針の示す数字が信じ難くて居間と寝室を往復したが、それぞれの部屋に掛けられた二つの時計は同じ時刻を示していた。カーテンを細く開け外の景色を眺める。ど
んよりとした雲が三日月にかかり、月夜の晩とは言い難い。いまにも降り出すのではないかと思えば、また余計な心配が増す。
部屋をぐるぐると歩き回っては時計を見上げる。何度そんなことを繰り返しただろう。心配は苛立ちになり、苛立ちは「ひとの気も知らんと」と傲慢な怒りに成り
代わる。
こんなことなら許すのではなかった、とゴルベーザは自分の寛容を悔やみ、気を紛らすため、机の抽斗の中に隠し置いていた菓子に手をつけた。
ゴルベーザの良く聞こえる耳に忙しない息遣いと地を蹴る足音が聞こえてくる。微かに聞こえていたそれは次第に大きくなり、家の前で止んだかと思うと、クエッ
と鳴き声が響いた。
やれやれ、と安堵のため息をつき、貯蔵庫からギサールの野菜を取り出して、ゴルベーザは出入口の扉を開けた。
カインはチョコボの背中でぐっすりと眠っていた。相当揺れただろうによく眠れるものだ、とゴルベーザは半ば呆れながら彼を降ろし、片腕に抱きかかえた。
肩を突付き催促してくるチョコボに野菜を咥えさせ、ご苦労だった、と頭を撫で労ってやる。好物を貪って満足したのか、チョコボはまたひと鳴きして、森へと走
り去っていった。
「おい」
肩を揺すってもカインは目覚めない。耳許で名まえを呼ぼうとして顔を寄せたが、立ち上った酒臭さにゴルベーザは顔をしかめた。
「おい。酔っているのか。飲んだのか」
「ん……あ……」
「何時だと思っているのだ。何をしたらこんなに遅くなる。おい!」
頬を軽く叩くとカインはゆっくりと瞼を上げた。焦点の定まらない青い眸は何を映しているのか、だらしなく微笑んで、口を開こうとして息を詰まらせ、大きな
しゃっくりをした。
「ん……ゴル……ちゃ……おかえ――」
「おい、起きろ」
子どもじみた振る舞いをしたときカインがからかって言う呼び方をされても気にならないほど、ゴルベーザの関心は彼の遅い帰宅の理由を聞き出すことに占められ
ていた。
こんなに泥酔していたら、何をされても起きないのではないか。
何をされても……
ゴルベーザの背中に戦慄が走った。何かされていないだろうな。はたと心配になり、カインを横に抱き上げ、駆け込むように室内に戻った。
カインをベッドに寝かせ、襟許を寛げてやる。ゴルベーザの不安は不幸にも的中してしまった。飲酒のせいで朱に染まった白い首の、鎖骨に近いところに口紅の跡
が付いている。
女か。
女を抱きたくなっても仕方がない、と日頃口では理解のあることを言っていたが、いざこうして目前に証しを突きつけられると、どうにも平静ではいられない。
いや、違う。これは、パブで若い男女が興じているゲームの類だろう。無理矢理そう思い込もうとする。何度か見かけたことがある。あれは――
「四番が六番の唇にキスだ! 四番、誰だ?」
「……俺だが」
「よし、カイン! 彼女にキスしろ!」
「い、いや……勘弁してくれ」
「何だよ、おまえ、しらけるなあ」
「そうよ、失礼ねー。私じゃ不服?」
「そうだ、ルールは絶対だぞ」
「い、いや。そんな決まりとは知らなかっ――」
「カイン、観念しろ」
「そうだ、そうだー」
「自分よりキレイな娘じゃないと嫌だ、とかじゃないわよねー」
「い、いや。そういうことじゃなくて……」
「キーッス! キーッス!」
「もう、憎らしい! ちょっと、あんた達、押さえてて!」
「お、おい。やめろ。やめてくれ!」
「いいぞー! いけいけ!」
「やめんか!」
ゴルベーザは自分の叫び声で我に返り、はっとカインを見下ろした。普段とは違い、過度の飲酒のせいか、仔豚が鳴くようないびきをかいて、手足を投げ出し呑気
