乳母(おんば)日傘でかしずかれ

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 やわらかな物腰と上品な言葉遣いは上流階級の子女に仕える乳母といったところか、町で見知らぬ老婦人に声を掛けられ、道を尋ねられるのだと思い、カインは足を止めた。
 予想した通りの自己紹介を終えると、彼女は態度を豹変させ「話がある」と似つかわしくない強引さでカインの腕を引いた。カインは眉を顰めたが、老人の腕を振り払うことはさすがに気がひけたので、されるがままに彼女について行った。

 路地の角を曲がってすぐのところに、若い女が立っていた。日傘に隠れ顔はよく見えないが、きっちりと結われた栗色の髪、少し古臭い仕立ての良いドレス、たおやかな佇まいからも、やはり貴族の女に見える。
 女はカインを認めると、傘を少し上げた。カインは瞬時に記憶を巡らせたが、やはり見覚えのない女だった。

 女が目を潤ませじっと見上げてくる。
「おわかりになりませんか」
 涙声で訴えられてもわからないものはわからない。カインは首を横に振り、申し訳ないが、と小さな声で謝った。若い女は零れかけた涙をハンカチーフで拭い、白髪の老婦人は深いため息をついた。
 年寄りまで連れてきて、新手だな……
 悲しみと落胆をはっきりとした態度で表す二人を前にしても、カインは、これまで幾多の男女にあらゆる手段で言い寄られてきたため動じず、女たちに懐疑の目を向けた。

「ハイウィンド卿がご存命のとき、学友である私の父の屋敷にいらしたのです。小さなあなたを連れて」
「……」
 唐突に父の名を出され、カインはさらに警戒を強めた。特に思うこともなく聞き流してしまった、老婦人が口にした家の名を思い出そうとする。
「歳が近いこともあって、私たちはその日、暗くなるまでずっと一緒に遊んでいました」
「……」
 彼女が昔を懐かしんで声をかけてくれたのだとしたら、寸分も憶えていない自分は随分と薄情な奴だ。
 カインは自嘲の薄笑いを愛想笑いに代えて、肩を少し竦めた。

「憶えていらっしゃらないのですね? そのとき交わした約束も」
「生憎……」
 嫌な予感がする。これまで幾度となく経験してきた居心地の悪さを感じ、早くこの場を立ち去りたくて、カインは女から視線を外し落ち着かない瞬きを繰り返した。
 女が、すう、と息を吸う音が聞こえた。
「ずっと一緒にいよう、と言ってくださいました。首を傾げる私に『お嫁さんに来ればいい』と言い直してもくださいましたわ」
「……」
 視線を感じた気がして、カインは思わず辺りを見回した。行き交う人々はちらりとカインの顔を窺うだけで、それ以上関心がないように、それぞれの用事を済ますため足早に通り過ぎていく。
 考え過ぎだ、と小さな息を吐き頭を振る。
 監視下に置かれているはずはないが、ゴルベーザの早耳と地獄耳を思えば、これもすぐに彼の知るところになるのではないか。
 ため息を咳払いでごまかして、カインは女たちに向き直った。

「すまないが、子どもの頃の憶えてもいない約束を持ち出されても困る」
「あなたが連絡をくださらなくても、立派な竜騎士になられるためだから、と自分に言い聞かせて耐えましたわ」
「だから……」
「お嬢様は、あなたさまが団長に任命されたときは我が事のようによろこばれ、行方知れずになられたときは、どんなに心を痛められたことか……」
 ため息混じりに口を挟んだ老婦人にカインは閉口した。
 寄宿舎に入ったり、戦地に赴いたり、多忙で家を空けることが多かったとはいえ、これまで打ち明ける機会はいくらでもあっただろうに、何をいまさら、それも何故、共に生きる相手を定めた「いま」なのか。
 時機の悪さにカインは眉を顰め、唇を歪める。

 まだ何か言おうとした老婦人を、若い女は片手を挙げて制し、カインに向き直った。
「一緒に暮らしている方がいらっしゃるのは存じ上げています」
「……」
 それならば話が早い、とカインは安堵したが、それが早合点だとすぐに気づいた。知った上で約束がどうのと言ってくる女の本心を図りあぐね、その表情を窺った。カインと目が合うと、彼女はにこやかに微笑んだが、それが心からの笑顔でないことは、頬がわずかに引き攣っていることからも明らかだった。

