幻臭

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 いつもより強く臭うそれに眉を寄せ顔をしかめ、ゴルベーザは足を止めた。
「何か臭うか」
「匂いますね」
 自分で尋ねておきながら予想しなかったカインの返答に、ゴルベーザは一驚を喫して彼の顔をじっと見た。やはりいつもの幻臭ではなく、実際に臭っているのか。
 遣された視線を無言の命令だと取ったのか、カインは頭を下げて了解の意を示してきた。
「少し見て参ります。お待ちください」
「もうよい」
 臭いの許を求めて駆け出したカインの耳にゴルベーザの声は届かなかったようで、彼はせせらぎを軽やかに飛び越え、きょろきょろと辺りを見渡し、犬のようにくんくんと鼻を利かせながら、また跳ぶように駆けて行った。


 手に入れた鉱山の視察とその利権配分の交渉を順調に終え、ゴルベーザはいつになく上機嫌だった。治める長が物分り良く従順であれば、血を流すことも無く、こうして口頭のみの簡単な交渉であっさりとそれを支配下におくことができる。なのに正義感面した愚かな輩の多いことだ。ひたすら平身低頭で自分たちを出迎えた領主のさまと思い比べ、ゴルベーザは漆黒の兜の下で冷笑を浮かべた。
 村の外れに駐機した飛空艇に戻る道すがら、いつもなら見過ごしがちな景色ものどかそのもので、こうして気に入りの配下と二人、何を語るでもなくのんびりと歩くのも悪くない。そう思った矢先にあの不快な臭いが漂ってきたのだった。


「お待たせしました」
 息を弾ませ戻ってきたカインは、疑問が氷解したためか、うれしそうに頬を染め白い歯を見せた。
「判明しました。こちらへ。見ていただいたほうがよろしいかと思われます。一目瞭然です」
 カインは腕を前に差し出し、さあ、とゴルベーザを促した。
 ゴルベーザは、長年自分を煩わせてきた臭いの許が、こんな容易くわかったことにいささか疑念を抱きつつ、カインに言われるがまま、何度も振り返りながら自分を気遣う彼のあとに続いた。
 臭いは次第に強くなる。カインは間違いなくそれを探し当てたのだろう。
 歩き出して間もなく、カインは一軒の貧しい民家を指差した。家の窓は開け放たれ中に人影も見える。
「こちらからご覧ください」
 家の中を覗こうというのか、カインは窓から斜めになる方向に位置を定めた。
「驚かせてはいけないと思いまして」
 カインは声を潜め、どうぞ、とゴルベーザに場所を譲った。家の中に視線をくれるとそこには、少女のような若い女とでっぷりとした中年の女が粗末な椅子に腰掛け、それぞれの胸に抱いた赤子に乳を与えていた。若い女は慈愛に満ちた目で乳飲み子を見つめ、小さな声でなにやら歌っている。二人の女は時折顔を見合わせ、互いの子の顔を覗き込みながら談笑している。
「通りかかった者にも尋ねてみましたが、赤ん坊の匂いでした」
 懐かしいものを見るかのようにカインは口許に笑みさえ浮かべ、彼にしては珍しく、饒舌に語った。
「私も知りませんでしたが、乳や体臭が混じってあんな匂いがするそうです。あの二人は母娘で、あっちの赤ん坊は生まれたときから『叔父さん』と――」
 カインの言葉を最後まで聞かず、ゴルベーザは無言で踵を返した。
「ゴルベーザ様?」
  
 頭が割れるように痛む。
 あれは現実の赤子の臭いだったのか。いま見た子らは泣いてなどいなかったのに、か細い赤子の泣き声が耳から離れない。早くここから去らなければ。
 主の様子に当惑しつつ小走りに後を追ってくるカインを従え、ゴルベーザはさらに足を速めた。



 飛空艇に戻るとゴルベーザは操縦室でなく主寝室へ向かった。扉を乱暴に開けベッドに腰掛け項垂れ、痛む頭を抱える。
 頭痛をやり過ごすため固く目を閉じる。瞼の裏の、真っ暗な闇が蠢き始める。それは次第に渦を巻き、その中心がぼんやりと明かりを持ち、突如そこに、白い布に包まれた赤子の像が現れた。不快な臭いを漂わせか細い声で泣き続けている小さな赤子。何故こんなものが見えるのか。
 吐き気にも襲われ、ゴルベーザは思わず兜の上から口を押さえた。吐けば楽になれるのか。楽になればこの像も消えるのか。

