ふたりと一匹

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 ゴルベーザの部屋に入ったカインは、微かに漂う獣の匂いに眉をひそめた。この部屋に入室を許されている者は片手に数えるほど、その中で、このように獣の臭いを放つ者はいない。カインは、険しい顔つきのまま、部屋の奥まったところで自分を待つ主の許へ向かった。
「お呼びですか」
 大きな机の向こうの椅子にゆったりと腰掛けているゴルベーザに頭を下げ、顔を上げた。
「鼻は利くようだな」
 主の言葉で、カインは、臭いの許を訝しんでいたことが顔に出ていたのだとわかり、感情を顕わにしてしまったことを恥じて、はい、と小さな声で答え、俯いた。
 ゴルベーザはふっと息を漏らして、椅子を後へ大きく引いた。
 彼が膝の上に乗せているものを見て、カインは、あ、と驚きの声を上げた。
「猫……」
 匂いの主である、銀色のふわふわとした毛並みの仔猫が、主の革手袋の指先に噛り付いていた。小さな前肢で主の指を挟みこむように押さえ付けている様子はいかにも愛らしく、カインは思わず微笑んだが、仔猫はカインに気づくと、口を離し小さな牙を剥き出して、うーっと低い声で唸り出した。
「猫ではない。これは魔だ」
「魔……」
 カインは小さな獣の、青みがかった銀色の毛並みとそれより少し色の濃い斑点を注視した。
「ケットシーですか?」
 一撃必殺の技を繰り出す魔物を思い浮かべ、カインはさらに眉をひそめた。
「クアールだ」
 主が獣の喉許を撫でると、クアールの赤子はごろんと腹を見せ、また彼の指を押さえつけて、歯を立てたり、ちゅうちゅうと吸い付いたりし始めた。ゴルベーザが赤子の上唇をめくると、小さな逆三角形の牙が見え、なるほど、それは猫のものより鋭く長かった。現に、彼の革手袋の指先はいまにも穴が開きそうで、仔猫と同じ愛らしい仕種をしていてもやはり魔物なのだと顔をしかめる一方で、カインは、主の膝の上でじゃれつく赤子と、それにじっと視線を落とし、よしよし、と慈しみに満ちた声で相手をしてやるゴルベーザを交互に眺めながら、温かいものが胸に広がっていくのを感じて、相好を崩した。
「世話をできるか」
「私……ですか……」
 突然のことに、カインは言い澱んだ。子どもの頃には犬や猫を飼ってはいたが、それらの世話は使用人任せで、カインは、まさに可愛がるだけだった。しつけなど見当もつかない。まして、相手は猫ではなく魔物なのだ。
 カインはクアールの赤子にじっと視線を注いだ。自分が断れば、主はこれをどうするのだろう。いまの彼の様子からすれば、捨て置くことはなさそうだが、誰か他の者に任せるのだろうか。
 ゴルベーザに対して常に従順なカインだったが、魔物の赤子の世話という、自分にとって未知の領域に、その命令を安易に受け入れることは却って無責任だと思い、どう答えたものかと逡巡した。
 カインの視線に気づいた魔物が、尾をばたんばたんと主の腿に打ち付けるように左右にゆっくりと振り始めた。カインは、それが猫の、怒りを表す仕種だということを知っていた。
 主に対する態度と明らかに違う。まるで、邪魔をするな、と言っているかのようだ。
 ひとつため息をつき、もう一度頭の中を整理してみる。他の者が世話を任せられ、彼ないし彼女が、赤子を抱いて足繁くこの部屋に通い、赤子を間に挟んで主と和やかに言葉を交わす場面を想像すると、ゴルベーザの一番の配下を自認しているカインとしては、それがおもしろくなくて、無意識に唇を歪めた。
 ゴルベーザがふっと息を漏らした。
「積荷の中に紛れ込んでいたらしい」
「……はい」
「猫だと思い、係の者が自分たちで飼おうとしたがクアールだとわかり、どうしたものかと騒いでいるところに、私が通りがかったというわけだ」
「そうでしたか」
 なぜクアールの赤子がここにいるのかはわかった。自分が呼び出された理由もわかっている。
