三人の部屋

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続々編

 わざと大きな足音を立て廊下を歩き、鼻歌交じりに部屋のドアを開けたエッジの視界に最初に入ったものは、壁に掛けられた鏡を覗き込んでいたカインの姿だっ た。
「遅かったな」
 カインは、前髪の乱れを直しながら、エッジの方へ顔を向けずに声を掛けた。
「そっか? てっきり『早いな』って言われると思ったぜ」
 カインは鏡から目を離し、エッジに向き合った。
「……で、どうなんだ」
「さすがローザだな。もう痛みもないぜ」
 エッジはカインに左腕をぐるぐると回してみせた。そうか、とカインは小さな声で呟いて自分のベッドへ向かった。
「あれ、セシルは?」
 エッジがきょろきょろと辺りを見回すと、カインは、バスルーム、と答えた。
「顔を洗ってる」
「手伝ってやらなくて大丈夫か。あの怪我じゃやりにくいだろ」
 ベッドに腰掛け、足首を引き上げて胡坐をかいたカインは、ふっと息を吐くだけの笑いを漏らした。
「セシルは何でも一人でできる。お手伝いがなくても大丈夫だ」
「お」を強調したカインの言葉に自分への揶揄を嗅ぎ取ったエッジは、負けじと片眉を上げて口許に皮肉を込めた笑みを浮かべた。
「どうした。顔が紅いぜ」
「……おまえに無理やりキスされたからな」
「どれだけ前なんだよ」
「訊くから答えただけだ」
 エッジは嘆息し、やれやれ、と大げさに呟いた。何が無理やりだ。舌まで絡めてきたくせに。
「服、替えた方がいいんじゃねえか。さっきよりボロボロだぜ」
 エッジはカインの腹を指差し、挑発を含んだ口調で言った。カインは俯いて、端切れのような服の一部をぴらぴらと引っ張った。
「セシルが、傷を見せろ、ってうるさくてな」
「へえ、見せたんだ」
「……見せた。余すところなく、な」
 上目遣いに視線を合わせてくるカインに、エッジはわざとらしく大きなため息をついた。
「あー、もう、やめやめ。めんどくせー」
「俺は嫌いじゃないけどな」
 にやりと微笑むカインの青い眸は好戦的な光を宿していて、エッジは、お手上げだとばかりに首を横に振って両手を挙げた。

「戻ってたのか、エッジ」
 顔にタオルをあてながらバスルームから戻ってきたセシルに、エッジは片手を挙げて応えた。セシルが口を開くより先に、エッジは左腕をぐるぐると回した。
「さすがローザだな。ほら、このとおり。故郷(くに)の奴らよりすげえわ」
「そうか。よかった」
 セシルはうれしそうににっこりと微笑んだ。
「俺はローザを褒めてんだよ。おまえがにやつくことないだろ」
 自分のベッドに腰掛けながら、エッジは意地悪く笑った。
「べ、別に、にやついてなんか……」
 セシルはうっすら顔を赤らめ、鼻から下をタオルで覆い、ちらちらと視線だけをカインに向けた。カインはそれに気づいていないようだったが、セシルに代わっ て、淡々と言った。
「ローザはバロン一の白魔道士だ。誇りに思うのは当然だろ」
「はいはい。バロンの誇るお三方と一緒に戦えるなんてしあわせですよーだ」
「血気盛んな王子様。わかってんなら、足を引っ張るなよ」
「てめー!」
 立ち上がったエッジの前に、まあまあ、とセシルは立ちはだかって、エッジをなだめた。



 何の予兆も無く目が覚めた。物音が聞こえたわけでも傷が痛むわけでもなかったので、またすぐ眠りに就くつもりで寝返りを打つと、同じく、こちらに寝返りを 打った隣のベッドのセシルと、月明かりだけの暗闇の中、まともに視線がぶつかった。
 なぜそんなことをしたのか自分でもわからなかったが、エッジはセシルに手招きをした。セシルが眉をひそめ怪訝な顔をしたので、セシルがしているであろう勘違 いを正すため、エッジは身体を起こして、ベランダの方向を、立てた親指で指し示した。その仕種を理解し、起き上がろうとしたセシルに、シッと人差し指を口に当 てて、いちばん奥のベッドで眠るカインを起こさないように、エッジは一足先に音を立てずベッドを降り、ベランダへ出る窓を静かに開けた。
 さわやかな夜風とは言い難いむっとした空気が身を覆う。ベランダの手すりの上で腕を組んでもたれかかり、真っ黒な夜の海を眺めた。

