バブイルの塔の研究室に通されたその科学者は雇い主の咳払いも聞こえていないかのように「すごい」と何度も感嘆の息を漏らしていたが、ゴルベーザの一際大きな咳払いに、ようやくこちらに向き直った。
「さすがはルゲイエ博士。ここまで立派な装置や設備を見たことがありません」
昂奮気味に話す男に、ゴルベーザはまた咳払いをした。
「揃えさせたのは私の力によるところが大きいがな」
「そうでしたか……失礼しました」
そんなところで張り合ってどうするんだ。
カインは密かにため息をつき、ゴルベーザの背後から男をそっと観察した。
科学者というものはなぜこうも己に無頓着なのだろう。中途半端に伸びたぼさぼさの髪、無精ひげ、古臭い眼鏡に皺だらけの白衣。体格は意外にも良くルゲイエよりもはるかに若いが、実際歳を知ったなら、もっと驚くことになるだろうな、とカインは眉をひそめた。
「すべて君の好きに使っていい。足りないものがあれば用立てよう」
「ありがとうございます。科学者冥利に尽きますよ、これは」
書庫から取り出した分厚いファイルにざっと目を通しながら、科学者は声を弾ませた。
「で、先日話した研究についてだが……」
ゴルベーザが本題を切り出したので、傍らのカインはびくりと姿勢を正した。科学者も顔を上げ眉間に皺を寄せ、指先で眼鏡を少し押し上げる。
「その件ですが……」
「何だね」
「私の本来の研究とは異なりますし、まあ、ざっくばらんに言えば、先日ご提示いただいた金額では少々……」
「……」
漆黒の兜に覆われていても、ゴルベーザのこめかみに血管が浮き立つのが見えたような気がして、カインは額を押さえ小さく嘆息した。
ゴルベーザが低い声で笑う。
「なるほど。確かに大仕事だ。さらに密な契約交渉が必要だな」
「それはもう、互いのために……」
ゴルベーザは一歩進み出て科学者の額の前に左手をかざした。口の中でぶつぶつと何やら唱え出すと、わけがわからず首を傾げていた男の眸は次第に輝きを失い、瞼がとろりと下がってきた。それを見たカインは「ちょっと失礼」と二人の間に割って入り彼を科学者から引き離し、男に背中を向けてゴルベーザに声を潜めて訴えた。
「何で洗脳!」
「聞いたか。あの口の利き方を」
「それでもだめだって。意に添わないからって何でもかんでも洗脳していいはずがない」
「何でもかんでもとは何だ。久しぶりだぞ」
細かいことはいいから、とカインはゴルベーザの腕を軽く引いた。
「ちゃんと交渉しま、交渉しよう。ここは任せて」
カインはゴルベーザを宥め、科学者に向き直り、竜の兜の下で笑顔を見せた。
「あー、実は、あまり大っぴらにはできないが、この研究はさる国の王の希望でもある。従って、かかる費用はもちろん、貴殿への報酬も何ら懸念することはない。心ゆくまで研究に専念して欲しい」
ほう、と男が片眉を上げた。
「して、その国とは」
「……この星で最大の国と言えば、安心できるだろう」
カインの言葉に男は破顔した。
「それは心強い! バロン王は慈しみ深く誠実で寛大な方だと聞いています。そうかあ、彼の希望かあ……」
男は手にしていたファイルを、ぽん、と軽く叩き、口を横に広げたまま大きく頷いた。
ゴルベーザがそっとカインの背後に寄る。
「おまえもひどいな。すべてセシルに回すつもりか」
ゴルベーザがぼそりと呟くと、カインは人差し指を口に当てて彼を遮り、声を潜めた。
「こんな大それたことを安くやらせる方があとが怖いって。それに、セシルは、俺が頼めば何とかなる」
「私が頼む。私が頼めば快く引き受けてくれるだろう」
「俺が頼む。俺の方が付き合いが長い」
「……肉親の私が頼むのが筋だ」
「……セシルは俺の頼みを断ったことがない」
「あのう……」
兜の下で静かに火花を散らしていた二人に、科学者が恐る恐る声を掛けた。カインは彼に向き直り、ああ、と愛想笑いを浮かべた。
「大丈夫だ。何なら前金を渡してもいい」
「恐れ入ります」
科学者はにこやかに頭を下げた。
「で、研究の件だが。レシピエントはこれだ」
ゴルベーザはカインの腕を引き肩を抱いた。カインが俯き頬を染める。
「やはりそうでしたか。美しいお方なので、そうだと思いましたよ」
改めて男は、カインの頭から爪先までじろじろと舐めるような視線を寄越した。その視線は不快だったが、手術ともなれば彼に全てを晒すことになるのだから、とカインは努めて気に掛けないようにした。
「健康な身体だ。傷痕が残らんようにしてくれ」
「お安い御用です」
「どういう段取りになるのか」
「先ずは装置をチェックして、不備がなければ、雌の魔物と雄の哺乳類から始めます。類人猿で成功したら、いよいよ人間です。他の被験者から始めたほうが万全だと思われますが、いかが致しましょうか」
「わかった。バロンの牢獄か、ならず者の吹き溜まりから適当に連れてこ――」
