俺は全速力で駆け出した。この調子で走り続ければ直(じき)に心臓が音(ね)を上げることはわかっていたが、それでも速度を
緩める つもりはなかった。
背後から俺の名を呼ぶセシルの絶叫が聞こえた。ローザのそれは耳を塞ぎたくなるような悲鳴だった。彼らにそんな声を上げさせるのは、俺が悪いからだ。全部俺
が悪い。もう赦してくれとは言えない。でもそれでいい。俺のことは忘れてくれ。
声が聞こえた。俺の名を呼ぶあの人の声が聞こえた。帰って来いと。
だから帰るだけだ。俺の居場所へ、唯一の場所へ。だから俺が、彼のよろこぶ土産を手にして帰るのは当然のことだろう。
奪い取ったクリスタルを手に全速力で走っていたカインだったが、さすがに息が切れ、足を止め両膝に手をついて呼吸を整えた。耳を澄ませ後ろを振り返る。自分
を追ってくる者はいない。
どこまで走ればいいのか見当もつかない。方角が合っているかも定かではない。それでもカインは、自分の勘だけを頼りにまた駆け出した。そしてとうとう、岩場
が開けた広い場所で、赤い標章を施した小型の飛空艇が視界に飛び込んで来た。よろこびのあまり大声で叫び出しそうになるのをぐっと堪え、固く握った拳を胸の前
で震わせた。
カインが機体に近づくと甲板からタラップが降ろされた。高揚を抑えるため深呼吸をしてクリスタルをしっかりと抱え直し、タラップを一歩踏み出す。
歩みを進めるたびによろこびに代わってカインの胸に不安が首をもたげ始める。先ず何と言おうか、何と言えばいいのか。いろいろな言葉が頭の中をよぎるけれ
ど、決定的なものは何も浮かばなかった。
操縦室への扉を目前にしても、カインはまだ迷っていた。不安と緊張で喉が渇く。先に水を一杯所望するべきだったと考えたが、すぐそれを打ち消した。先ず何よ
りも先に主に会わなければ。第一声はそのときの勢いに任せることにして、カインは、失礼します、と扉をノックした。
「ゴルベーザ様」
操縦室に入ったカインは真っ先に主の名を呼んだ。久々に口にしたその名は舌によく馴染んで懐かしさを感じると同時に、カインの心臓は全速力で走っていたとき
のように早鐘を打つ。
「ゴルベーザ様……」
ぐるりと見渡しても部屋は無人で主の姿は無かった。カインはがっくりと項垂れ深い溜息をついた。よくよく考えてみれば、主自らはるばるこの世界まで迎えに来
るはずなどないのだ。自分は何を思い上がっていたのだろう。
肩を落とし嘆息していたところにジジジと機械音が聞こえ、カインは慌てて振り返った。
「オツカレサマデシタ」
見憶えのある機械兵が、カインに労いの言葉をかけながら近づいてきた。眉をひそめ訝っていると機械兵の腹部が開き、中から柔らかな生地でできた台座を載せた
トレイが滑り出てきた。
「クリスタル ヲ コチラニ」
クリスタルをぎゅっと抱え直す。
「ゴルベーザ様は?」
「バブイルノトウ デ オマチデス」
「バブイル? ゾットの塔ではなく?」
「ハイ」
「……これは俺が直接渡す」
機械兵はしばらく頭部にあるランプに赤や緑の光を点滅させていたが、わかりました、と引き下がったのでカインは安堵の息を吐いた。
機械兵がコントロールパネルの赤いボタンを押すと、飛空艇のエンジンがかかった。自動操縦が設定されているらしく、液晶画面に「バブイルの塔」と表示される
と飛空艇はゆっくりと浮上し、東へ向けて飛び立った。
「ただいま戻りました」
バブイルの塔の司令室に通されたカインは、ゴルベーザの前で跪き恭しく頭を垂れた。初めて対峙したときのように、彼の纏う空気がぴりぴりと身を刺すようで、
