入れ違いに部屋から出てきたローザの表情がこれまで見たこともないほど険しいものだったので、カインは一呼吸置いてから彼女
に声をかけた。
「ローザ。お、おい!」
彼女はカインの呼びかけに振り返りもせず肩を怒らせ、つかつかと大股で廊下の角を曲がっていった。
何があったんだ……
幼馴染のらしくない態度に首を傾げながら、カインはドアノブに手をかけた。
部屋に入ったカインが目にしたものは、ベッドに腰掛け項垂れている、予想どおりのセシルの姿だった。カインはため息を一つつき、呆れたように声をかける。
「おい、何があったんだ。ローザ、怒ってたぞ」
セシルは、はあ、と大きなため息をつき両手で顔を覆った。
「どうしよう……」
「だから、何があったんだ。ケンカか?」
「ケンカにもなってないというか……」
はっきりしないセシルに苛立ち、カインは語気を強めた。
「あのな、痴話喧嘩も結構だが――」
「カイン!」
突然セシルはカインの腕に縋りついた。
「な、何だ」
「だって、僕の言い分、全然聞いてくれないんだ! 誤解なのに!」
「だからどうしたんだ。落ち着け」
カインは空いている手でセシルの肩を叩き、彼を引き離した。セシルは皺の寄ったシーツを手持ち無沙汰に引き伸ばしながらカインを見上げた。
「カイン。ローザの様子を見てきてくれないか。どれくらい怒ってるか」
「俺がか? 勘弁してくれ」
カインは心底うんざりとした様子を隠しもせず顔を背けた。
「ほとぼりが冷めなきゃ話もできないし」
「自分でやれ」
「頼む。雰囲気が悪いまま旅を続けると、皆に迷惑がかかるだろ」
そう思うなら自分で行け、と何度カインが諭しても、セシルは「頼む」と両手を合わせて懇願し続けた。
ローザは中庭のベンチに腰掛け、青いガラスや貝殻が埋め込まれた石の天板に頬杖をついて噴水を眺めていた。
黙ったまま向かいに座ったカインに一瞥をくれるわけでもなく、彼女は顔を噴水に向けたまま「可愛いわね」と呟いた。カインも彼女の視線の先にある石像に目を
向ける。
少女の肩に担がれた瓶から注ぎ落ちる水が涼やかな音を奏でている。それはごくありふれた特に目を引くものでもなかったが、カインは彼女に合わせ「ああ」と応
えた。
「彼って素敵よね……」
唐突に、ローザは空(くう)を見つめうっとりとため息交じりに呟いた。
いきなり何を言い出すんだ。
「彼」とは当然セシルのことだ。カインは呆気に取られたが表情には出さず、脚を組み直し腕を組んだ。
「強くて勇気があって、真面目でやさしくて。パラディンになってからは神々しいくらいにきれいで恰好いいし」
「惚気か」
自分が仲介するほどのことではなかったな、とカインは彼女に気づかれぬよう嘆息し肩をすくめた。
ローザが頬杖を外しカインに向き直り、少し前のめりになって眉をしかめ語気を強める。
「でもね、やさしいんだけど誰にでもそうじゃない? だから、その煮え切らない態度が女の子に変に期待を持たせることがあるのよね」
「……まあな」
カインは否定しなかった。確かにセシルは誰にでも分け隔てなくやさしい。
「そういうことがあっても、誰も傷つけず、巧くあしらって欲しいのに」
「そんな器用な奴じゃないってわかってるだろ」
「聞いた?」
カインの言葉には応えず、彼女は話題を変えてきた。それがケンカの原因のことを言っているのだと察したカインは、肝心の部分をはぐらかすような先ほどのセシ
ルの話では到底理解できなかったこともあり、彼女の口からはっきりと聞こうと思い、いいや、と首を横に振った。
「村長に娘さん、いたでしょ」
「ああ」
村長の傍らに、編んだ栗色の髪を二つに分け白い前掛け風のドレスを着た女がいたことをぼんやりと思い出した。
「彼女、『二階の東の角です。窓は開けておきますから、日付が変わるころに』って言ったのよ。彼に」
「……思い過ごしだろ。おまえの」
カインは一笑に付したが、真顔のまま首を横に振り続ける彼女に根負けし、やれやれと大げさに首をすくめた。
「で、聞こえたのか。それが」
聞き出したのよ、とローザは鼻息荒く応えた。
「彼女がセシルに耳許で何か言ってたから、尋ねたの。何話してたの、って」
先ほどまでの怒りが蘇ったのか、彼女の頬は紅く色づき榛(はしばみ)色の眸は爛々と輝いている。普段穏やかな彼女が見せる憤りの表情は思いのほか美しく、カ
インはその艶かしさに一瞬見惚れたが、それをごまかすように視線を天板に一度落とし、再び彼女の顔を見た。
