カインと黒い竜

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 かつて恐ろしく禍々しいと思った姿もどこか愛嬌があるように見える。
 俺も勝手だな、とカインは苦笑いを浮かべ、空中でとぐろを巻いてグルルと唸り声を上げている黒い魔物を見上げながら、傍らのゴルベーザに問いかける。
「やっぱり怒ってる?」
「ああ」
 戦いが存在意義なのだろうか、黒竜は戦闘時以外に呼び出すと機嫌を損ねるらしい。よもや襲い掛かってくることはないだろうが、馴れ合うことを好まないそれは、召喚を頼んだのが自分だと知ればさらに不機嫌になり悪意を向けてくるかもしれない。愛嬌がある、と思ったことを取り消して、カインはゴルベーザの大きな身体の陰になるように一歩後ずさった。
 黒い竜はグルルとまだ唸り続けている。
 唸り声は召喚主であるゴルベーザとの意思伝達の手段で、彼は、唸り声はもちろん、特に声を出すわけでもなく、この黒い竜に己の意思を伝えることができるらしい。精神感応だろうか。自分の心も黒竜に読まれているのではないかとカインは顔をしかめる。

「懐かない?」
「無理だ」
「本当に?」
 ゴルベーザが指を振ると、黒竜は首を伸ばし頭を低く垂れてきた。
「言うこと、よく聞くじゃないか」
「見ていろ」
 ゴルベーザが魔物の鼻先を撫でようと腕を伸ばすと、黒竜はさきほどより一段と大きな唸り声を上げて頭を振った。すんでのところで手を退けたが、その風圧だけで吹き飛ばされそうになり、彼はバランスを崩し膝をついた。
「うわっ……」
 主に怪我を負わしかねない召喚獣の動きを見て、思わず茶化すような声が出た。
 これを使役することは並大抵ではないだろうが、同時に疑問も沸き起こる。何故この魔物が、従順でないにしろ、彼に使役されているのだろうか。

「前に、『召喚は契約だ』って言ってただろ」
「憶えていない」
「言ってた。で、契約ってどんな?」
「私が死ぬまで従い守護する、というものだ」
「……死んだら契約終了?」
「そういうことになるな」
「……こいつは? 一緒に死ぬのか?」
「いや。解放され、自由になる」
「だったら、自由になるために殺そうとしないのか」
「自ら契約を破ることはできない」
「なるほど、契約に縛られてるのか……」
「そういうことだ」
「恨んでいそうだ」
「だろうな。だから従順というわけにはいかない」
「契約締結はどうやって? まさか文書を交わすわけじゃないだろ」
「簡単だ。私がやつを負かした」
「口約束か」
「まあ、そんなところだ」

