記憶の欠片

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 事の善悪の区別もつかないほど心服していたのは、かけられていたという術のせいだけか。彼を畏れ彼を信じ彼のためなら命を投げ出すことも厭わないと思ったこともすべて正気の沙汰ではなかったのか。
 答えはとっくに出ているというのにあの日からずっと同じことを問い質している。自分を見失っていたのだと、認めたくなくても認めなければならない。胸のつかえを搾り出すように大きく息を吐く。

 初めから独りだった。だから元に戻っただけだ。あの穏やかな日々もすべてまやかしで、あれは本来の自分ではなかった。
 利用されたのだ。ただ刺客として。ただ望むものを手に入れる手段として。情愛に飢えた孤独な男を篭絡することなど、文字通り、赤子の手を捻るように容易かったに違いない。
 それなのに、怒りも憎しみも恨みも湧いてこない。醒めない夢の中にいるように、やわらかな床に沈み込みこむように、足許がふわふわと落ち着かない。
 もしかしたら未だ術中にあるのだろうか。恐ろしい仮定に身が震える。自分の在るべき姿はどこだ。日々焦りが募る。

 これまでとは対極の、眩いほどに神々しい姿の騎士になった親友は、感無量とばかりに自分を抱き締めすべてを赦してくれた。人質として捕らえられ生命を危機に晒した幼馴染は、何も言わず目を潤ませ、そっと手を握ってくれた。
 自分を赦し受け入れてくれた二人に報いるためにも、自分のできることを誠心誠意、最善を尽くそう。
 自分のできること。やらねばならぬこと。
 左手をじっと見つめ拳を固く握る。
 この手で、何の慈悲もかけず、息の根を止めること。


 聞き慣れた鳴き声を耳にする。
 辺りを見回し舌を鳴らしてみると、みゃう、と微かな声を上げ、茂みから黒い猫が現れた。カインは微笑み、握っていた拳を広げ手招きをした。
「おいで」
 自分で口にした言葉に、心臓がぎゅっと絞られるように痛んだ。

 いつもこうして呼ばれていた。抗えない有無を言わせぬ強引さではなく、あくまでもやさしく慈しみをこめて。承服しかねると首を傾げているときでも、釈然としないものを抱えているときでも、低く穏やかな声で呼ばれれば、ふらふらと誘われるように傍らに寄って行った。腰を抱き寄せられ、諄々と諭されることもあれば、そのまま装備を剥がされ気まぐれな愛撫に翻弄されることもあった。

 じっと目を合わせ尾を左右に振りいつでも逃げ出せるよう低く身構えている黒い猫を見て、カインはゾットの塔で世話をしていた魔物の仔らに思いを馳せた。




 初めて見る幻獣に、二匹の魔物の仔は尾を大きく膨らませ全身の毛を逆立てて唸り声を上げた。
 蛇のように禍々しくとぐろを巻いていた黒い竜が首を伸ばし、魔物の仔の顔の前で愚弄するかのように細く長い舌を伸ばす。二匹はびくりと後ずさり、尾を後肢の間に巻き込みさらに甲高い声で唸った。

 魔物の仔らはすくすくと、早くも人の腰の高さほどにまで成長したが、いつまでたっても一撃必殺の技を繰り出す様子がなかった。カインが主にそれを告げると、彼は「切羽詰った状況ならばどうだ」と前触れも無く黒竜を召喚した。

「ゴルベーザ様!」
 事の成り行きを見守っていたカインは、二匹を慈しんでいる主が無体な所業をするとは思えなかったが、魔物の仔たちの様子に堪りかね、彼に懇願した。
「ゴルベーザ様。怯えていますから、どうか……」
「出るぞ。下がれ!」
 主が突然叫んだのでカインは反射的に後へ大きく下がり、魔物の仔を振り返った。再び威嚇の体勢を取った一匹の身体を青白い光が包み、眩く閃いたのち、光の弾が黒竜に向かって放たれた。