に眠っている。無防備な姿はそれはそれで愛しいが、甘いことばかり言ってもいられない。
ゴルベーザはカインの右頬を摘んで引っ張った。
「おい」
「……ん」
「起きろ」
「……ひ……へ……」
「おい。何故遅くなった?」
「……う……い」
意識も斑(まだら)で会話も要領を得ない。
ここまでしても起きないということは、酒だけでなく、何か薬を盛られたのかもしれない。箍(たが)が外れた若者ならば、酔いに任せ、集団真理も相俟って、何
をしでかすかわからない。例えば――
「よく効いてるな。ぐっすりだ」
「ああ。手に入れるの、苦労したぞ」
「気づかれると思ってどきどきしたぜ」
「無味無臭だから大丈夫だって」
「見てみろよ。マジで男にしておくのもったいないな」
「俺はどっちでもいいよ。たまんねー」
「本当にやるのか」
「おいおい、びびるなよ。こんな機会、もう二度とないぞ」
「起きないだろうな」
「さわるな! 私のものだ!」
叫び声で我に返ったゴルベーザは自分の妄想に頭を抱えた。ばかなことを。考え過ぎだ。
金の髪を撫でながら、顔を寄せる。良く利く鼻が嗅ぎ分けたのは微かな体臭と酒の臭いだけで、他の臭いはなかった。
首筋を唇で辿り、耳朶を軽く咬み、尖らせた舌で耳介の溝を何度もなぞる。無意識のカインが切なそうに喘ぐ。
「カイン」
「……ん?」
怒りを抑え、甘くやさしく囁く。
「何をしていた。こんなに遅くまで」
「……け……た……」
やむをえん。
ゴルベーザはカインの身体を胎児のように横向きに丸め、広げた両手を彼の脳天と爪先にかざして呪文を唱えた。弱いサンダーがカインの身体を貫く。その衝撃に
カインは跳ね起き、放心したようにぺたりと座り込み、ぱちぱちと大きな瞬きを繰り返した。
「起きたか」
「頭、痛い……」
静電気で逆立った髪をやさしく撫で付けてやる。
「飲み過ぎだ」
「心臓がバクバクする」
「すぐに収まる」
「え……家? いつ……まあ、いいか。眠い。寝る」
ゴルベーザは、再び横になったカインの上にすかさず覆い被さった。重い、と身を捩り、両腕を伸ばし厚い胸を押し返そうとすることを物ともせず、顎を掴み顔を
こちらに向けさせる。鼻っ柱強く睨んでくる目許に、鼻先に、顎の先に掠めるように口付けると、カインは、ちゃんとやれ、と酒臭い息を漏らしながら笑った。
「何故こんなに遅くなった」
「だから、『遅くなる』って言ったし、『楽しんで来い』って言ってたじゃないか」
「おまえを信頼して送り出した。なのにこのざまだ」
「『ざま』って何だよ。酔って帰るくらい、たまにはいいだろ」
突き出された下唇を長い指でぷるんと弾いてから、首に残された跡を擦り、紅の付いた指をカインの目の前に突きつける。
「これだ」
カインの眉間に寄った皺がさらに深くなる。
「……憶えてないし、何もしてない」
「記憶をなくすまで飲むことが問題なのだ」
「あー、思ったより強い酒で……でも、だからってぐずぐず断るのもかっこ悪いだろ」
「そもそも、飲んで騒ぐことは、好きでないだろう」
「俺は騒いでない。騒ぐのを見てただ――ん……」
ああ言えばこう言う生意気な口を塞いでやる。カインは首を振って逃れようとしたが、髪を撫で目尻を撫で頬を撫でながら舌を挿し入れると、おとなしく口を開け
た。
そうなれば、舌を吸うことも吸われることも息の合った運動のようで、どんなに性急に口付けようが歯と歯がぶつかることも唇が離れることもない。
かといって惰性で済ませるわけでもなく、手順を踏みつつ細かな変化をつけ意表を突くことを忘れないゴルベーザの律儀さはカインを悦ばせ、ますます彼を口付け