「国王陛下のお兄上様ですね」
「……まあ、そういうことだから――」
「私、構いませんわ」
「は?」
 思わず間抜けな声が上がる
「愛人の一人や二人は貴族の嗜み。それが子を産まぬ男性ならば、何を咎めることがございましょうか」
 若い女は胸を張り、自信たっぷりに頷きながら傘を二、三度回した。

 この女、あぶない……
 幼少の頃一回こっきり遊んだだけで許婚気取りでいる女の執念に、カインは身震いした。

「とにかく、俺にそんな気は無いから諦めてくれ」
 失礼する、と踵を返したカインの背中に女が声をかける。
「ハイウィンド家ほどの名家には、跡継ぎが必要でございましょう? 男の方とは――」
「おい」
 カインは鋭い声を上げて女の言葉を遮り、振り返った。
「それは君に言われることじゃない」
 腹の底から低い声を出し、もう話しかけるな、と全身で拒絶を表して、駆け出したい気持ちを抑えカインはゆっくりとその場をあとにした。



 就寝前のひととき、カインは香茶を啜りながら情報部から届いた調査報告に目を通し始めた。
 見知らぬ女に声をかけられたあの日、城に戻りゴルベーザが赤ん坊と入浴中だと知ると、すぐさまセシルに町であったことを打ち明け、女の身許調査を依頼したのだった。
 報告書には、女はカインの二歳年長であること、家柄は確かに実在する貴族で、前当主はカインの父の学友であったこと、その長男である現在の当主に代わってから投機に失敗し、借金を抱え、広大な領地のほとんどを失い家族は厳しい暮らしを強いられていること、さらに、カインが町を訪れたときには密かに付き纏っていたことなどが記されてあった。
 報告書を閉じて、カインはため息をついた。
 金に困って、幼い頃のありもしない約束をでっちあげ、ハイウィンドの財産目当てに近づいてきたのだろうか。仮に約束が事実だったとしても、幼児の言葉に責任が生じるわけでもない。女二人に何ができるとも思わない。素性が本物ならば、このまま放っておいても問題ないだろう。

 扉が開く音にカインは慌てて報告書を長椅子の下に隠し、カップを口に当て、何事もない風を装った。扉から現れた白いローブ姿のゴルベーザが、カインに視線を遣さず、キッチンで水を飲むために居間を横切る。安堵の息を吐いたのも束の間、彼がすぐに戻ってきたので、カインは、敢えてゆっくりと、不自然に見えない動きで彼を見上げた。
 彼と目が合うと、カップをテーブルに置きながら顎をしゃくり、自分の足許に座るように促した。ゴルベーザが床に直に座り込む。彼の肩にかかっていたタオルを使い、濡れたために少し濃く見える銀の髪から滴り落ちる水滴を、丁寧に拭き取り始めた。

「別に隠さなくともよいだろう」
「……何のことだ」
「これを書いたのは私だからな」
 ゴルベーザは椅子の下から報告書を引っ張り出し、テーブルの上に放り投げるように置いた。
「…………どおりで似てると思った。字が」
 動揺を隠した精一杯の強がりにゴルベーザは息を吐くだけの笑いを漏らし、カインの膝を大きな掌で包むように軽く叩いた。
 カインは恨めしい気持ちをゴルベーザにではなく口の軽いセシルに向け、「内密で、と言ったのに、あの野郎」と心の中で毒づいた。

「弟の名誉のために言っておこう」
 何を、と声には出さず、彼の髪をタオルごと束にして少し引っ張る。 
「セシルは何も言わなかったが、私から持ちかけた」
「……」
 カインは大きなため息をついた。慣れっこになったとはいえ、何でもお見通しにされることはやはりどこか口惜しい。心の中でセシルに詫び、眉を顰め、彼の頭を少々荒っぽく拭きながら、カインは不機嫌な声を出した。
「……どういうことだよ」
「おまえが女に言い寄られていたとき、技士の男の娘婿が通りかかったらしい」
「シドの?」
「そのシドとやらから聞いた」
「……何の情報網だよ、それ」
 どこまで彼の掌の上なのだろう。カインはこめかみを押さえ、ああ、と苛立った声を上げた。
「まあ、放っておいてもいいだろう」
「わかってる」
「女二人に何ができるとも思わん」
「わかってるって!」
「何をイライラしている」
「……してない」