カインは身を固くしてごくりと唾を飲み込んだ。
「久しいな、カイン」
「ゴルベーザ様には、ご機嫌麗しゅうございます」
形式ばった挨拶にゴルベーザは、ふっと鼻先で笑いカインに歩み寄り、左の掌を差し出した。カインは胸に抱えていたクリスタルを彼に手渡した。
「いや、ドワーフの城で会ったか」
クリスタルを顔の前に掲げぐるりと四方から見渡してから、それを机の上に置かれた紫紺の台座の上に乗せた。
「メテオの使い手亡き後は召喚士か。侮れん」
「……」
謝罪の言葉は何かが違うような気がした。それよりも、生涯の忠誠を誓おうとカインは口を開いた。
「ゴルベーザ様、私は……」
「勘違いしているようなので教えてやろう。術を解いたから、私の声が聞こえたのだ」
唐突な言葉に、カインは眉を顰め首をわずかに傾げた。
「おまえが私の望むものを手にしたときに解ける術を、おまえにかけていたのだ。わかるか」
カインは混乱した。彼の言葉どおり取るならば、セシルたちと過ごした日々こそが術中にあったということになる。何故、何のために。
そんなにものわかりが悪かったか、とゴルベーザは鼻先で笑ってクリスタルをそっと撫でた。
「私を敵だと思い込む術だ。これなら、わかるだろう」
カインはようやく合点が行き、目を見開いた。
「で、では……いまの俺、わ、私は…」
「心のままの、本来のおまえだ」
本来の自分とは何だ。何が本当で何が偽りなのか。
彼を敬慕する気持ちは、彼の手によらない自分自身の偽りのないものだと明かされたが、カインにはよろこびよりも戸惑いの方が大きかった。
自分を支えてくれたセシル、何かと世話を焼いてくれたローザ、あどけない眸で信頼の視線を遣したリディア、憎まれ口を叩きながらも受け止めてくれたエッジ。
彼らと接していた自分は本来の自分ではなかったということを受け止めきれず、刺すような痛みにカインは指先でこめかみを押さえた。
俺は再びセシルに剣を向けねばならぬのか。
彼らを憎む気持ちは無い。だが、いつまでも主の前に立ちはだかるならば排除しなければならない。できればそんなことはしたくない。彼の邪魔をしないで欲し
い。剣を収め白旗を揚げて欲しい。主の目的は殺戮ではない。月へ。月へ行きたいだけなのだから。
決して届かない彼らへの言葉を胸の中で呟き、カインは唇をぎゅっと噛んだ。
「な、何故そのようなことを……」
「奴らの信頼を得るために、私を憎む必要があった」
クリスタルから手を離し、ゴルベーザは腕を組みカインに向き直った。
「おまえの頭の中は単純で、顔に出る。それでは奴らをごまかせまい」
カインは首を横に振り続けた。そんなことを言うのは彼だけだ。これまでずっと感情を面に出さず振舞うことを心がけていた。何があっても冷静に対処できるよ
う、心乱されることのないよう努めてきた。彼だけだ。彼だけが自分の心を暴き、彼だけが自分の心の奥深くまで侵入してくる。
「……憎しみなんてありませんでした」
ほう、とゴルベーザは腕を組んだまま指先で、自分の二の腕をとんとんと叩いた。
「夢と現実の境が曖昧で、恨みや憎しみという強い感情を持てませんでした」
「……術のかかりが甘かったか」
火急の事態だったからな、とゴルベーザは頷いて踵を返した。黒いマントがふわりと描く軌跡を、カインは茫然と見つめた。
「あのとき深手を負い身を引くことが精一杯だった私は咄嗟に考えた。おまえに術をかけ、残るクリスタルを手に入れさせようと。そのための術だったが」
くっくっとゴルベーザは喉許で押し殺すような笑い声を上げた。
