愛しのクアール

BACK | NEXT

 ビチャという音と濡れたむず痒い感触、特有のにおいに、俺は眠りの底から意識を引き戻され目を開けた。
 意外なほどはっきりと部屋の様子が視界に広がった。どうということのない風景画が一枚架けられた白い壁、明るい日差しに透ける白いカーテン、糊の利いた白い シーツ。ここが自分の寝室ではないことを認識し、軽くため息をついた。そしてすぐに、自分の寝室でないのならいるはずのないやつらの存在を訝って、背後を振り 返った。
 いるはずのないやつがいた。首を傾げ頭を低くして、俺に声をかけられるのを待っていた。
「アール! おまえ、どうしたんだ!」
 驚きのあまり思わず大きな声で叫ぶと、アールはひと鳴きして、横臥したままの俺に勢いよくのしかかってきた。ベロベロと顔を忙しなく舐めまわされる。
「わかった、わかったから」
 人間の子どもにも相当する体重を胸に受け止めながら俺はあたりをきょろきょろと見回した。もう一匹のクアール、クーの姿は見当たらない。部屋には俺とアール だけだった。
「会えてうれしいが、ここはどこなんだ?」
 アールの背を撫でながら俺はある違和感に気づいた。
「おまえ、こんなに大きかったか? 重いぞ」
 ずしりと重いアールの前肢をどかせ、俺は身体を起こし、ベッドから立ち上がった。
「でかい……」
 俺は首をひねった。俺に合わせるように後肢だけで立ち上がった彼は、目覚めたときよりも大きくなっていて、優に俺の身長を超えていたからだ。
「俺のいないあいだ何食ってたんだ?」
 本来ならこのときに気づくべきだったのだ。他の魔物ならいざ知らずクアールがこんな短い間に二メートル近い体長になるはずがないことを。
 アールは俺を見下ろし、にゃあと甘えた声を出しながら頬をベロベロと舐めてきた。頬を舐めていた長い舌が俺の左耳に這わされ、そのくすぐったさに俺は頭を 振って逃れた。
「こら、やめろって。なあ、クーは? 一緒じゃないのか? もしかしてクーもこんなにでっかくなってるのか?」
 クーの名を聞いて、かどうかはわからないが、アールは眉尻を下げ物憂げな表情を浮かべた、ような気がした。いや、違う。やめろと言われたのを叱られたと思っ てしょげているだけだ。
 え? 眉?
 クアールに眉があっただろうか? 俺はもう一度彼の顔を正面から見上げた。
 あった。凛々しい眉が二本、目の上にあった。さっきもあったか? 俺は手を伸ばし、その眉をゴシゴシと擦ってみた。アールが嫌がって首を振った。描いたも のではない、確かにそれらは「毛」だった。
 俺はまだ気づかなかった。二メートル近い体長の眉を生やした生後数ヶ月のクアールがこの世に存在するはずがないことを。存在するのなら、それは夢の世界だと いうことを。
「でかくなったり眉毛が生えたり、なんか変なホルモン剤とか打たれたんじゃないよなあ。あの博士とかに」
 俺がのんきに笑っている間、俺の肩に前肢をかけ身体を支えていたアールが、片方の前肢を肩から下ろし、俺の股間をまさぐってきた。
「あ! こら! 何するんだ!」
 大きな声を出し威嚇したが、アールはそのまま体重を俺に移し圧し掛かってきた。とっさのことに支えることもできず、俺はあっさりとベッドに押し倒された。は あはあ、と荒い湿った息が耳許をくすぐる。
 これって俺に欲情してるのか? すべての動物、いや魔物もか、は後背位じゃなかったか? あ。どうせわからないし、とアールたちの目前でヤったこともあった か。 あれで憶えたわけじゃないよな。そんなわけない。
「アール、いたずらもたいがいにしておけよ」
 今度は声のトーンを落とし、睨みを利かせて言ってみた。アールは何も聞こえていないかのように、俺のズボンのボタンを外し、通し紐に手をかけた。
「え! ちょ、ちょっと待て」
 俺は焦った。「カイン・ハイウィンド 子飼いのクアールに犯される」という一報が頭に浮かび、背筋が寒くなった。
 え? 魔物が紐を?
 俺は自分の下腹部に視線を落とした。視界に入ったアールの「手」は間違いなくクアールのもので、指でつまんで解いたわけではなく、「手」が磁石のようにピタ リと紐の端をくっつけたまま、引っ張っているところだった。
 そこで俺はようやく気づいた。そうか、これは夢なのだ。二メートル近い体長も眉の生えた顔も磁石のようにぴたりと吸い付く手も、夢ならば合点がいく。奇怪な 謎が解けたことに、俺は目を閉じ、安堵の息をついた。
 ……
「夢だからってクアールに犯されていいわけがない!」
 思い出したようにアールもどきの腹を押し返したが、ぴくりとも動かなかった。力では敵いそうにないから、人間が魔物に勝るものと言えば知力だ、と作戦を変え ることにした。
「アール、アール。アールは俺のことが好きだな? 俺もおまえのことが好きだから、こういうことは衝動じゃなく段階を踏んで、大切にしたいんだ」
