帰宅するなり黒いマントを放り投げるように脱ぎ落とし、キッチンから顔を出したカインに一瞥もくれず、ゴルベーザはしかめっ面のまま寝室へと入って行った。
機嫌が悪いようだ。兄弟喧嘩でもしたのだろうか。
またくだらない原因のバカバカしい喧嘩だろう、とカインは高を括り、長椅子に投げ捨てられたマントにも構わず、再び夕食の支度に取り掛かった。
声を掛けても出てこないゴルベーザを訝って、カインは寝室の扉を開けた。ゴルベーザは明かりもつけずにベッドに腰掛け腕を組み、何やら思案に暮れている様子だ。
「できた」
「……ああ」
「とりあえず飯にしよう。何を怒ってるのか知らないけど、腹が膨れたら少しは収まるだろ」
別に怒ってなどいない、とぼやきつつゴルベーザはベッドから重い腰を上げた。
時間を費やした煮込み料理を、会心の出来だ、と自画自賛して、向かいに座るゴルベーザにも同意を求め、彼をちらりと窺い見た。
「美味いだろ」
「……ん」
「巧くできたと思う」
「……ああ」
気のない返事を繰り返すゴルベーザに文句の一つも言いたくなったが、食事は楽しむものだと思い直し、カインは黙々とスプーンを運び、彼が口を開くのを待った。
「今日――」
「うん」
彼と目を合わせずとも「ちゃんと聴いている」と訴えるために、幾分早めの相槌を打つ。
「大臣、恰幅の良い頭の薄い奴だ。それに『折り入って話がある』と呼び止められた」
「へえー、珍しい」
件の大臣は先代からの重臣の一人で、政務に慣れないセシルを陰ながら助けてきた、バロン王家に忠実な気の良い男だった。
その彼も、ゴルベーザが月から戻って以来何かにつけ兄に相談を持ちかける若い主君を頼りなく思うのか、自身の仕事が減ったことに不満を抱いているのか、とうとう痺れを切らして主君の兄に声をかけたのだろう、とカインは思い巡らせた。
「それに縁談を持ち掛けられた」
「え!」
予想と違う返答に驚きの余り大きな声を出してしまい、カインは慌てて口を閉じ、平静を装った。
「ま、また、急に……何で」
「王家の繁栄と外交政策のために、だそうだ」
「まあ、それしかないだろうな……」
それにしても、とカインは眉を顰めた。セシルは、これ以上領土を広げるつもりはない、と常々言っているし、周辺諸国との関係も良好だ。他国ならともかく王位継承に血縁を重要視しないバロンで、跡継ぎも生まれたと言うのに、これ以上の王家の繁栄も何もないだろう。
むしろ、その大臣が身内の娘か何かを嫁がせることで王家に取り入り、自分の立場をより強大なものにしたいのではないか、と勘繰りたくもなる。
「忠義を尽くす余りそういう考えに至ることは理解できる。それはいい」
もっともな彼の言葉にカインは自分の意地の悪い考えを恥じ顔を赤らめ、それをごまかすためにナプキンで唇を拭った。
「私が憤っているのは、奴はおまえのことを知った上で言ってきたからだ」
「ごもっとも」
「それに、私は国王の兄ではあるが王族ではない」
「おっしゃるとおり」
「氷漬けにしてやろうかと思ったが、何とか踏みとどまったぞ」
「そ、それはよかった」
カインは、スプーンを持つゴルベーザの左手をぼんやりと見つめた。
城中で大臣が氷漬けにされるという一大事が回避されたことに安堵した自分とは別に、冗談ではなく本当にやりかねない彼の憤懣たる様子に、それは自分を大切に思う故だろうと少し気を良くしている自分もいる。
俺もたわいないな……
カインは小さな息を吐き、ナプキンを元の位置に戻し、ちぎったパンを手に取った。
「ま、セシルの面子もあるし、断る算段もよく――」
「いや、受ける」
「あ、そう。それなら……って、えええ!」
「変わった驚き方だな」
彼のからかいも取り落としたパンを拾うことも忘れ、カインは口をあんぐりと開けた。
「嫌か」
ぶるぶると頭を振って、グラスの水をひと口飲み、大きな息をつく。
「い、嫌とかそういう問題じゃなくて、怒ってるくせに何でだよ」
「二度とそのようなことを言い出さぬよう、思い知らせてやる」
「な、何する気……」
