白い花の芳しい

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後編

 類稀な容姿を持つカインは、これまで男女問わず幾度となく下卑た視線やあからさまな誘いを受けてきた。町の娘たちが寄越す黄色い声も秋波も彼は鬱陶しそうにあしらうだけで、下心を持って近づく者を歯牙にも掛けなかった。美貌を称えられると途端に、俺の中身を見ようとしない、と不快を顔に表すので、褒め称えた者たちは彼の不機嫌に戸惑う羽目になった。セシルも似たような経験をしてきたためそれを理解し、それに増して余りにも身近な存在なので、彼の容貌を特に意識することはなかった。
 だがいまは何かが違う。
 こんなにも心臓が早鐘を打つのは、彼に魅せられているからだ。青い眸は自分だけを見つめて欲しいと思い、形の良い艶やかな唇は、憎まれ口でもいい、自分だけに語りかける言葉を紡いで欲しいと思う。金の髪に指を入れ、白い首筋に顔を埋めて紅い痕を残し、滑らかな肌に手を滑らせ肉の弾力を確かめたいと思う。
 自分の浅ましさを何度も頭を振って否定しつつ、セシルは自分を悩ます「何か」を理解し、はっきりと自覚した。自分は彼が欲しいのだ。親友でいられないと言うのなら、彼の支配者になりたいと思うほど身も心も欲しいのだ。自分がそう思うなら、彼を意のままに操ったあの男がそう思わないはずがない。
 遂にセシルはカインの身に起こったことを悟った。
 ゴルベーザに対する敵愾心は抑えようもないほどに膨れ上がり、それは「嫉妬」と言い換えられることをセシルはもう否定しなかった。
「セシル……?」
 険しい表情のまま黙り込んでしまったセシルを訝って、カインは名を呼んだ。
 清廉とした姿に似つかわしくない濃厚な芳香を漂わせる白い花に、カインの姿が重なった。

 おもむろにセシルはカインに顔を寄せ唇を押し付け、すぐに離れた。突然の出来事に言葉も出ないカインの眸を見つめ、真摯な顔つきで告げた。
「放っておけない。僕はおまえが欲しい」
「……な、何言っ――」
 カインの抗議の言葉を封じるように、セシルはカインの唇を乱暴に塞いだ。噛み付かれないようにそろそろと舌を差し入れ咥内にくまなく這わせる。情熱に任せた稚拙なキスが次第に相手を慈しむようなゆったりとしたものに変わるころ、カインは硬く強張った身体から力を抜き、苦しそうに息を漏らしながらも、おずおずと舌を伸ばしてきた。
 互いに舌を絡ませてぬるい唾液を交わし、唇の裏側の湿りをたっぷりと味わったのち、息を継ぐためにゆっくりと顔を離した。酸素を求めて喘ぐ彼の顔を見下ろす。ぼんやりと焦点の合わないカインの眸が光を取り戻す前に、彼が何かを口にする前に、セシルは角度を変えてさらに深く口付けた。しばらく、キスがもたらす、頭の芯が痺れるような快感に酔っていたセシルだったが、カインが頭を振って舌を押し返してきたので、離れがたい思いに彼の舌を軽く噛み、下唇にチュと大げさな音を立てて顔を離した。
 昂ぶりを伝えるために身体をぴったりと密着させ、彼の首筋に顔を埋め舌を這わせると、カインは短い声を上げたがすぐに下唇を噛んで、声にならない喘ぎをもらした。
「俺を……」
 息も絶え絶えにカインが声を絞り出した。
「俺を犯すのか」
「ああ」
 即座に肯定したものの、カインが放った言葉を反芻してセシルは絶句した。彼の身体に這わせた手をそれ以上動かすことができなかった。

 彼を押さえつけ力ずくで身体を奪うことの卑劣さに、どう正当性を持たせようとしたのか。本能の赴くまま、欲情に任せて、が理由になるというのか。「思いを遂げるため」というのは傲慢に過ぎない。むしろ、彼のことを愛しているかどうかさえわからないのに。たとえ愛し合う二人でなくとも、この瞬間に心を通わせなければ、虚しさが残るだけなのに。
 交合を楽しむだけ、と割り切れるほどセシルは大人ではなかった。
 欲望のはけ口を求める相手としては、カインはセシルにとって大切な存在過ぎた。
 欲しいという気持ちに偽りはないけれど、カインが望まなければ思いとどまることができる。先ほどまで身を火照らせていた熱はすっかり冷め、後悔の念が押し寄せ始めた。