 主の指で遊ぶことに飽きたのか、赤子は身体を起こし、彼の黒い篭手に覆われた腕を、滑り落ちそうになりながら登り始めた。それを途中で捕まえたゴルベーザは、赤子を膝の上に仰向きで乗せて、前肢を掴んで万歳の恰好をさせ、そのまま左右にリズム良く揺さぶった。赤子は、声に出さず、みゃあ、と口を開けた。
「魔物は成長が早い。半年もすれば、おまえの上背より大きくなるだろう」
「やります。私が世話をします」
 彼と魔物の赤子の睦まじい様子をいつまでも見ていたいと思う気持ちとは別に、赤子の態度はカインにつれなくて、自分だけが蚊帳の外にいるようないまの状況を打破したい気持ちから、カインは半ばやけくそ気味に答えた。
 魔物に嫉妬しているのか、俺は。
 自分の狭量さにうんざりして、カインは主に気づかれないよう、小さな息を吐いた。

「おいで」
 いつものように呼ばれたカインは机を回り込み、ゴルベーザの傍らに寄った。
 彼は魔物を腕に抱き直して、カインに差し出した。
「恐る恐るではなく、毅然と接することだ」
「わかりました」
 カインは唾を飲み込んで口を引き結び、魔物に強い視線をくれた。クアールはカインをじっと見つめたまま、尾をぶらぶらと宙で揺らした。
 カインは赤子を受け取り、前腕と腹で挟み込むように抱くと、頭を撫でてやるため左手を伸ばした。
「……っ!」
 魔物がカインの指にがぶりと噛み付いた。革手袋越しとはいえ、人差し指に鋭い痛みが走り顔が歪む。
「引かずに突っ込んでみろ。喉の奥まで」
 ゴルベーザの言葉に従って、カインは噛まれた指をそのままクアールの口の中に突っ込んだ。魔物がカインの指を吐き出そうとさらに大きく口を開け咳き込んだところで、カインは指を引き抜いた。
 この野郎、と心の中で毒づきながら、カインは噛まれた指を二、三度振り、その指で魔物の喉許を撫でた。
 身を硬くしていたクアールだったが、そのうち身体を弛緩させ目を閉じ、喉をごろごろと鳴らし始めた。まるで助けを求めるかのように前肢を伸ばしたり縮めたりを繰り返し、仰向けになって腹を見せた。
 とりあえずこれ以上噛まれることはなさそうだ、とカインは安堵の息を吐いて、顔を上げた。
「任せたぞ」
「はい」
「いつから技を繰り出せるようになるかも観察しておくように」
「はい」
「最初の犠牲者にならぬようにな」
「はい」
 調子よく返事をしたものの、カインは、排泄のしつけや餌やりのことで頭がいっぱいで、彼の言葉にもほとんど上の空だった。
 頼むからちゃんと育ってくれよ……
 魔物に呼びかけようとしたカインは、大事なことを忘れていたことに気づいた。
「ゴルベーザ様」
「ん?」
「名まえはどうしましょうか」
「クー」
「え?」
「クアールの『クー』だ」
「なるほど……」
 主が名づけたなんともかわいらしい名まえに、なんとも言えない面映さを感じ、カインは俯いて下唇を緩く噛んだ。
 名を呼ばれた魔物が慌てて頭をもたげ、ゴルベーザの方を向き、みゃあ、と鳴いた。
「わかっているようですね」
 クーはカインの腕から抜け出し、ゴルベーザの膝の上に飛び乗った。尾をピンと垂直に立て、銀の身体を黒い甲冑に摺り寄せて、ごろごろと喉を鳴らした。
「ゴルベーザ様」
「ん?」
「いつこれを連れてこられたのですか」
「今朝だ」
 半日経たないうちにこうも懐くものなのか。カインは驚愕の目で主とクーを見下ろしたが、一つの疑念が頭に浮かび、あ、と口を開けた。
 ゴルベーザはカインの様子を見て低い声で笑った。
「術など使っていないぞ」
 また主に考えを見透かされ、カインは頬を赤らめ、顔を背け咳払いをした。畏れを知らぬ赤子だからなのか、術など使わなくとも、主は魔物の扱いに長けているからなのか。おそらくその両方なのだろう。
「おまえが自分より上なのだと教えてやれ」
「はい」
 カインは軽く咳払いをしてから、低い声で凄んだ。
「おい」
 クーは素知らぬ顔でゴルベーザに頭を擦りつけている。主は首をゆっくりと横に振っている。
