月下氷人

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後編

 扉の向こうから女官たちの声がするのと同時に、セオドアを腕に抱いたゴルベーザが現れた。彼は、ローザが立ち上がり「すみません」と赤ん坊を受け取ろうとするのを片手を挙げて断り、そのままカインの隣に腰を下ろした。
「廊下で、女官が連れて来ようとしていたのを受け取った」
 午睡から目覚めた赤ん坊は伯父の胸にもたれかかり、まだヒクヒクとしゃくり上げている。小さな背中を大きな手でやさしく撫で、泣き腫らした目に溜まった涙を長い指で拭い、そっと額に口付けるゴルベーザを見て、カインは彼の父性に感心し、微笑ましい光景に頬を緩めた。
 少し首を伸ばして扉を見やり腰を浮かせかけたローザに、ゴルベーザが声をかける。
「頼んである」
 すみません、とローザは頭を下げながら再び腰を下ろした。
 二人のやりとりの意味がわからず、カインはセシルの顔を見て無言で問いかけた。彼が笑顔で説明し始める。
「寝起きは喉が渇くだろ」
「ああ」
「ローザは、飲み物を頼むため女官を呼ぼうとしたんだが、兄さんが既に頼んでいた、ってことだ」
「なるほど……」
 気が利くというか何と言うか。自宅に育児本はなかったはずだが、どこかで読んでいるだろうか。

 失礼します、と女官が取っ手の付いた可愛らしい容器を持って入室してきた。ゴルベーザがそれを受け取り吸い口を小さな唇に宛がうと、赤ん坊は腕を伸ばして取っ手を自分で握り、仰向いて中の液体を勢いよく飲み始めた。
 ゴルベーザが弟に向かって腕を伸ばす。セシルは長椅子の傍らに置かれたゆりかごから小さなタオルを取り出して兄に手渡した。ゴルベーザは受け取ったタオルを赤ん坊の顎の下に宛て、巧く飲み込めず顎を濡らした液体を丁寧に拭い始めた。
 手際よくセオドアの世話を焼くゴルベーザを見てカインは、ゼムスの干渉が無ければ、十歳の子どもながら、立派に弟を育て上げたのではないか、とぼんやり思い描いた。

 コン、と何かがぶつかる音にカインは我に返った。中身をすべて飲み干した赤ん坊が、もう用は無いとばかりに容器を床に投げ捨てた音だった。
「こーらー」
 ゴルベーザは両腕を伸ばしセオドアを向かい合わせに抱き上げて数回揺すぶり、顎の先で赤ん坊の首筋をくすぐった。セオドアはきゃっきゃと声を上げて笑い、伯父の腕から身を乗り出し「あーあー」と自分が投げ捨てた容器に向けて手を伸ばした。カインはそれを拾い上げ赤ん坊に手渡してやったが、赤ん坊は容器を受け取るや、再び床に投げつけた。カインが顔をしかめる一方で、セオドアは屈託のない笑顔をゴルベーザに向け、くすぐりを待ちきれず笑い声を漏らしている。
「こーらー」
 伯父の顎先が触れるよりも先に「きゃあ」と赤ん坊が甲高い声を上げた。カインは再び容器を拾い上げセオドアに手渡したが、やはり赤ん坊はそれをすぐに投げ捨てた。
 カインは心底うんざりとした様子で床に転がる容器に視線を落とし呟いた。
「いつまで続くんだ、これ」
「飽きるまでだ」
「……」
 平然と応えたゴルベーザに冷たい視線を向け、容器の代わりにタオルを握らせようとしたが、赤ん坊はそれに何の興味も持たず、カインの手を無邪気に払い除けた。

「兄さん、絵を送ってきてるよ」
「……ん?」
「兄さん! 絵! 見るだろ」
「ん……」
「見合い相手の絵!」
 赤ん坊をあやすことに夢中で気の無い返事を繰り返す兄に、セシルは少し苛立ったように肖像画を突きつけた。ゴルベーザは顔をセオドアに向けたままそれを片手で受け取り、一瞥して長椅子の上に置き、再び赤ん坊と二人だけの世界へ入っていった。
「兄さんって!」
「……何だ」
「何か、こう、ないの? 感想とか」
「よく描けているが個性は無いな」
「画家の腕じゃなくて!」
 兄弟のやりとりにカインは忍び笑いしつつ、縁談相手の肖像画に興味を示さないゴルベーザの態度に、彼女を気に入るかもしれないという最悪の展開はないようだと安堵して、容器を拾い上げセオドアに渡すふりをして、自分の顎先で赤ん坊の首筋をくすぐってやった。