「どうした」
 セシルが囁き声で後ろから声をかけてきた。
「おう。眠れないのか」
「それは僕の台詞だ」
 ふっと息を吐くだけの笑いを漏らしたエッジだったが、内心は、応えようがなかった。話があるわけでもないのにわざわざ彼を呼び出したことにエッジ自身が困惑 していた。
 いや、話はある。いままで訊こうとしなかっただけだ。なぜ皆がカインに気を遣うのか、彼とセシルの間のぎこちなさは何故か、そして、彼の背後に見た黒い影は 何なのか。
 すべてを聞き出すのは無粋に思えたので、エッジは、一つに絞ろうとしてじっと考え込んだ。
「エッジ?」
 黙ってしまったエッジを訝って、隣に並んだセシルが顔を覗き込んできた。
「あ、ああ、すまん」
「どうしたんだよ」
「ん、あいつにさ、何があったのかな、って思って」
 口から滑り出たのは、真っ先に思いついたことだった。笑みを称えていたセシルの顔がさっと険しいものになる。ああ、やっぱりな。だが、口にしてしまったこと はもう戻せない。
「言いたくなきゃ別にいいけどよお、皆、過剰に気ぃ遣ってるだろ。なんでかな、って」
 セシルは重い息を吐いて、すまない、と言った。謝ることじゃない、とエッジは苦笑いを浮かべた。
「隠してるわけじゃなかったんだが、進んで言うのも何か変だと思ってたら、そのうち言いそびれて……」
「うん」
 沈黙。もう一度、セシルの深いため息。
「カインは……敵の手に落ちていたんだ……」
「え?」
「……僕に剣を向けたこともあった」
「おい、それって……」
「洗脳だ。彼が悪いわけじゃあない」
 セシルはこれまでのことを訥々(とつとつ)と語り始めた。その内容に驚いたエッジだったが、疑問が氷解し清々しさを憶えたことの方が大きかったので、話して くれてありがとよ、と笑ってセシルの、負傷していない方の肩を抱いた。
「僕は、いままでと変わらず接しているつもりだった。でも、エッジには、そう見えていたんだな」
「いや、俺の勘が鋭いだけだな」
 セシルは、ありがとう、と少し眉尻を下げて微笑んだ。

 二人並んで正面を向き、黒い海を眺める。こうしていると、子どもの頃乳母に聞かされた話を思い出す。「夜の海に近づいてはいけません。黒い海には魔物が潜ん でいて、気に入った子どもを飲み込んでしまうのですよ」大人になったいま、それを信じているわけではないけれど、四方八方真っ暗な闇に飲み込まれてしまった ら、聞こえてくる魔物の声にすら、一人じゃないんだ、と安堵するのではないかと思えた。

「あのさ、気を悪くすんなよ。洗脳って簡単に解けねえんだよ。だから……その……あいつの危うさは」
 セシルは目を見張り、エッジの顔をじっと見つめた。その真摯な目を見て、エッジは、いや、と首を振り、ぽりぽりと頭を掻いた。
「おまえがいれば大丈夫……かな」
 あの黒い影は自分の見間違いかもしれない。不確かなことを言ってセシルを不安にさせる必要はない。
「そうだといいけど」
 セシルは目を伏せて、顔にかかる髪を後ろに払った。エッジは、ふわふわと夜風に揺れるセシルの銀の髪を眺めながら、さらさらと流れるようなカインの金の髪を 思い描き、二人を、金と銀の対のようだ、と思い巡らせた。
「なあ、おまえらって、ややこしい経験してる奴ばっかだよな」
 俺もだけど、と付け足してセシルの肩を軽く叩くと、セシルは、だから気持ちを一つにできるんだ、と微笑んだ。
 知り合って日の浅いエッジには、セシルのように、カインに全幅の信頼を寄せることはできない。もし万が一、自分の危惧することが起きたら、セシルはどれだけ 傷つくだろう。
 ますますあいつから目が離せねえな……
 エッジはぽりぽりと頭を掻いて、もう寝るか、と言った。セシルも、ああ、と頷いてくるりと後ろを向き、静かに窓を開けた。
 セシルに聞こえないように、ふうとため息をつく。
 リディアならこんなときどうするだろう……
 幼い彼女に頼っている自分が滑稽で、エッジは密かに顔を赤らめたが、いまこそ彼女に会って話がしたいと思う気持ちに偽りは無かった。










2008/08/24

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