風花舞う

BACK | NEXT |

 爪先と足跡の先端を合わせて静かに踏み締める。自分も小さいほうではないはずなのにそれは一回り大きく、思ったとおり、足がすっぽりと入ってしまった。
 始めの二、三歩はより深くつけられており、積もった雪の感触を確かめるため、ゆっくりと慎重に踏み出したことがわかる。足跡の間隔は徐々に広くなり、雪道の歩行に慣れていくさまがわかる。これをつけた人物が長身であることは間違いない。カインの確信はさらに強まり、「やっぱりでかいな」と小さな声で呟いた。
 後を振り返る。飛空艇から伸びた足跡が一人分にしか見えないことに何故か小さな満足感を得た。
 足跡の間隔はさらに広くなる。いくら長身で長い脚とはいえ、これほどまでに歩幅が広いものだろうか。もはや歩いているというより跳ねているようで、いかな跳躍が専門のカインとはいえ、この雪では思うように踏み込むことができず、足跡を乱さないようにごく軽く地面を蹴ることがせいぜいだった。そのため持ち前の跳躍力は活かされず、一歩進むごとに崩れた身体のバランスを立て直さなければならない。
 そもそも普通に歩いていれば問題のないことだ。ばかばかしいことを真剣に試みる自分の幼稚さを自嘲して、カインは口許を緩めた。


 悪天候を理由に操縦士から飛行不可能を告げられ主ゴルベーザは、時間の無駄だ、と不機嫌を顕わにした。日も暮れ気温は急激に下がっている。今夜この吹雪が止むことはないと判断し、カインは、明朝取り立てて急ぎの予定もないことを主に告げ、危険を冒してまで無理に帰路につく必要もない、と進言した。主もそれに了承し、出立を明朝に延ばし飛空艇で一晩を過ごすことになったのだった。
 翌朝、飛空艇の客室の小さな丸い窓から一面の銀世界を覗くことができた。雪は止み、黎明の空は晴れ渡り、深い藍色が次第に青灰色に変わっていく。バロンでは雪はめったに降らず、ましてや積雪は片手に数えるほどしか経験していない。まだ朝も早く出発まで時間もある。少し外を歩いてみよう、とカインは、防寒用のアンダースーツを甲冑の下に着込んで身支度を整え、機外に出た。タラップを降り真新しい白い雪面に、子どものように胸を躍らせて一歩踏み出そうとしたところで、既に何者かの足跡がつけられていることに気付いた。


 真っ直ぐつけられていた足跡が、突如右に左に大きく離れている。上り坂になっているせいだろうか。試しに右の足跡を踏んでから左を踏もうとしたが、跳び上がらねばそこまで届かなかった。
 顔をしかめ息を弾ませながらぴょんぴょんと跳ね、勾配を上っていく。これは普通ではない。何のためにこんな歩き方をしたのだろうか。足跡を踏むためにずっと俯いたままだったカインは、そこで初めて顔を上げ前方を見据えた。
 見上げた先では、立ち止まったゴルベーザが顔だけを後に向けてこちらを振り返っていた。主が自分を待っているのだと気付き、カインは大慌てで彼の許へ駆け寄った。
「おはようございます」
 大きな足跡は主のものだと見当をつけていたが、いざ彼の目前に出ると、まるで後をつけてきたかのような行動の理由を説明する心積もりをしていなかったので、挨拶以外の言葉を発することができなかった。
 想定外だったとはいえ、結果、主を待たせてしまったことに恐縮し、カインは項垂れて顔を赤らめた。
「珍しいか」
 雪のことを言っているのだとわかった。はい、とカインは頷いて、手持ち無沙汰に、膝に付いた雪を払いながら、ふと彼の育った土地のことを思い出した。
「ゴルベーザ様も」
「風が強いので、降っても積もらなかった」
「そうでしたか……」
 彼も積雪が珍しいのだ。朝早く雪道を歩き出した理由が同じだったことに、カインは相好を崩した。
「楽しそうだったな」
 やはり主は何でもお見通しで、他愛ない遊びも見られていた。カインはさらに頬を染めたが、主の口調が嫌味でも咎めるものでもなかったので、つい、と頷いた。
「ゴルベーザ様、あれはどうやってつけられたのですか」
 カインは後ろを振り返り、左右に大きく離れた主の足跡を指差した。
「あれを辿るのはたいへんでした」
「姿が見えたので、おまえに合わせて遊んでみた」
 本当にこの方は、時折その童心を覗かせる。
 彼がそんな一面を見せるのは自分に対してだけだろうと考えると、堪えきれない笑みが零れそうになる。カインは笑みを湛えたまま、畏れ多くも主が付き合ってくれるなら、と思い切って願い出た。
「もう一度やってみせてくださいませんか」
 ゴルベーザがわずかに首を傾げる。
「俯いていて、見ていませんでしたので……」
「……」
 何も返さない主にカインは、分不相応なことを言ってしまったか、と眉を曇らせたが、ゴルベーザはカインに背中を向け黒いマントを翻し、大きく一歩踏み出した。
 跳ぶように着地し、弾むように蹴る、を繰り返す。重厚な甲冑を身に着けているにもかかわらず重さなど微塵も感じさせない俊敏さにカインは目を丸くし、はっと思い出したように、五、六歩進んで立ち止まった彼の許へ駆け寄った。
「お、驚きました。あまりに軽やかに跳ばれるので」
「おまえには及ばんがな」
 思わず、当然です、と応えそうになりカインは慌てて口を噤んだが、目聡い主には、最初の音を象った唇の形だけで察しがついたらしく、くっくと喉許で声を押し殺すように笑った。
「竜騎士のそれは特別だ」
 何もかも見透かされ、カインは羞恥でさらに顔を赤くして俯き、小さな声で呟いた。
「一つくらいは、私に残しておいてください……」
「一つと言わず、私にもできないことは山ほどある」
 低く穏やかな声は常よりもやさしく聞こえた。