 アールもどきはそ知らぬ顔で――そう見えた――下着の中に「手」を入れ直に触れてきた。
 思わず声を漏らしそうになって唇を噛んだ。どこが「知力」だ。魔物を相手に何を女子みたいな言い訳してるんだ、と自分の馬鹿さ加減に呆れ、情けなくなった。
 アールもどきの触れ方は、魔物の手なのに、磁石みたいな手なのに、まるで長い指が絡みついているように心地よく、俺の弱いところをついてきた。下腹部への愛 撫と同時に長い舌は耳をなぞり首筋を舐めあげてくる。俺は翻弄されまいと、三角測量と座標計算の数式を頭に思い浮かべたけれどそれはほんの数秒しか 役に立たなかった。どこか馴染みのある手の動きに、息が上がってきたことを自覚しながら、俺は思わず彼の名を口にした。
「ゴルベーザ様……」
 手の動きが止まった。俺も自分の声を耳に聞いた瞬間、ある確信と共に、魔物の下顎をぐいっと引き上げ瞳を覗き込んだ。
「ゴルベーザ様?」
 にゃん。アールもどきが鼻を鳴らした。
 そうか、夢なのだから何でもありなのだ。二メートル近い体長も眉の生えた顔も、肉球があるくせに巧みに動く手も、性急でいて焦らすような愛撫も、主ならば合 点がいく。奇怪な謎が解けたことに、俺は目を閉じ、安堵の息をついた。
 ……
「だからってクアールの姿に犯されるのはいやだ!」
 思い出したように上半身を起こすと、彼の身体は簡単に動いた。俺はそのままベッドに座り直し、魔物の前で両手をついた。
「何でもありなら、クアールなんかじゃなくて、お顔を見せてください」
 主魔物は情けない顔をして――そう見えた――うなだれた。なんでもありなのにどうやらできないらしい。俺は長いため息をついた。むしろ俺の方が情けない顔を していたかもしれない。
「では、お声を聞かせてください」
 主魔物は顔を背けた。それもできないらしい。それならば、と俺は目を閉じて彼に念を送ってみたけれど、彼の心の声を聞くことはできず、テレパシーが通じるこ ともなかった。なんて不自由な夢なんだ。
「ゴルベーザ様に会いたい、クアールたちに会いたい、って思ってたから夢に見たんだろうな……」
 俺がぼそっと呟くと、主魔物は、にゃあ、と短く鳴いた。
「それにしても、合体して出てこなくてもいいのに……」
 クーは雌だから妙な合体を免れたのだろうか。この主魔物にクーが加わったらどうなるのか少し興味はあったけれど、二対一で魔物のパワーが勝りぞっとしない結 果になっていただろう、と想像はそこまでにしておいた。
 主だと気づいたせいなのか、気づいてほしいから暴挙に出たのかわからなかったが、ともかく主魔物はおとなしくなり、大きな身体を摺り寄せてきた。俺は彼の首 に腕を回し引き寄せて言った。
「お会いしたい、と確かに夢に見ましたが、いくら中身がゴルベーザ様でも魔物の姿のままではできません」
 彼が舌を伸ばし俺の唇を舐めてきた。長く尖らせた舌が歯列を割ろうと粘っていたけれど、俺は口を固く閉じて侵入を許さなかった。
「そんなキスもだめです。人の姿でないと」
 深いキスを諦めた彼に、そう声をかけて宥めた。
「ゴルベーザ様の姿でも、中身がアールだったらだめですよ」
 主魔物が恨めしげに――そう見えた―――見つめてきたから、俺は彼の湿った鼻先に小さなキスを落とした。
「これは夢なんですからそのうち覚めますよね? このままでも困りますが、覚めるとゴルベーザ様もアールもいないのですね。それは少しさびしいです……」
 俯いた俺の視線の先を追っていた彼が、俺の手を小さく舐めた。今日は何度も彼に舐められたけれど、いまの舐め方は慈しみを込めた厳かで穏やかなものだった。 胸がいっぱいになり、彼の方へ精一杯の笑顔を向けた。
 彼が俺の頭を抱きしめてきた。魔物の前肢なのに髪を撫でる手は彼の大きな手そのもので、不思議な気持ちがした。
 彼の腕の中で俺は突然の睡魔に襲われた。夢の中で眠くなるなんてどういうことだろう。彼の胸に頭を預け、ぼんやりと霞んでいく意識の中で、俺はうわ言のよう にこの夢最後の言葉を口にした。
「今度は、おねがいです。贅沢だってわかっていますが、どうか、別々に出てきて――」





「っていう夢を見た。今頃」
「それは大変だったな」
「何だ、その棒読みのねぎらい」
「私もおまえの夢を見たぞ」
「他人(ひと)の夢話っておもしろくないよな」
「……結構ひどいな、おまえ」
「わかった、聞く聞く。どんな夢だ? クアールに憑依したとか?」
「……見たこともない動物を拾ったのだが、そいつは夜になると人間の姿になって私のベッドに忍び込んでくる。そんな夢だった」
「何か似たような夢だな。で、それが俺か」
「ああ。ところが、おまえは既にいるのだ。隣で寝ていた」
「ん? つまり、俺が――」
「二人。なかなかの桃源郷だったが、体力がもたんな」
「……」
「自分に嫉妬しているのか」
「呆れてるだけだ!」













2016/07/02
BACK | NEXT