう言うと、眉尻を下げたカインがぼそっと何か呟いた。潰れた頬と突き出た唇のせいでそれはほとんど聞き取れなかったが、微かに「……るい」と聞 こえたので、ゴルベーザは気を良くして、カインの頬を解放した。
 挟まれていた頬を大げさにさすりながらまだ恨めしげに見上げてくる彼の頭を撫で、ゴルベーザは腰を上げた。その振動で、眠っていた魔物の仔たちも慌てて飛び 起きる。カインもローブの裾を押さえて立ち上がる。
「お帰りですか」
 ゴルベーザは頷いた。
「おまえの意外な弱点もわかったことだしな」
「私の弱点などとっくにご存知だと思っていましたが」
 頬に含羞の色を浮かべ上目遣いで見つめてくるカインを見て、ゴルベーザは思い当たる節をあれこれ頭の中で挙げてみた。
 耳許で名を呼ばれることか、右のわき腹を撫で上げられることか、男なら誰しもが弱いところを責められることか。

 感情を顕わにすることに何のためらいもないように、長い睫毛を瞬かせ、窺うように見上げてくる青い眸。ふっくらとした唇は、何か言いたそうに少し開けられ、 濡れて光る舌がちろちろと見え隠れしている。小さな企みを早く明らかにしたいのだろう。急かすように小首を傾げ、口を横に広げはにかむように微笑んだ。押し上 げられた頬の肉がいっそう艶やかに輝く。
「ゴルベーザ様です。ゴルベーザ様が私の弱点です」
「……可愛らしいことを言うじゃないか」
 的外れな自分の俗っぽさが気恥ずかしかったが、動揺を気付かれないように振舞うことは造作ない。
「私もだ」と言ってやれば彼がどんなに喜ぶか想像に容易かったけれど、ゴルベーザはそれを口にすることはせず、代わりにカインの細い腰を抱き寄せた。湯上がり の香りが鼻腔をくすぐる。乾きかけた長い髪を撫でてやると、長い睫毛を震わせ、腕の中で体重を預けてきた彼の白い手が、ためらいがちに黒い兜に伸ばされた。
 慎ましさと大胆さ、稚(いとけな)さと艶(なまめか)しさ、相反する形容が同居する配下の青年はこの上なく美しくいとおしい。
 離したくないと思い、それが、優れた部下を手許に置いておきたいと思う支配欲なのか、しどけない姿を誰にも見せたくないと思う嫉妬なのかゴルベーザ自身にも わからなかった。
 胸の内に芽生えていた感情に名を付けることは後回しにして、いまの彼の望みを叶えてやるために、細い指先が黒い兜の口許を覆うガードに触れるよう、自分から 顔を寄せてやった。








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2008/12/28

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