 主の率直な真情の吐露に、カインは胸を衝かれた。絶対の存在だと畏れ敬うこともこちらの勝手な願望で、生身の人間である彼は、それに疲れそこから解放されたいと願うことがあるかもしれない。時折見せる童心もその片鱗なのかもしれない。
 いや、とカインは己の述懐を即座に否定した。それこそが自分の身勝手な願望だ。気に入りとは言え配下の分際で絶対の主と、どこか心の片隅で、対等でありたいと願う身のほど知らずな自分の密やかな願望なのだ。

「こんなことはできるぞ」
 ゴルベーザの言葉にカインが顔を上げると、彼は左手をかざし、少し長めの呪文を詠唱し始めた。彼の掌から冷気が発し、大気が氷の粒となり、上ってきた斜面が瞬く間に氷に覆われた。
「これで帰りは早い」
 ゴルベーザは踵で氷面を二、三度打ち強度を確かめると、膝を曲げ重心を傾け一歩踏み出し、すっと滑り出した。靴底でエッジを効かせて止まり半身で振り返り、カインに、おいで、と手を差し伸べる。
 このまま滑って降りていくのか……
 カインも見よう見まねで一歩踏み出したが巧くいかず、豪快に転び尻餅をついた。ゴルベーザが低い声を上げて笑う。
「颯爽とした竜騎士も形無しだな」
「……未経験ですから」
 カインは口を尖らせゴルベーザを軽く睨み、打ち付けた腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。尻に付いた氷のかけらを払い落とし、両腕を前後に広げバランスをとりながら膝を曲げた。
「もっと腰を落とせ」
 言われたようにしたつもりだったが、予測もしない方向に足が滑った。転倒するまいと支えになるものを求めて、思わずゴルベーザにしがみついた。勢いの余ったカインの身体を支えきれず、ゴルベーザもカインもろとも転倒し、尻をついたまま斜面を滑り出してしまった。
 ゴルベーザは片腕にカインを抱えながら呪文を唱え、空いているほうの手を前方にかざした。掌から発した炎が氷を溶かし雪を溶かし赤茶けた土が顔を覗かせると、二人もそこでようやく止まった。
 ゴルベーザの腕をしっかりと掴み、頬に当たる氷の飛沫の冷たさに、主の胸に額を寄せ俯いていたカインは、滑走が止まると我に返り、あたふたと頭を下げた。
「も、申し訳ありません」
 まだ座り込んでいるゴルベーザの甲冑とマントに付いた氷のかけらを、カインは丁寧に払い落とし始めた。
「私の自慢の竜騎士にも、できないことが多いな」
「……練習します」
 自分の失態もどこへやら、からかわれているのに「自慢」と言われたことがうれしくて、カインは顔を綻ばせた。
 すべての氷を払い落としたはずなのに、白い結晶が黒いマントに落ちる。カインは天を仰いだ。冷たい雪が頬に降る。
「降ってきました。晴れているのに」
「風花だ」
「かざはな?」
「あそこから風に乗って落ちてきた。すぐやむ」
 ゴルベーザは遠くに見える雪を頂いた山々を指差し、いきなり仰向けにどさりと倒れこんだ。雪が解けているのは尻から下の部分だけで、主の背中も頭も氷の上だ。
 せっかくきれいにしたのに……
 カインはわずかに眉を寄せた。
「濡れますよ……」
 掌を上に向け風花を受け止めていたゴルベーザがカインに顔を向け、両腕を広げた。カインは俯いて下唇を緩く噛み、意味も無く辺りを見回してから、おずおずと彼に覆い被さった。黒い篭手に覆われた逞しい腕がカインの細い腰に回される。彼の胸に頭を乗せ、カインは首を少し捻って空を見上げた。
 明るくなった空から朝の陽射しとともに舞い落ちる雪はきらきらと輝き神秘的で美しく、自分の身体がふわりと浮き上がり天空へと吸い込まれていくような錯覚に陥る。熱くなった頬に落ちる雪がひんやりと心地良い。
「きれいですね……」
 いかにも感に堪えないようにカインは呟いた。ゴルベーザは何も応えなかったが、腰に回された腕に力が込められたことが返事の代わりなのだろう。カインは、顔は空に向けたまま、ゴルベーザの肩に置いた手に少しだけ力を込め、風花が舞い散るまで飽くことなく天を眺めた。







-----------------------------------------------------------------
シオマネキさんからのリクエスト
「雪シチュエーションでゴルカイ」でした。

積雪が珍しいゴル様がなぜスケート(もどき)ができるのか。尻餅をついた二人が氷上を滑っていくさまを映像化すると笑えます。
いちゃいちゃさせるのは楽しいです。ありがとうございました。








2009/03/01
BACK | NEXT |