「それが気に食わんのか。誘いをかけられたのが」
一方的に誘いをかけられただけで恋人の怒りを買ってしまった親友が気の毒で、カインはローザを咎めるように、敢えて冷たい物言いをした。セシルもセシルだ。
誘いの言葉をそのまま恋人に告げるなど、馬鹿正直にも程がある。
「だって彼ったら、『行かないから、それが答えになるだろ』ですって」
もっともだ、とカインはセシルに同調し、そう口に出そうとしたが彼女の剣幕に押し黙った。
「その場で断るべきじゃない? そう思わない?」
「……返事する間(ま)もなかったんじゃないのか」
「『何故すぐ断らなかったの』って言ったら、『だって可哀想だし』ですって! おかしいでしょ? 思わせぶりな態度を示すほうが可哀想よ。そう思わない?」
「……落ち着けよ。おまえ、そんなことで癇癪起こしていたら、この先苦労するぞ」
「わかってるわ」
「いちいち目くじらを立てることでもない。あいつを信じてるんだろ?」
ローザはわずかに口を尖らせ俯き、天板に埋められたガラス玉のつるりとした表面を指先で撫で、ちらりと上目遣いにカインを見た。
「随分セシルの肩を持つのね」
「男だからな」
「カインなら私の気持ち、もっとわかってくれると思ったのに」
「……どういう意味だ」
彼女は首を横に振り、唇を引き結んだまま鼻から息を吐き出した。彼女の眉間に寄った皺を見て、何か不服があるのだろう、とカインも眉を寄せる。
「……まあいいわ」
「おい」
カインは腕組みを解き、テーブルに手をつき前のめりになった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」
「いいの?」
「……」
「……」
二人は無言のまま眉を寄せ、互いを探るようにじっと見つめ合った。時間にすればほんの一瞬のことだったかもしれないが、敵との間合いを詰めていくときと同じ
ような緊張を強いられ、カインは戸惑い「幼馴染相手にそんなバカな」と自嘲して、彼女から視線を逸らせたことをごまかすため、長い前髪を掻き上げ体裁を取り
繕った。
沈黙を破りローザが口を開く。
「言っていいの?」
何かいやな予感がする。カインは自分の直感を信じて首を横に振った。
「……い、いや、いい」
「カイン、あなた、あの――」
「ローザ!」
開け放たれたガラス戸を振り返ると、銀色の髪を振り乱したセシルが息を弾ませ突っ立っていた。彼は二人の許に駆け寄り、ローザの足許に跪き、いささか乱暴に
彼女の左手を両手で取った。
「僕が悪かった。どうして君が怒っているのかわからなかったんだ。鈍くてすまない。もし今後こういうことがあったら、すぐ断る。そんな簡単なことができなかっ
た僕を赦してくれ」
「セシル……」
ローザは背を丸め、空いている手でセシルの手を包み彼の顔の前まで挙げた。
「いいの。私もわがままだったわ。怒ったりしてごめんなさい。もっと、どっしりしていなきゃね」
「いや、君はいまのままでいいんだ」
セシルは彼女の手の甲に恭しく口付けた。
こいつら……
俺は何をやってるんだ、とカインは眉間を指で摘み頭を軽く振った。
組まれた自分の脚の爪先が屈み込んでいるセシルに当たりそうになっている。そのまま靴の裏を彼の背中に押し付け蹴飛ばしてやろうかと思ったがそれはとどま
り、カインは嘆息して立ち上がった。
「取りあえず仲良くしろよ。おまえたち」
「言われなくとも、仲はいいよ」
「……仲間の士気に関わる。痴話喧嘩もほどほどにしてもらおうか」
「ありがとう、カイン」
「ありがとう、カイン」
声を揃えた恋人たちは互いに見つめ合い微笑み合った。
睦まじい様子の二人をそれ以上見るに耐えなくて、カインは彼らに背中を向けそっと立ち去った。
装備を外し自室のベッドに横たわり、先ほどのやりとりを思い巡らす。
あのときローザは何を言おうとしていたのだろう。強い光を宿した榛色の眸。彼女が抑えようとして抑えきれなかった憤怒と嫉妬は、セシルに対してだけでなく、
自分に向けられているような気がした。
寝返りを打ち深く長い息を吐き、窓の外に目を向ける。空は高く雲は白く、名も知らぬ鳥の甲高いさえずりが、いつまでも耳に響く。
考えるのはよそう。単なる思い違いだ。彼女に対する後ろめたさがそう思わせるのだ。
カインは再び寝返りを打ち、もう戻ることのできない幼い頃に記憶を巡らせようと目を閉じた。
2016/05/16