に夢中にさせる。
瞼を小刻みに震わせ目許まで紅く染めて陶酔しているカインの表情は歳よりも幼く見えるが、この稚さも、さらに愛撫を加えれば、官能も露わに艶かしく情欲をそ
そるものになる。それを距離を取って眺めるために、ゴルベーザは名残惜しげに舌を離し唇を離し身体を起こした。
カインは目を潤ませてゴルベーザを見上げ、まだ酔いが醒めぬのか、唇の端に唾液を溜めたままだらしなく微笑み「なあ」と甘えた声を出した。ゴルベーザはそれ
に応えず、肩を撫でていた左手を上腕から脇腹へ、上衣の裾をたくし上げ引き締まった腹を撫でてから下衣の中へと滑り込ませた。
固く目を閉じ下唇を噛んでカインは頬をシーツに押し付ける。着衣の中をまさぐる手首を掴まれるが、もちろん本気で押しとどめるつもりなどないことはわかって
いる。
ゴルベーザは、形だけの抵抗を示すカインの左手首を空いている方の手で掴み、シーツに押さえつけた。ほっそりとした指が何度も曲げたり伸ばしたりを繰り返す
ので、自分の指を交互に絡めてみる。左手の動きを早めると、カインは唇をさらに強く噛むけれど、鼻の奥から洩れる甘えた声は止めようもなく、荒くなる一方の息
に併せて、絡ませた指をぎゅっと握ってくる。
「……なあ」
カインが声を振り絞り、もう一度同じ言葉を放ったので、ゴルベーザは左手の動きを緩め彼に顔を寄せた。カインが大きな息をつく。
「心配した?」
「当たり前だろう」
「俺の気持ち、わかった?」
「はて……」
カインは眉を顰め、繋いでいないほうの手で握った拳をゴルベーザの下顎に押し込む真似をした。
「帰りの遅い相手を待つ気持ち」
それか、と頷いてゴルベーザは笑い、左手に少し力を込めた。短い声が漏れ、カインの顎が上がる。
「私とおまえでは違う」
「……そこは『わかった』って言うのが円満の秘訣だろ」
「円満だろう。至って」
それはそうだけど、と不服そうにぼやく彼の耳を軽く噛む。続きを促すため耳許で名まえを囁くと、カインはびくりと首をすくめたが、聡く察し脚を開いた。
「妬いてる?」
「そう訊かれれば、肯定せざるを得ない」
さすがに、良からぬ妄想をして頭を抱えていたと告げることはできず、ゴルベーザは目を伏せ繋いでいた手を解き、件の口紅の跡をごしごしと擦り取った。
回りくどいな、とカインはくすくす笑い、両の掌でゴルベーザの頬を包んでぐいと引き寄せた。
「たぶん酔った誰かにむりやり付けられたんだと思う」
「そうだろう。いや、そう応えるしかないだろう」
未だ不満げなゴルベーザの言葉にカインはふっと息を漏らし、呆れたように笑った。
白磁の肌、上気した頬、ふっくらと形のよい唇。長い睫毛に縁取られた空と同じ色の眸はまっすぐ自分に向けられていて、その笑顔は縋りついて泣きたくなるほど
美しく、胸に熱いものがこみ上げてくる。
とんだ依存だ、とゴルベーザは自嘲の苦笑いを浮かべる。
「安心しろよ。俺を所有する特権を、他の誰かに許すわけないだろ」
「……私は果報者だな」
「そう。俺にこんなことされて――」
ほっそりとした指がゴルベーザの中心を捉える。不意に握りこまれ撫で擦られ、低い呻き声が漏れたので、ゴルベーザも負けじと、先走りの露で既に濡れていた指
をさらに後ろへと伸ばした。
「あ……」
「おとなしくしていろ。酔っ払い」
「し、してるだろ……」
言葉どおり、カインは力の抜けた手をシーツに投げ出した。
ゴルベーザは「後でな」と満足そうに頷いて、白い額に、光る頬に、長い睫毛に、濡れた唇に宥めるようにキスの雨を降らし、焦れたカインが思わず抗議の言葉を
口にするほど、必要以上の時間をかけてそこを丹念に愛撫し始めた。
2010/11/29