 ぴんと伸ばした両腕でカインの身体をまたぎ彼を見下ろしながら、悪かった、と声に出そうとしたとき、カインは頭を浮かせて首を伸ばし、セシルの瞼、頬にそっと口付けた。頬の濡れる感触に、セシルは自分が涙を流していることに気づいた。
 これは卑怯者の涙だ。自分の傲慢さを憐憫して流す濁った涙だ。それを吸ってくれたカインの胸の内を思うと、彼の真意を測りかね、セシルは首を横に振った。
「ばか。なんでおまえが泣くんだ。泣きたいのはこっちだ」
「ばか、ばか、言うな」
 手の甲で涙をぬぐいながら口を尖らせるセシルに、カインは困ったように笑った。
「俺が欲しいのなら、やるよ」
 思いがけないカインの言葉にセシルは目を見張った。愁いを帯びた彼の青い眸がまっすぐ自分に向けられている。
「……僕に同情しているのか」
「同情してるのはおまえだろう」
「そんなんじゃない。僕はただ……」
「純粋でお人よしで、皆の憧憬の的パラディン。いい子ちゃんばかりでいると息が詰まるぜ」
「……嫌だったんじゃないのか」
「おまえがこんな大胆だとは思わなかったからちょっと戸惑っただけだ。たいしたことじゃない」
 それはカインの口癖だったけれど、衝動に駆られたとはいえ一大決心をして及んだ行為を、その他大勢の者たちのそれと一緒にされたような気がして、セシルは顔をしかめた。
「完全無欠のパラディンじゃない。欲しけりゃ力ずくで奪おうとする。俗っぽさがあって、いい」
 微かな笑みを浮かべたカインの言葉に、セシルはばつが悪そうに目を伏せ下唇を噛んだ。カインが思い描くパラディンに自分はまだ当てはまらないのだろうけれど、いまはそれでいいと思った。真のパラディンになることでカインが彼自身を卑下し離れてしまうのなら、このままでいいとさえ思った。
 セシルは手を伸ばしカインの頬を撫で、目の下のふくらみを親指で何度も撫でた。視線を合わせ見上げてくる青い眸は、自分を突き抜けてどこか遠くを見ているようで、セシルはそれを遮るために、自分自身が固く目を瞑った。重い息を吐き、一、二、三とゆっくり数え心を落ち着かせる。恐る恐る目を開け、首を伸ばし、カインの長い睫毛に口付け、非難を込めて間近に彼の眸を覗き見る。
「『犯す』とか言うなよ。他に言い方、あるだろ」
「……いや、いいんだ。俺には、それで……」
 腕を伸ばし首にしがみついてきたカインにそれ以上抗うことはできず、セシルは、片手で彼を抱きかかえながら、自分と身体を重ねることでつらい記憶を押し流してしまおうとする彼の、痛ましいまでの決意が悲しく愛しくて、彼の長い髪に何度も頬擦りをした。
 ぴったりと寄せた互いの頭と頬、ぐぐもった声と熱い息が耳をくすぐる。
「ローザに秘密ができちまうな」
「……ああ。でも、もし」
「……こんな俺が言うのもなんだが、彼女を悲しませるのは」
 ためらいがちに彼女のことを口にした彼の、表情は見えなかったけれど、声は震えていた。
「もしおまえとローザ、二人が溺れていて一人しか助けられないとしたら、僕はローザを助ける」
「……それでいい。そう答えなきゃ、ぶん殴ってたところだ」
「彼女を無事助け出したら、僕はおまえを追って一緒に沈む」
「……」
 彼の身体が小さく震え、長い髪がセシルの鼻先をくすぐる。笑いを堪えているのか、呆れて二の句が継げないのか、気を悪くしたのか。何も返さないカインにセシルは不安になり、呼びかける。
「カイン、聞こえたか?」
「……ばか野郎。やっぱりおまえは大ばかだ……」
「ばか、ばか言うなよ」
 声を震わせ、さらに強くしがみついてくる彼の髪をやさしく撫で、痩身でいて実はしっかりと筋肉のついた身体が腕の中でほどよい弾力を返してくるのを感じながら、セシルは、何もかも捨ててずっとこうしていられたら、と甘く凶暴な罠に自ら足を踏み入れるかのように、白い花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。









2008/03/09

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