たとえ操られていようと自分を失っていようと、傍で仕えられるならそれでいい。そう決意したはずなのに、心はぐらぐらと揺れ自問自答を繰り返す。
カインは床についていた手で拳をぎゅっと握った。
自分はクリスタルを手に入れるための道具に過ぎないのか。道具を磨くためならば心を弄ぶことなど物の数とも思わないのだろうか。黒い兜の向こうから注がれる
視線が温かな慈しみに満ちたものだと思ったことも思い上がりだったのだろうか。
「わ、私は、ゴルベーザ様のお傍にいることだけを、ただ……」
カインの言葉を遮り、だから、とゴルベーザは前置きして帯剣している細く長い剣を抜き、刀身の峰でカインの竜の兜の側面をごく軽く叩いた。彼が何故剣を抜い
たのか。よもや傷つけるつもりも命を取るつもりもないことはわかっていたが、カインにはその理由まではわからなかった。
兜を脱ぎ前髪の乱れを素早く整え顔を伏せると、ゴルベーザは刀身をカインの首に当てた。カインは身を強張らせ、息を呑む。
「その間おまえが何をしようと私の及ぶところではない」
冷たい切っ先が当たる箇所に何があるか、カインには憶えがあった。嫌な汗が腋を濡らす。返す言葉も見つからず、カインは押し黙ったまま彼の言葉の続きを待っ
た。
ゴルベーザが剣を少し動かし、耳にかかる髪を払った。切られた金の髪が数本、はらりと床に落ちる。
「おまえはまだ若い。容易く目前の情欲に流されてしまうのも無理はない」
「……」
術にかかっている間、何かに監視されているとは思えなかった。たとえ離れていても、彼には何もかもお見通しなのだろうとなんの迷いもなく考えた。
切っ先が当たる左耳の後ろ、セシルにつけられた紅い痕。あのときはセシルが必要だった。必要とされた。後悔は無い。
「が、私もそこまで人間ができていないということを思い知った」
剣を鞘に収めゴルベーザはカインの許に寄り片膝をついて屈みこみ、カインと同じ高さに目線を合わせた。後ろで一つに束ねた髪を掴まれ、仰のかされる。顎が上
がり、身体を支えきれずバランスを失い、カインは床に尻をつきへたりこんだ。
こんな風に乱暴に扱われたことはなかった。恐ろしさにわなわなと震えながらもカインは、いつも泰然自若としていたゴルベーザが隠しもせず顕にする感情を、ひ
しひしと感じていた。
それは、所有物を一時的にでも奪われ誇りを傷つけられたことに対する怒りではなく、自分以外の者に身体を委ねたことに対する怒り。「嫉妬」と言い換えても間
違いはないだろう。
恐ろしさの中に垣間見える彼の嫉妬がカインの胸を焦がす。
黒い兜がさらに近づいて、カインの耳許で囁いた。
「おまえは私のものだと言っただろう」
低く穏やかに響く声。身体の芯が震え、熱を持つ。
薄い金属が滑る鋭い音。それはいつもカインが焦がれていた黒い兜のガードが開く音。
彼の息が耳にかかる。そんなわずかな呼吸の音にさえ昂ぶっていく。
「私の傍を離れるな」
冷たい床も機械が見つめる目も、常ならば耳を塞ぎたくなるような自分の嬌声も気にならなかった。深々と貫かれ、縋るものが欲しくて漆黒のマントを握り締め
る。
身も心も捧げ、すべて暴かれ我を忘れ乱れても心は満たされ、その幸福感に涙が滲む。痛みと悦びに朦朧となりながらも、ばらばらだった心と身体がぴたりと合わ
さっていく心地よさに、カインは、この帰還、自分の在るべき場所への帰還は正しいことなのだ、これこそが自分の正義なのだと、思いを噛み締める。そうして彼が
与えてくれる快楽と安寧に、声を枯らし息も絶え絶えになりながら気を失うまで、自分を支配する唯一絶対の男の名を呼び続けた。
2016/05/23