すっかり元通りとはいかないと誰もがわかっていたけれど、誰もがそれについて触れようとしなかった。知り合って日の浅い自分が口を挟むことではないとヤンは考え、時が解決してくれるとシドは考えていた。セシルがなんとかしてくれるとローザは考え、セシルは敢えて何も考えないようにしていた。
そんな状況に痺れを切らしたのはローザだった。女は言葉を求める生き物だ。
「カインと話をしていないの?」
ローザが憂慮の面持ちでセシルに尋ねた。セシルは、いや、と短く返すことで、それ以上言うな、と言外に示した。それに気づいていないのか、気づいても堰を切って溢れる気持ちは止められなかったのか、彼女は思いのたけを打ち明け始めた。
「私には前と変わらずやさしいわ。でも、口数が少ないのがさらに寡黙になって、何を考えているのかわからないの」
セシルは黙ったまま彼女の手を取り、握った。
「洗脳がどういうものか私にはわからないけれど、それが解けたいま、カインは苦しいんじゃないかしら。だって、ゴルベーザの許にいる彼は、本当に忠実な家臣そのものだったのよ……」
セシルは涙声のローザに、もう休むんだ、と背中をそっと押し出しベッドに腰掛けさせた。ドアノブに手をかけもう一度、おやすみ、と言ったセシルの背中に向かって、彼女は声をかけた。
「あなたになら、あなたにしか彼は自分の心を話さないわ。お願い……」
考えた末に出た答えに向き合うのが怖くて今まで何も考えないようにしていたセシルだったが、自分の部屋へ戻りながら思考を巡らせ始めた。
正気を取り戻して戦列に復帰したカインは、自分を洗脳し操っていたゴルベーザに一矢報いようと静かに闘志を燃やしているように見えた。ゴルベーザの悪事の目的を話してくれた。貴重なマグマの石も渡してくれた。そのおかげで、次に為すべきこと、次の目的地を求めてこうして旅を続けていられる。普通に会話もしているし、戦闘時は以前にも増して頼りになる。何も問題ないはずだが、以前と同じようで以前とは違う。
カインは余計なことは話さないし、セシルも何も訊かない。自分が操られている間のことを訊かれても不愉快なだけだろう、とカインを思いやる気持から何も訊かなかった。
だが本当は、洗いざらい何もかも打ち明けてほしい。彼にはどこまでも親身になれるし助けになりたい、そう思っていることも真実だった。知りたいのか知りたくないのか。彼に対してはいつも相反する気持ちに揺れている。
ふと我に返ると、自分の部屋をとっくに通り過ぎていた。こんな気持ちのまま部屋に戻る気にもなれなくて、セシルは、少し夜風に当たろう、と宿屋を出た。
村の裏手にそびえる火山の地熱のせいなのか外は夜になっても暖かく、じっとり湿気が肌にまとわりつく。さわやかな夜風を求めていたセシルは当てが外れ、宿に戻ろうとしていたところ、ふと花の香りが鼻腔をかすめた。その香りに誘われるように進んで行くと、町のはずれにある池が水面から湯気を立たせているように見えたので、もっと近くで見てみようと、茂みを掻き分け池のほとりに近づいた。
「カイン……」
開けた景色の先、大きな木に背中を預けて座り込み池を眺めているカインに出くわした。
突然目の前に現れたセシルに動じる様子もなく、おう、と彼はいつもの返事を寄こした。
カインが戻ってから二人きりになることはほとんどなかった。今こそきちんと彼と向き合おうとセシルは覚悟を決めた。
「隣、いいか?」
カインが頷いたので、セシルは彼の隣に静かに腰を下ろした。池の端を彩る白い花が、ぬるい空気のためか、むせ返るような香気を放っていて、セシルは息苦しさに咳払いをした。
セシルは緊張していた。以前ならこんなことにいちいち断りを入れたりしない。何を話していいかわからない。いま居心地の良い沈黙を共有しているとはとても思えず、カインの様子を窺うため、彼の方を横目に盗み見た。
カインは手にした草の葉を弄びながら、いつもの涼しい顔で池を眺めていた。
セシルは、会話の糸口を探してひとりどぎまぎしている自分が情けなくなり、手持ち無沙汰に、小石を池に放り投げた。ぽちゃん。月明かりが火山を映した水面に、波紋が幾重にも広がる。
「温泉なんだぜ」
ふいにカインが口を開き、セシルはびくっと居住まいを正した。
「さわってみろよ」
カインに促され、セシルは膝で這ったまま池に近づき水に手を浸した。水をすくうと、かすかに鉱物の臭いがする。
「温かい」
「浸かるにはちょっとぬる過ぎるけどな」
「湯気が立っているように見えたから、見に来たんだ」
「俺も」
ささやかな好奇心が一致したことがうれしくて、セシルは、今度は勢いよくカインの隣に腰を下ろし、幾分楽な気持ちで彼に尋ねた。