「お休みになられたほうがよろしいのでは。何か薬をお持ちしますか」
 小さな、だが耳をそばだてずとも聞こえるほどの大きさでカインが声をかけてくる。適度な距離を保ち、気遣わしげに様子を窺ってきた配下の青年に、ゴルベーザはいつものように声をかけた。
「おいで」
 いつもよりゆっくりと、ためらうように近づき傍らに立ったカインの細い腰に腕を回し抱き寄せ、ゴルベーザは漆黒の兜を預けるように彼の胸にもたれかかった。
「ゴルベーザ様?」
 困惑に満ちたカインの声が頭上に降って来る。
「あ、あの、ゴルベーザ様……」
「少し黙っていろ」
「はい……」
 目を閉じればあれが見える。ゴルベーザは目を開けたままぼんやりと、カインの甲冑に施された竜の鱗を模した装飾を間近で眺めた。
 程なく頭痛は治まってきたが、代わって胸がつかえ、呼吸をするのも苦しくなる。ゴルベーザは肺の奥から搾り出すように息を吐き出した。荒い呼吸に低い呻きが混じる。
 だらりと下げられていたカインの腕がゴルベーザの兜に伸び、周りの空気ごと抱くようにふわりと回された。遠慮がちな抱擁に、さぞかし勇気を振り絞ったのだろうと思うとそれがいじらしく、ゴルベーザは、ふ、と息を漏らした。胸につかえていた熱い塊が全身に解け出し、指先にまで熱を運んでいくように、身体が温かく軽くなってくる。ゴルベーザはもう一度大きな息を吐いて彼の腰に回した手で軽く尻を二度叩き、頭を起こし顔を背け、カインの腹を掌で軽く押した。
「もう下がれ」
「はい……」

 あれを自分は知っている。今日初めて見たのではない。子どもの頃だった。いつもそうだ。あれはいつのときも見えていた。
 知っているのにわからない。わからないのは忘れてしまうからだ。いま見たあれもいずれ忘れてしまうだろう。そして再び現れては自分を苛む。それが何年も繰り返されてきた。
 あれはいったい何なのか。向き合おうとすればいつも頭がぎりぎりと痛み、それ以上考えられなくなる。あるいは「考えるな」という警鐘か。
 頭の中で鐘を鳴らすのは誰だ。地を這うようなしゃがれたあの声は誰の声だ。

 かちゃりとドアノブを回す音で、ゴルベーザは我に返る。
「カイン」
 ゴルベーザは扉に手をかけた彼の名を呼んだ。カインが、はい、と振り返り向き直る。
「私はそんなに酷いざまか」
「……いえ」
「顔に書いてあるぞ」
「いえ……」
 カインは俯き、形の良い唇を歪ませた。
「苦しんでおられるのに、何もしてさしあげられないのが歯痒くて、口惜しくて……」
「何もせんでいい。居るだけでいい」
 カインは頬を緩めたが、すぐ口を引き結んだ。感情を表に出さぬよう努めているのだろう。彼が一歩こちらへ踏み出そうとしたところでゴルベーザは片手を挙げ、それを遮った。
「憐れみは要らん」
「そ、そんなつもりでは……」
「呼ぶまで下がっていろ。出立してよい」
 カインは足を止め、下唇を上の歯で巻き込み強く噛み締め、落胆を隠そうともせず鼻から長い息を吐いた。
「……わかりました。隣に控えておりますので、御用があればいつでもお申し付けください」
 肩を落として部屋を出る彼の背中にもう一度声をかけてやりたいという衝動に駆られたが、ゴルベーザはそうしなかった。
 扉が閉まり、再びゴルベーザはひとりになった。

 彼の腕の中は存外心地良かった。再び包まれれば、その温もりが恋しくなるだろう。
 弱った姿は見せられない。情けない姿も見せたくない。だが、彼にならそれも構わないと思う自分の心が不可解だった。
 何者にも頼らずひとり生きてきたゴルベーザにとってかけがえのない者の存在は恐怖に近い。

 飛空艇のエンジンがかかり機体が揺れ、部屋が揺れる。ゴルベーザは小さな丸い窓に寄り外の景色を眺めた。離陸した飛空艇がゆっくりと上昇し、訪れた村の全景が箱庭のように現れる。
 あの母娘の家はどのあたりだろうか。
 思いも寄らない自分の関心に、ゴルベーザは苦笑するしかなかった。理由はわかっている。
 あの臭いは不快なだけでなくどこか懐かしく胸を締め付ける。








2009/05/17

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