 疑問を矢継ぎ早に尋ねるカインに答えたのち、ゴルベーザは「もういいか」と尋ねた。カインは、どうぞ、と顎を少ししゃくる。
「何故呼び出させた」
 ああ、とカインは頷き、黒い竜をちらりと見遣った。
「乗れたらおもしろいな、と思ったんだけど、やっぱり無理そうだ」
「そうか……」
 ゴルベーザも黒竜に顔を向けた。
 お手数をかけました、と少し頭を下げたカインに、彼は意外な応えを返す。
「構わん、と言っているぞ」
 え、とカインは目を丸くしたまま、ゴルベーザと黒竜に交互に視線を送った。
「但し、条件があるそうだ」
「……生意気だな。召喚獣のくせに」
 カインはため息混じりに呟いて、首を傾げ、「どんな条件だ」と彼に視線だけで尋ねる。
「身体を弄らせろ、と言っている」
「……嘘だ」
 また自分をからかう冗談を言っているに違いない。カインは腕を組み、ゴルベーザを上目遣いに睨んだ。
「事実だから仕方がない」
「そんなこと聞いたら、もっと怒るとかしろよ」
 嫉妬で、と小さな声で付け加え、カインは首を横に大きく振った。
「それに、獣型の魔物が人間にそんなこ――」
 言い終える前に、黒竜が長く伸ばした舌をカインの足に巻きつけた。足許を掬われ尻餅をつく。二つに割れた舌の先端に股間を挟み込むように擦り上げられ、カインは思わず短い呻き声を上げた。その動きに明らかな『意思』を感じ取り、慌てて人の腕の太さほどもある舌を掴み押さえ留めようとするが、ぬるりと滑り巧くいかない。
「な。嘘ではないだろう」
「『な』じゃなくて! やめさせろよ!」
 カインは声を張り上げた。舌の先端の一方は、潜り込めるところを探しているのか服を破りそうな勢いで臀部をまさぐり、もう一方は、思わぬ刺激で形を変えつつある局部をなぞるように巻きつこうとしている。好きにさせてたまるか、と身体を何とか起こし何度も殴りつけるが魔物の舌はびくともしない。
「早く!」  
 カインが怒鳴る。
 ゴルベーザが、渋々、と言った様子で黒竜に向けて何やら呟くと、魔物の舌はするするとカインの身体から退き、大きな口の中に収まった。
 グルルとまた唸り声。 
「『条件が飲めぬなら乗せてやらぬ』だそうだ」
「乗せていらぬわ!」
 カインは眉を吊り上げ、彼の口調を真似て吐き棄てるように言い放った。立ち上がり、尻に付いた土を払い落とす。魔物の唾液に濡れた服が不快なことこの上ない。カインはその場で下衣を脱ぎ落とし、腹立ち紛れにそれを蹴り飛ばした。剥き出しの下半身を羞じるより、いまは怒りのほうが勝(まさ)った。
「お、おい……」
 呼びかける彼を無視してすたすたと家に向かって歩みを進める。ゴルベーザも後を追い、気遣わしげに声をかける。
「少し見てみたい気がしたのだ。好奇心だ。赦せ」
「……」
「人に対してああいうことを言ったのは初めてだったので、つい興味が湧いた。機嫌を直せ」
「……わかった」
「わかってくれたか」
 カインは顔だけで振り返り、安堵の表情を見せるゴルベーザに、強い視線を投げかける。
「俺が魔物に襲われていても、にやにやして見てる変態だってことがわかった」
「に、にやにやなどしとらん。お、おい」
 再び背中を向けて歩き出したカインをゴルベーザが追いかける。
「もちろん、途中で止めるつもりだった」
「……」
「奴もからかっていただけだろう。本気ではない」
「……いま考えてること、当ててやろうか」 
「何」
 カインは立ち止まり身体ごと振り返り、戸惑いの表情を見せるゴルベーザに、冷たい視線を投げかける。
「主従のときに試しておくべきだった、って思っただろ」
「……い、いや、そんなことは……」
 彼が珍しく狼狽する様子に正鵠を射たことを確信し、カインはにやりと微笑んだ。

 自分で口にしておきながら、そんなろくでもない試みが抗命することなど考えもしなかったあの頃でなくて本当に良かった、と心から安堵する。
 安心すると腹立ちも収まってきたが、もう少しこの状況を楽しんでいたい。そんな意地の悪さも「たまにはいいだろう」と自分に都合よく言い訳して、腕を組み足で拍子を刻みながら、彼の弁明をとっくり聞いてやろう、とカインはあくまでも居丈高にゴルベーザに向き直った。

「そ、それはともかく、これは特別なのだ。付き合いも長い」
「どのくらい?」
「二十年以上になるか」
「そんな子どものとき……そいつ、見掛け倒しか」
「私の魔力は当時から頭抜けていた」
 ゴルベーザが何かを呟くと、黒い竜はみるみる小さくなり、首に巻けるほどの大きさになった。カインは驚きで目を見張る。
「小さくできるのか!」
 なるほど、初めて対峙したときがこの大きさだったとしたら、子どもの魔力でも倒すことができたかもしれない。
「この世界のものではないからな」
 ゴルベーザが左腕を少し掲げると、黒い竜はふわふわと飛んで来てそこに螺旋に巻きつき、彼の肩に頭を乗せた。彼の首筋をちろり舐め、撫でろと言わんばかりに頭を摺り寄せている。小さくなると仕種まで可愛らしくなるのか、とカインは口許を緩めた。
「懐いてるじゃないか。これなら出しっ放しでもよさそうだ」
 頭を撫でてやろうと腕を伸ばしたカインの手に、黒竜はいきなり咬み付いた。
「いっ……」
 咬まれた左手を押さえながら、魔物を睨みつける。
「油断し過ぎだ」
「こいつ、性格悪い。懐こくしてたくせに……」
「小さくとも中身は変わらん」
「早く言えよ……」
 少し出血しているが、魔物なりに加減したらしく、傷自体たいしたことはない。血を拭う物を持っていなかったので舐めて止血しようとしたが、魔物の噛み痕に口をつけることに躊躇いがある。
 これは召喚主の責任だろう。カインは無言で左の手の甲をゴルベーザの目前に突きつけた。彼も黙ったままカインの手を取り、傷に口付けた。
 彼は舌先を器用に動かし丁寧に血を舐め取っていく。ズキンと疼いたのは傷か心臓か。舌の動きを見ているとおかしなことを口走ってしまいそうで、カインは「もういい」と愛想なく手を引っ込めた。