恐る恐る尋ねるカインにゴルベーザは、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「案ずるな。セシルの顔を潰すようなことはせん」
「普通に断れよ。普通に」
「美味いぞ」
「……遅いよ」
自慢の料理を褒められたというのにカインは浮かない顔でため息をつき、再びスプーンを手に取った。
セシルは口許に笑みを湛えながらカインの向かいに腰を下ろした。
「カイン。聞いたぞ、例の話」
「そうか」
「トロイアの神官で、彼の姪だそうだ」
「……やっぱりな」
縁談の相手はやはり大臣の身内の娘であることを知り、自分の考えが正しかったことにほんの少し優越感を得て、カインは微かな笑みを浮かべた。
「絵を送ってきてる。見てみるか」
「……ああ」
関心の無い風を装うつもりだったが、さすがに幼馴染の二人の前ではそれも見透かされてしまうだろうと考え、力なく頷いた。
セシルから渡された肖像画を見てカインは絶句した。描かれていたのは金髪碧眼の若く美しい女性だった。大きく開いたデコルテから覗く豊かな胸の谷間に、否が応でも目を奪われる。
「……でかいな」
「だろ」
「強調し過ぎよ。品がないわ。美人だけど」
ローザが珍しく悪し様に眉を顰める。
「いや、おそらく……」
どうやって調べたのか、大臣はゴルベーザの好みを調査した上で、彼の気を引くように、条件を満たす絵を描かせたのだろう。
カインはセシルへ顔を向けた。
「こんな娘、いたか?」
「神官の顔なんていちいち憶えてないよ。しかし、服と髪型で随分変わるなあ」
「大丈夫。カインのほうがきれいよ」
何が大丈夫なんだ。
カインはわずかに眉を寄せて、肖像画をセシルに戻した。夫の隣から改めて絵を覗き込みながら、ローザが口を開く。
「それにしても、お義兄様、何故断らなかったのかしら」
「それなんだが」
カインは間髪を容れず切り出し、向かいに座る二人に顔を寄せた。
「何か企んでる」
「え? 兄さんがか?」
「また何か良からぬこと?」
「……」
その言い方はあんまりだ、とばかりにカインは、冗談とも真剣とも取れるローザの顔を睨もうとしたが、気を取り直し、長い睫毛を瞬かせひとつ大きな息を吐いた。
「で、『同席しろ』って言われたけど断った。でもまだ毎日言ってくる」
「何で。心配だろ? すればいいのに」
「従者のふりして何食わぬ顔で、か。大臣に怪訝に思われる」
「牽制になるだろ」
おかしいだろ、と苦笑いを浮かべながらもカインは顔を引き攣らせた。
いや、有りうる。
牽制というならば、同席だけで済まされず伴侶だと紹介され、抵抗する間もなく、衆目に見せ付けるように抱擁され接吻されるかもしれない。
「カイン。顔が赤いぞ」
「う、うるさい」
顔を見られないように俯いて片手の甲で唇を軽く擦り、再び大きな息を吐いてから顔を上げる。
「で、おまえ、付き添ってくれるだろ。弟なんだから」
え、とセシルは首を傾げた。
「別にいいけど、僕が出るとなると――」
「だめよ。仰々しくなるわ」
ローザは首を横に振って厳しい顔を夫に向ける。
「いくら弟でも国王が付き添うとなると内々で済まされないでしょ」
「うーん、やっぱりそうか……」
「だから私が付き添うわ」
「それもいいな」
「おい。王妃でも仰々しいだろ」
それだけでなく、ただでさえぎこちなく接しているのに、義妹の付き添いをゴルベーザが了承するはずがない。カインはローザの気分を害さないように慎重に言葉を選びながらその旨を伝えたが、彼女は、大丈夫よ、と大きく頷いた。
「何も喋らないわよ、私。居るだけ。どんなやりとりがあったか、ただ見てくるだけ。それを報告するから、任せて」
「い、いや、別に報告はいらんが」
心なしかうきうきとして見える彼女にカインは嘆息した。
「なら、俺を介さず、彼に直接言ってくれ」
「わかったわ」
カインの突き放すような物言いも彼女はまったく意に介さず、活き活きと、当日のメニューやゴルベーザの服装についてまであれこれ話し始めた。
2010/09/05