 数週間後。
 カインはセシルを手伝って玩具作りに勤しんでいた。絨毯の上に直に座り込んでゴルベーザが描いたという図案に従って板を木片に切り分ける。ささくれが赤ん坊の柔らかな皮膚を傷つけないように丁寧にやすりをかけ、そうして出来上がったいくつものピースを立体に嵌め込んでいく。セシルの話に寄れば、釘を使用しないのは赤ん坊の安全のためで、パーツを組替えることによって何通りもの形状を作ることができるらしい。
 新たに知ったゴルベーザの才能と気配りに感心しつつ、カインは初めての作業に没頭していた。
 ただの木片が可愛らしい動物や乗り物の形になっていくことが楽しい。これらで夢中になって遊ぶセオドアの姿を思い描くことはさらに楽しい。仕上げの磨き作業は無心になれるので、いま行われているゴルベーザの見合いがどうなっているのか気を揉むこともなくていい。いいことずくめだ、とカインは熱心に手を動かしていたため、セシルが声を上げるまでゴルベーザとローザの帰宅に気付かなかった。

 作業の手を休めて二人を見上げる。前を歩いているローザは困ったような表情で、その少し後のゴルベーザは口を引き結び無表情を取り繕っているように見えた。
「どうだった?」
「どうだった?」
 セシルは好奇心に満ちた声で、カインは無関心を装った声で同じ言葉を発した。  
「それが……」
 ローザは背後のゴルベーザをちらりと見遣り、少し屈みこんで声を潜めた。
「来なかったの」
「え?」
「え?」
 セシルとカインは目を丸くして彼女に顔を寄せた。
「相手の女性、来なかったの」
 予想外の返事に二人は顔を見合わせ、ぽかんと口を開けたままゆっくりとゴルベーザへ視線を移す。彼は二人と目が合う前に顔を背け踵を返した。
「カイン、帰るぞ」
「兄さん!」
 扉へ向かう兄の背中に、セシルは慌てて呼びかけ、駆け寄る。
「まだいいじゃないか。セオドアもそろそろ起きてくるよ」
 ゴルベーザが足を止め振り返る。
「いつ起きる?」
「そろそろだよ」
 だから、とセシルは兄の腕を引き、半ば強引に腰掛けさせた。


「時間になっても来ないから心配していたら、手紙が届いてね。『おじさま、ごめんなさい。好きな人がいるのでやっぱり行けません』ですって」
「うわあ……」
「……そもそも相手がいるのなら、何で断らなかったんだ。その娘も」
 聞こえよがしに声を張ったカインに、兄を思いやってか、セシルは険しい顔を向けた。
「事情は人それぞれだろう。彼が強引に話を進めたとか、日頃から世話になっていて、断りたくても断れなかったとか」
「彼が土下座で平謝りしても、お義兄様、怒るでもなく文句を言うでもなく黙ったままだから、その場の空気も凍り付いちゃって……」
「魔法を使わなくても、なったわけだ」
 先日のゴルベーザの「氷漬け」という言葉を思い出しカインはくすりと笑ったが、ローザの眉間に寄った皺を見て、すまん、と謝り、その場をごまかすように、再び布で玩具を磨き始めた。

 ゴルベーザはテーブルの上に並べられた完成した玩具の一つを取り上げ、しげしげと眺めた。
「これを磨いたのは誰だ」
「俺」
 カインが片手を挙げて応える。 
「ここを見ろ。バリが残っている」
「ばり?」
「ささくれのことだ。ぴろっとはみ出た部分」
 セシルが横から口を挟んだ。ここ、とゴルベーザが指差した箇所には、目を凝らさないとわからないほどの微かなささくれが残っていた。
「こんなちょっとじゃ痛くないし、触ってるうちに――」
「やり直し」
 ゴルベーザは有無を言わせずカインに玩具の馬を突きつけた。カインは口を尖らせたが、甥を思う彼に妥協はないだろう、と抗議の言葉を取り下げ黙ってそれを受け取った。
 機嫌が悪いな。
 たとえこちらから断るつもりでいた縁談でも、相手に断られると、自分のことは棚に上げて、面白くないものだと聞く。彼の場合、相手は来ることさえしなかったのだから、自尊心を傷つけられたのだろう。
 たとえそれで気分を害したとしても自業自得だ、とカインは心中で呟いた。自分と言う者がありながらさっさと断らず、ローザの言葉を借りれば、「何やらよからぬこと」を企んでいたのだから。
 そういえば、彼は何を企んでいたのだろう。