カインは、ちょっと、とゴルベーザを遮り彼の腕を引き科学者と距離を取り、囁き声で彼を詰った。
「だから、だめだって!」
「何故だ。取るに足らない者で予め実験すれば安心ではないか。偉大なる研究には犠牲が付き物だ」
「だからそういう考え方がだめなんだって。どんな命でも軽々しく扱っちゃだめだって」
「……ではこうしよう。希望者を募る。事前に充分説明し、同意書にサインさせる」
「そんな巧くいくかな……」
「子どもが欲しい男などいくらでもいる。彼らにとっては『ダメで元々』だ。費用ももってやる。もし手術が失敗したとて、失うものは何もない」
「それもセシル持ちなんだよな」
「私が頼めば大丈夫だ」
「俺が頼む」
カインは胸を張り顎を上げ、真っ直ぐにゴルベーザを仰ぎ見た。
「……今日はやけに反抗的だな」
「嫌いじゃないくせに……」
唇の端を上げるだけで笑ってみせると、ゴルベーザも、ふん、と鼻で笑い、カインの顎の先を指で摘んだ。
「自信があるようだな」
もちろん、と顎を摘まれたまま頷く。
「賭けるか」
「何を」
「どちらがセシルに多く出させられるか」
「悪趣味だな……まあ、負ける気、しないけど」
「あのう……」
兜の下でにやりと微笑みながらじっと見つめ合っていた二人に、科学者が恐る恐る声を掛けた。ゴルベーザは彼に向き直り、ああ、と彼には決して伝わらない愛想笑いを漆黒の兜の下で浮かべた。
「大丈夫だ。被験者はこちらで用意する。できるだけこれと年齢や体格を合わせよう」
「そうお願いしようと思っていました」
科学者はにこやかに頭を下げた。
「では早速、身体計測から始めましょう。装備をすべて外してください」
ゴルベーザは黒いマントをはためかせカインを背後に追いやった。
「いや、こちらで測って値を報せよう。項目を教えてくれ」
「……かなり細かく測らなければならないのですが……」
科学者は眉を寄せ、眼鏡を押し上げた。
これから先、思いやられるな……
ゴルベーザの背中に拳を軽く押し当てながら、カインは今日何度目かのため息をついた。
カインは、机に向かって何やら書き物をしているゴルベーザの背後に寄った。
「で、どうやって集めるんだ。世界中のパブにビラでも貼る?」
広い肩に両手を置いて机上を覗き込み、彼の書いているものを見てカインは、あ、と声に出さず口を小さく開け、ゴルベーザの顔を見下ろし彼と目を合わせた。
「飛空艇からばら撒くほうが手っ取り早いだろう」
ゴルベーザはいましがたまで書き記していた紙をカインに手渡した。それを受け取りじっと見つめながら、カインは嘆息した。
「無駄に巧いなあ……まさか、これまで――」
「もちろん、初めてだ」
彼がしたためていた手書きのビラは、装飾文字の配置も字体も斬新かつ印象的で、ご丁寧に、愛らしい赤ん坊の絵まで描かれている。
「でも、胡散臭いよなあ、これって。『費用無料、送迎有り』なんてにわかに信じ難いし」
「真実だから仕方がない」
「この『二十代前半容姿端麗の方、優遇』なんて怪し過ぎる」
「白髪交じりや腹の突き出た奴が来ても困るだろう」
「それに、足りない文言があるよ」
眉をわずかに寄せ訝るゴルベーザに、貸して、と彼の左手からペンを奪い身を乗り出して、カインはビラの上にさらさらとひと言書き足した。
「『パートナー同伴可』?」
「あんなおどろおどろしい塔まで成功するかどうかもわからない手術を受けにやって来るなんて、一人じゃ心細くて無理だ。でも二人なら、旅行気分で……な、何だよ……」
意地悪く微笑んだゴルベーザの視線に気づき、カインはじっと睨み返しわずかに口を尖らせた。
「心細いのか、おまえも」
「……そ、そりゃあ、自分の身体が変わるわけだし……」
「案ずるな。そばにいて手を握っていてやろう」
「そ、それは、ありがとう……」
「麻酔が効いているのをいいことに、善からぬことをされてはいかんからな」
「監視目的……」
ペンを片付け、さて、とゴルベーザは立ち上がりカインの腕を取った。
「計測するか」
「うちに巻尺、あったかな」
「私のここからここまで約二〇センチある」
カインに左の掌を向け、ゴルベーザは右手で左手の中指の先から手首までを指し示した。
「……だから?」
カインが冷たい視線をくれると、ゴルベーザはカインの腰を抱き寄せ、左手を引き締まった腹に当てた。
「巻尺など要らん」
「正確に測れないし、それに……測りもせずごそごそ這い回ってるのは何故」
「文句をいいつつ、息が荒くなっているのは何故だ」
「端から計測する気なんてなかったくせに……」
ゴルベーザは喉の奥でくぐもった笑いを漏らしてカインの耳に音を立てて口付け、唇を頬に滑らせ口を塞いだ。
次第に激しくなっていく彼の口付けを受けながら、カインは、明日は巻尺を買いに行こう、と頭の隅で考えて、彼の首に両腕を回し熱を持ち始めた身体を押し付けた。
2009/04/19