 カインは猫から視線を逸らし、横目で様子を窺いながら掌をひらひらと揺らした。
「おいで。そう、何もしないから」
 猫はようやく警戒を解き、途中が鉤型に曲がった尾をピンと立てながら、窺うように、ゆっくりと近づいて来る。
「そう、そう。よし、いい子だ」
 手の届くところまで寄ってきた猫の顎の下を撫で、素早く抱き上げる。嫌がらないので胡坐を組んだ膝の上に乗せた。猫がごろごろと喉を鳴らし始めたのでカインは安堵し、その額をやさしく撫でてやった。
「どこから来たんだ。ひとりか。ん?」
 肉付きのよい喉許を擦ってやると、黒猫は目を瞑り大きなあくびをした。絹のように光る黒い毛とずっしりとした重み、大気に混じる獣の匂いがカインを過去の記憶へといざなった。




 すっかり大きくなったというのに、まだ幼年なのか、仕種や行動はなかなか落ち着かなくて、カインは毎日声を荒げていた。
 一日を終え自室に戻り、兜を脱いで長椅子に腰掛けほっとひと息つくのも束の間、我先にと争って膝の上を奪い合う二匹に、ため息混じりにぼやいた。
「でかくなったくせに、乗っかるなよ」
 運良く膝の上を確保した一匹を「重い」と押し退け、椅子の端に追いやりその上に圧し掛かる。すぐ仰向きになり頭の位置を調整し、魔物の温かな身体を枕にして「結構具合いいいぞ」と呟き、カインはそのまま目を閉じた。

 ぎゃあぎゃあと喧しい声がしたかと思うと枕にしていた魔物が動いたため座面に後頭部を打ち付けてしまい、カインは眉を顰めて薄目を開けた。目の前にぼんやりと黒い影が浮かぶ。
「クアールの枕はどうだ」
 突然降ってきた低く穏やかな声に驚き、目を見開いた。黒い兜がじっと自分を見下ろしている。
 慌てて身体を起こそうとしたが少し考え、カインは臥したまま応えた。
「毛がふわふわと柔らかく、なかなかです」
 微笑みながら両腕を伸ばすと、彼は、首に腕を回せるように身体を寄せてきてくれた。ひと目見て上等の生地でできているとわかる漆黒のマントがカインの頬に触れる。クアールの毛並みに勝るとも劣らない極上の肌触り。
「重いだろう」
「ちょうど好きな重さです」
 主はふっと息を吐き、革手袋を付けたままの手の甲でカインの頬を撫でた。そのやさしさがうれしくて、漆黒の甲冑を強く抱き締めた。




 黒猫が顔を上げ、みゃあ、とひと声鳴いてカインの膝の上を降りた。カインも我に返り、どうした、と声をかける。猫が向ける視線の先で茂みががさがさと動き、そこにほっそりとした青灰色の猫が現われた。
 黒い猫はもう一匹の猫に駆け寄り、鼻先を合わせ臭いを嗅ぎ合い、首を擦り合わせる。
「待ち合わせだったのか」
 黒猫は茂みの手前でカインを振り返り、みゃう、と小さな声で鳴いた。
「行けよ」
 追い払うように手を振り、顔を背けた。
「とっとと行っちまえ」
 睦まじく寄り添う二匹が茂みの中に消えたあと、カインはまたひとり残された。
 
 額の奥が痛む。
 二匹はどうしているのだろう。誰が世話をしているのだろう。
 カインは頭を振った。 
 所詮魔物だ。幼さは徐々に失われ、自分のことなど忘れてしまい、本来の凶暴さと残忍さを剥き出しにしてのべつまくなし村を襲い人を襲うだろう。そうしていつか互いに気づかないまま対峙し、牙を躱(かわ)し爪を躱し技を浴びる前に、何度も抱いたその首に槍を突き立てるだろう。
 そのとき俺は悔恨に打ちひしがれるのか、憐れみの涙を流すのか。それとも、その他大勢の一つとして、何の気も払わないのか。