「眠れないのか」
「シドのいびきが、な」
年寄りに任せておけ、とカインとの同室を願い出たくせに、安眠を妨害してどうするんだ。セシルは苦笑いを浮かべたが、笑ってばかりいられないと顔を引き締めた。
「部屋を代わろうか? 僕は慣れてるから」
カインがふっと息を漏らすだけで笑った。
「いや、いい。俺も慣れなきゃ」
「……すまない」
「何謝ってるんだ」
セシルは、カインが自分の交代の申し出を「おまえは裏切って離脱していたから慣れていない」の意に取ったので自嘲の笑いを浮かべた、と咄嗟に思い、そのように取れる言い方をしたことを謝った。気の回し過ぎだと自分でも思ったし、深読みし過ぎていると自分でもわかっていた。わかっていたのに、すぐ慣れるさ、と軽く返せなかった。
何かが巧くいかない。 少し行き違えただけの距離がどんどん広がっていくような気がして、セシルは焦った。
落ち着かない様子のセシルを見て、カインは嘆息した。
「そんなに気を遣うな……」
「……すまない」
「……何度でも謝らないといけないのは俺の方だ」
「それは、もういいんだ」
「俺はそれだけひどいことをおまえたちにしたからな」
「操られて、仕方なかったんだ。おまえが悪いんじゃあない」
カインは首を横に振り顔を歪め、小刻みに震える下唇を噛んだ。
「操られていたといっても意識はあったんだ。何があったかも憶えている。いっそ何もかも忘れてしまえれば……こんな……」
カインは膝を抱え寄せ、突っ伏した。背中を丸め身を縮ませる彼の姿に胸が痛んだ。
こんな風に追い詰めるつもりはなかった。下手なやり方と気の利かなさに自分で自分が腹立たしく、セシルは拳をそっと握り締めた。
カインがつらい胸の内を搾り出すように呟く。
「俺は、俺はしあわせを感じていた……そんな自分を俺は赦せない」
「それ以上自分を責めるな」
セシルがカインの肩に腕を回すと、カインは身をすくませた。セシルはなだめるように彼の上腕をやさしく撫でた。カインが洟をすすり声を震わせた。
「パラディンか……さすがだな、セシル。俺にはおまえが眩し過ぎて、もう……見れない」
その言葉に弾けたように正面に向き直り、セシルはカインの両肩に手をかけ揺さぶった。
「何言ってるんだ! カイン!」
カインは顔を横に逸らし目を伏せた。
「言ってくれたじゃないか! 僕がどんな姿になろうと親友だって!」
「昔のことだ」
カインはセシルの手を跳ね除けようとしたが、セシルはさらに強くカインの肩を掴んだ。
「離せ」
「カイン、僕を見ろ!」
「離せ!」
「いやだ。離さない!」
覆いかぶさるようにセシルはカインを抱き締めた。二人は勢い余って柔らかな草の上に倒れ込み、セシルがカインの上に圧し掛かる形になると、カインは身をよじり足をばたつかせ抵抗した。
「痛い、ばか! 離せ!」
「だめだ! 絶対離さない!」
セシルはカインを抱く腕に力を込めた。力を抜けば、腕から抜け出した彼はまた自分の許から去ってしまうかもしれない。そう思うと胸がかきむしられるように苦しくて、セシルは無我夢中で彼を抱き締める。
「わかった。わかったから、離せ」
カインは、さらに長いため息をつき抵抗をやめると、観念したように顔を動かした。セシルもその気配に胸を少し浮かせた。
見詰め合う二人の視線がぶつかる。間近で見たカインの美しさにセシルは思わず息を呑んだ。陶器のような白い肌、ほんのりと色づいた頬、高く通った鼻梁、形のよい唇。涙をこらえたためなのか、目尻はうっすらと赤みを帯びている。
セシルはしばし声を出すことも忘れ彼の端正な顔立ちに見入っていたが、長い睫毛に縁取られた青い眸に自分の姿が映っていることに気づき、少し安堵して彼を抱く手を緩めると、カインはゆっくりと瞬きをして、息を吐き出した。
「ばか。加減しろ」
「おまえがあんなこと言うから……」
「……本当だ。もう俺にかまうな。単なる仲間の一人として接してくれればいい」
カインの長い睫毛がまたゆっくりと伏せられたので、セシルは再び彼を揺さぶった。
「何があったか言ってしまえよ! みんな吐き出してしまえ!」
「……無茶言うな」
「言って楽になることもあるじゃないか。僕はそんなに頼りないか?」
「そういうわけじゃない。もう、俺にかまうな。放っておいてくれ」
「……」
セシルは、怒りなのか悲しみなのか、自分でも言いようのない感情を持て余し、真下にある顔を殴りつけたいような凶暴な衝動に駆られたが、怒りのせいだけではない昂奮が自分の体の中心に湧き上がってくるのを感じ、すんでのところで思いとどまった。昂奮の正体は驚くべきもので、まさか自分が彼に対して抱くとは思ってもいないものだった。
2008/03/02