「兄さん。なんでそもそも受けたんだ? この話。カインがいるのに」
 都合よくセシルが訊ねたので、カインも作業の手を緩めて二人の話に耳を傾けた。
「それはもういい」
「教えてよ」
「済んだことだ」
 もっと粘れ、と胸中でセシルに声援を送る。
「お義兄様、私も知りたいわ」
 勝った、とカインは、最強の援軍の登場に心中で快哉を叫んだ。
 ゴルベーザは眉を寄せて嘆息し、顎をしゃくってカインを指し示した。 
「……当初はこれに同席させようと思っていたからだな……」
 三人に凝視され、居心地悪そうに膝を揺らし、ゴルベーザは席を立った。
「セオドアの様子を見てくる」
「見なくていいって!」
 セシルが声を張り上げる。
「じき起きてくるから。それより、なんで――」
「代わりに話しておいてくれ」
 ゴルベーザはカインを見下ろして、顎をしゃくった。突然話を振られ、カインは、唖然と口を開けたまま彼を見上げる。
「何を? 俺、何も聞いてないし」
「おまえが思うことを話せばいい」
 セシルとローザは、ゴルベーザからカインに視線を移した。二人の視線を浴びてカインがうろたえる隙に、ゴルベーザはそそくさと部屋を出て行ってしまった。


「俺が勝手に思っただけで、合っているかわからんが……やりかねないことだ」
 思い当たったことを自分で口にするのもどうにも照れくさく、答えを二人に委ねると、セシルがすかさず口を開いた。
「みんなの前でおまえを恋人だと紹介して、抱き締めるとか?」
「……」
「ありきたり過ぎよ、セシル。お義兄様ならキスまでいくわよ。ね?」
「……」
 あまりにもあっさりと二人に言い当てられなんとも言い難い気持ちになり、手持ち無沙汰に、カインはできあがった玩具を無意味に並び換え始めた。
 黙ってしまったカインをローザが訝る。
「カイン?」
「もしかして、当たりか?」
「……だから、俺にもわからん」
 ローザが手で口許を覆い俯いて半身を捩る。セシルは息を止め緩く握った拳を口に当て肩を震わせる。二人が笑いを堪えている様子にかける言葉もなく、カインはすくっと立ち上がった。
「セオドアの様子、見てくる」
 ゴルベーザと同じ言葉を発して席を立ったカインに、夫婦はとうとう堪えきれずに噴き出した。

 ひとしきり笑ったのちローザは手を口許に当てたまま顔を上げ、笑いの混じった声で、ねえ、と席を離れたカインに呼びかけた。
「お義兄様に『無理に起こさないで』って言っておいて」
「……わかった」
 カインは神妙に頷いて、踵を返した。

「兄さんったら、まわりくどいな」
「月並みよね。私たちにも思いつくくらい」
「それはちょっとひどいよ。いくらありきたりでも、実際行動に移すとなると勇気が要るよ。さすがだ」
「またあ、甘いんだから。未遂なのに」

 盛り上がる夫婦の会話を背中に聞きながら、カインはあれこれと思案する。 
 もし違っていたらどうしようか。彼の名誉を守るため、事実を確認したほうがいいだろうか。あの様子では、いまさら教えてくれるとも思えないが。
 扉へ向かう通りすがりに壁に掛けられた鏡をちらりと見遣る。自分の口許が緩んでいるのを見て、カインはそっと唇を指で押さえた。

 この笑みは、面白おかしいだけでなく喜ばしいからだ。特異な半生を送ってきた彼が、誰でも思いつくような凡愚なことを企てた、それが可笑しくて何とも微笑ましい。弟夫婦もきっと同じ気持ちなのだろう。
 鏡の中、肩越しにローザの横顔を見て、ふと思いつく。
 もし見合いが無事進行していたら、自分がいないのに、彼はどうするつもりだったのだろう。紳士的に振る舞い、ごく普通に会話を交し、後日相手が傷つかないような丁寧な断りの返事を入れる。そんな当たり前のことが為されていたのだろうか。
 カインはわずかに口許を歪める。 
 驚かされたりうんざりしたり呆れたりすることもあるが、何のかの言って彼の奇矯なところも好きなカインには、このまま彼が「普通」になっていくのも寂しいような気がした。
 喜ばしいような惜しいような、少し複雑な思いを抱えたまま、帰宅したら、どうするつもりだったのかとことん訊き出してやろう、と鼻息を荒くして、カインは赤ん坊の部屋へと足を速めた。 







2010/09/19
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