 脳裏のイメージは暗闇の中のぼんやりとした光に摩り替わった。光源の中心に何かが見える。
 近寄って確かめたい。行ってはいけない。
「来い」「行くな」
 聞こえてくる声音はまるで違うのに一つに重なって共鳴し、やがて聞き取れなくなった。
 残像を振り払うため、カインは夜空を仰ぎ見た。火口から立ち上る薄灰色の噴煙が星を覆い半円の月を隠す。
 このまま月が消えてしまえばいい。そうなれば、目的を失い志半ばで夢絶たれ、この戦いも終るかもしれない。
 ばかなことを。
 子どもじみた空想に苦笑いを浮かべ、視界から月を消すためにそっと瞼を閉じた。



 
「随分熱心だな」
 突然声を掛けられびくりと肩をそびやかす。読書に没頭していたカインは、主が書斎の扉を開けたことに気づかなかった。すみません、と頭を下げながら本を閉じ、照れくさそうに「月の裏側」と書かれた表紙を彼に見せる。
「学んでおこうと思いまして」
「何か役に立ったか」
「……月までの距離と、天体周期などが――」
 彼は息を吐くだけの笑いを漏らし、カインの手から本を取り上げ表題を指で弾いた。
「心がけは殊勝だが時間の無駄だ」
「はい」
 何か未知のことに出くわした場合、主に逐一説明されなくとも理解できるようにしておきたい。そんな思いから読み始めた本だったが、正直、難解な公式や論文にうんざりとしてきたところだった。この書斎にあるすべての書物を読破している主の言うことに間違いはない。「殊勝」と言われたことで思いは伝わっていると確信し、それに満足してカインは立ち上がった。
 主は天窓越しに見える半円の月を見上げじっと佇んでいる。話しかけることもためらわれて、カインも同じように、鈍い銀の光を放つ月を見上げた。
 どのぐらい経っただろうか、主がぽつりと呟いた。
「聞こえるか」
「え。あ、いえ」
 主は自嘲の笑いを漏らして首を横に振り、兜の額部分を押さえ黒いマントを翻した。
「ゴルベーザ様。ご気分が……」
「……」
 気遣うカインに背中を向け、彼は無言で書斎を出て行った。

 またいつもの頭痛だろうか。
 こんなときは、呼ばれるまでは離れていることが正解だともう知っている。カインは嘆息し、再び安楽椅子に腰掛け窓を見上げた。
 月に何があるというのだろう……
 考えたところでわからない。理解もできず、見当もつかない。わからないことが不安を呼ぶのだろうか。
 カインは身体を丸めて膝を抱えざわつく胸を押し付け、主が自分を呼ぶ声を聞き逃さないようにじっと耳をそばだてた。



 
 風は止み地熱を含んだぬるい空気が身に纏わりつく。皮膚に何か貼り付くような違和感を憶え、カインは目を開け何度も首を擦り、虫を追い払うように周りの空気を掻き回し風を起こした。
 不快な熱はこの湿った夜気のせいなのか、身の内から沸き起こる衝動のせいなのか。
 
 違う。
 余計なことを思い出すな。
 倒せ。
 違う。
 もっと強い言葉で憎め。恨め。それができないなら、そんな自分を憎め。弱い自分に怒れ。
 殺せ。
 肉を断ち槍を突き立てとどめを刺せ。屍を足蹴にして笑ってみせろ。

 甘い記憶と打ち寄せる後悔の波にさらわれ飲み込まれてしまう前に。夢も現実も過去も現在も、境界のない曖昧な世界で感情の昂ぶりも忘れ、生への執着も薄れ、生きながら死んでいく前に。ゆっくりと朽ちていく前に。










2010/11/09

 
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