「ク、クク、クー!」
 言い馴れないためか、その名で呼びかけることはひどく照れくさく、カインは赤面した。クーが動きを止め、カインを振り返る。
「退け」
 クーはふいと顔を逸らし、ゴルベーザの腹に再び身体を擦りつけ始めた。
 主はくっくっと声を殺して笑い、毅然と、と繰り返した。
 カインはクーの襟首を掴んで持ち上げ机の上に置いたが、赤子はまたすぐ、ゴルベーザの膝の上に飛び乗った。
 ニ、三度そんなことを繰り返し、埒が明かないと嘆息したカインは、意を決して、ゴルベーザとその膝の上のクーに交互に、はっきりとわかる動きで視線を送り、首を傾げ、無言で伺いを立てた。ゴルベーザが大きく頷いたので、カインは、言葉にしなくとも自分の訴えを彼が理解してくれたこと、それを了承してくれたことに、顔を綻ばせた。
 軽く咳払いをして口を引き結ぶと、カインは、クーの襟首を掴み上げ顔の高さまで上げ、鼻先が付きそうなくらい顔を寄せると、いつもより低く太い声で毅然と言った。
「いまからおまえの主は俺で、この方は俺の主だ」
 クーは声に出さず、みゃあ、と口を開け、小さな牙を見せた。
「ここは俺の場所で」
 カインはゴルベーザの膝の上に腰を下ろし、クーを自分の膝の上に置いた。
「おまえの場所はここだ。わかったか」
 クーはすぐさま、カインとゴルベーザの間に身を滑り込ませようと頭を突っ込んだが、彼が長い腕をカインの腰に回し、ぴったりと隙間なく抱き寄せたので、弾き出された赤子は、床に落ちてしまった。
 あ、とカインが赤子に目をやると、クーはぴょんとカインの膝の上に飛び乗り、再び、なんとか潜り込めないかと鼻先でカインの腰の辺りを突付いていたが、やがてそれをあきらめ、おとなしくカインの膝の上に座り前肢を折り畳んだ。
 赤子の額を撫でながら、カインはほっと一息ついて、すみません、と首をひねりゴルベーザに頭を下げた。
「第一段階突破だな」
「はい」
 カインは今更ながら自分の大胆な行動に羞恥し、主の膝から立ち上がろうとしたが、長い腕ががっちりと腹に回され、身動きできなかった。
「ゴ、ゴルベーザ様……」
「何だ」
「離していただけますか」
「何だ、嫌なのか」
「そういうわけでは……」
「いま退くと、苦労も水の泡だぞ」
「それはそうですが……」
 ゴルベーザがカインの腹の前で組んでいた両手の指を一本伸ばし、魔物の背を撫でると、クーはごろごろと喉を鳴らして、気持ちよさそうに目を閉じた。
 赤子がこのまま眠ってくれたら、自分も解放されるだろうか。いや、眠ってしまえば、ますますここから動けなくなるだろう。嫌なわけではないけれど、とてもじゃないが落ち着かない。
 自分から膝に乗っておきながら勝手な言い分だと思い直し、カインが浮かせかけた腰を落ち着けると、ゴルベーザは、腹に回していた片手を胸まで上げて、カインの身体をさらに自分の方へ引き倒した。主の身体にもたれ肩に頭を預ける形になり、カインは間近の黒い兜を見上げ、耳を澄ませた。
 背後の大きな嵌め込みのガラス窓からは昼下がりの陽の光が差し込み、塵がきらきらと舞っている。静まり返った部屋、聞こえてくるのは、魔物の赤子が喉を鳴らす音と主の規則的な息遣い。
「ゴルベーザ様」
 小さな声で呼びかけても返事は無い。
 カインは首を伸ばし、ゴルベーザに顔を寄せた。
「ゴルベーザ様」
 やはり返事は無い。眠っているのか、眠っていることにしたいのか。本当のことなどわかるはずもなく、黒い兜の向こうの双眸が閉じられていることを信じて、カインは漆黒の兜の口許にそっと唇で触れた。
 ゴルベーザが何の反応も返さないことにカインは安堵の息を吐き、再びいそいそと彼の肩に頭を預け、ふたりと一匹の、この上なく平穏でしあわせなまどろみに口許を緩めながら目を閉じた。








2008/09/07

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