 カインは身体をどさりと背もたれに預けて目を閉じた。苛立っているわけではないが、何となく気が晴れない。ゴルベーザは頭にタオルを被ったまま床から立ち上がり、カインの隣に腰を下ろした。
「実は『放っておけ』と言ったことにも、根拠がある」
 もって回った言い方をするゴルベーザを、カインは背もたれに頭を預け仰向いたまま、横目で睨んだ。
「女の兄に、『銅が出る』と言って、山を一つ格安で譲ってやった」
「え……」
 カインは頭を起こし、彼に向き直った。
「本当は銀が出るのだがな。上質の」
 ゴルベーザは、思い出し笑いするかのように、くぐもった息を漏らしながら言った。
「え……じゃあ……」
「家が持ち直せば、付き纏うこともやめるだろう」
「……」

 彼にはいったい、どれだけの財産があるのだろう。いや、それよりも、付き纏いをやめさせる、そんなことのために銀山を格安でくれてやるという気前の良さは、気宇壮大な男だと感心するよりも変わり者だと呆れるばかりで、正直カインには理解し難かった。よしんばそう告げたところで、「おまえのためなら惜しなくい」と涼しい顔で言われ、自分が顔を紅くして俯くところまでは想像がつくので、カインは敢えてそれには触れず、ただ困惑だけを顔に表して、彼の、自分のものより少し薄い青の眸をじっと見つめた。

「不服そうだな」
「……」
「何なら、『二度と付き纏うな』と暗示をかけてやってもよかったんだぞ」
 物騒な言葉に、カインは慌てて首を横に振った。
「わ、わかった。わざわざありがとう」
 こんなときの彼は、冗談なのか本気なのか図りかねない。しかし、礼を言うのも腑に落ちない。それなのに口にしてしまった自分の日和見にうんざりしてカインは俯いた。

 大きな手で頭を撫でられる。顔を上げると、頬を、目の下の膨らみを、目尻をやさしく撫でられた。湯上りの手は温かく、ふわりと立ち上った香りに思わずうっとりと目を閉じる。香りをさらに強く感じたかと思えば、額に軽く口付けられ、肩を抱き寄せられた。
「余計なことをしたか」
「……いや。ただ――」
「ん?」
「何でもひとりで決めるんじゃなくて、相談して欲しかったというか。もっと俺を信頼して欲しかったというか」
 ゴルベーザはわずかに眉を寄せ、ふむ、と頷き、カインの肩を強く抱き直した。
「なるほど。以後気をつけよう」
「……素直だな」
「おまえに似てきたのだろう」
 カインは、ふっ、と笑いを漏らし、ゴルベーザの頭に掛かったタオルを引っ張り落とし、銀の髪に触れた。
「まだ生乾きだ」
「あとは熱風を起こして乾かす」
 初めからそうすれば、と言いかけてカインは口篭もった。自分から進んで彼の髪を拭いたのだからそれを言うのは間違いだ。
「時間はかかっても、おまえに拭いてもらう方がいいからな」
「……」
 やはり敵わないな、と力なく笑うカインの唇を、ゴルベーザは軽く二、三度弾いて微笑んだ。

 さて、とゴルベーザはカインが飲み干したカップを手にして立ち上がりキッチンへと消え、すぐに戻って来た。
「寝るぞ」
「おやすみ。俺は、もう少しこ――」
「寝るぞ」
「すぐ済むから」
「寝るぞ」
「……」
 彼が書いたということを踏まえて再び報告書を読もうとしたが、寝室への扉の前で佇んで自分を待っている彼は、どうやらそれも許してくれなさそうだ。はいはい、と大げさなため息をついて、カインはのそのそと立ち上がった。こちらに向けて差し出されていた大きな掌に自分の手を乗せると、二人同時にぎゅっと握り合ったのがおかしくて、カインはだらしない笑みを頬に浮かべ、それを見られないように少し俯いた。







2010/10/18
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