「履かなくていいのか」
 ゴルベーザはカインが脱ぎ捨てた服を指差した。怒りが収まると、戸外で下半身剥き出しでいることに急に羞恥を憶え、カインは上衣の裾を気休めに引っ張り下ろした。
「あ、あれは、洗うからいい」
「私がやろう」
 ゴルベーザが服を拾い上げるためにその場を離れると、黒竜は彼の腕から離れ、ふわふわとカインの許に戻って来た。また何かされるのではと身構えたが、魔物はカインの尻を覆うように腰に巻きつき、身体の正面で鎌首をもたげた。
「なっ!」
 カインの叫び声にゴルベーザが振り返る。腰に黒い竜を巻いたカインの姿を見て、ゴルベーザは噴き出し、声を上げて笑った。
 唇を盛大に尖らせて彼を睨むと、ゴルベーザは「私ではない」と顔の前で片手を振り、腹を押さえて笑い続けた。
「こいつ、俺をバカにしてる。絶対」
 引き剥がそうとしたが、また咬まれるのも忍びない。小憎らしさのあまり竜の頭を後から小突いても、魔物は微動だにせず、細い舌をちろっと出した。そのタイミングの良さに、ゴルベーザがさらに笑う。
 怒る気力も失せて、カインはうんざりと大きなため息をついた。
「笑ってないで、もう引っ込めてくれよ」
「いいのか。そいつの思いやりだぞ」
 そんなわけないだろ、とカインは頑なに首を横に振り、竜の頭を後から指で弾いた。
「いいよ。別にいまさら恥ずかしくもない」
「そう強がるな」 
 ゴルベーザは黒いマントを翻し、黒竜ごとカインの腰を抱き寄せ、その中に引き入れた。

 街道から外れた片田舎で人目がないとはいえ、頻繁に兄を訪れる弟や配達人がいつ来るともわからない。いまさらながら、先ほどまでの自分の姿によりいっそうの羞恥を憶え、カインは俯き、「恥ずかしくない」と言った手前ゴルベーザに気づかれぬよう安堵の息を吐いてマントの前を引っ張り、長い脚を覆い隠した。

 黒竜がまた唸る。
「何て?」
「『鬱陶しい、邪魔だ』」
「こいつ、本当、舐めてるな。『おまえが邪魔だ』って言ってやれよ」
 彼がそう伝えたかどうかはわからないが、黒竜はカインに巻きつけていた身体を解いてふわふわと飛び出し、二人に先立って家に向かった。
「家に入るつもりだ」
「久々にあの大きさにしたので、いろいろと好奇心が湧いているのだろう」
「召喚主そっくりだな」
 カインの言葉にゴルベーザが眉を寄せる。
「好奇心旺盛でエロい」
「……」
 彼の苦りきった表情に、カインは、くっと笑いを噛み殺した。
「何か、反論は?」
「……余地もない」
 ゴルベーザが掌を滑らせカインの腰骨を撫で下ろし尻を揉む。カインは、調子に乗るな、と彼の手をぴしゃりと叩いた。
「私のものだ。好きにさわらせろ」
 凄みを利かせた、だが笑いを含んだ声でそう言ってゴルベーザはカインの尻を鷲掴みにし、ぶるぶると揺さぶった。勝手なことを言うな、とカインも笑いながら彼の手を逃れようと身を捩る。
「尻さわるだけじゃあ済まないだろ。外なのに」
「室内ならいいのだな」
「言うと思った」

 一足先に扉の前で立往生している黒竜が一段と高い声で唸っている。
「『早く開けろ』?」
「惜しい。『だらだら歩くな。早くしろ』」
「生意気だ。串焼きにしてやる」
「おまえよりも私よりも、うんと年寄りだぞ」
 カインの物騒な冗談にもゴルベーザは笑って応え、黒い竜に向かって左腕を差し出した。










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黒竜の初見はこちら







2010/08/8
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