彼は俺の腹の上にゆっくり圧し掛かり、左腕の傷に顔を寄せじっと患部を見つめたあと、どういうつもりか、長い舌を伸ばし俺の傷をそっと舐めた。
俺は身震いがするような、それよりも、彼の行為の意図がさっぱりわからなくてぞっとするような感覚に襲われ、彼の後ろに得体の知れない黒い影が重なっているような錯覚さえ憶えた。舐められて濡れた痕がひりりと痛む。
「一回しか言わないからよく聞けよ」
何事もなかったかのようにそう言いながら彼は身体を起こし、青白いラインに見えたアンダースーツの切れ目に手をかけ、左右に広げ引き裂いた。
「これを見ればわかるだろう。おまえは、セシルの傷が自分のものよりひどいから順番を譲った。俺は、おまえの傷が自分のものよりひどいからポーションを譲った。そういうことだ」
俺は言われるがままに彼の白い腹を見た。傷は既に血が止まっていて長さの割には浅く、傷口もたいして開いていなかった。彼の説明に納得せざるを得なかったが。
「だからって、黙ってることないだろう」
「おまえも、誰にも声をかけず、ローザの部屋を出てきたんじゃないのか」
「……」
いちいち癪に障る奴だ。だいたい俺が奴に組み敷かれているこの体勢も大いに気に入らない。気に入らないが、のけ、と言って素直にのく相手ではないだろうから、俺は黙って彼の話を聞いてやった。
「『より貧しい者に施せ』って言うよな。より傷ついた者から先に手当てを、も同じことだろう」
「甘いな」
俺は勝ち誇ったように言ってみせた。
「戦では深手を負った者を切り捨てていくことはよくある。敵に捕らえられ、戦略を漏らされることのないように、な」
「さすが王子様、正解だ。でも俺は、例え規範に外れても、俺の仲間にそんなことはしない」
「……そうか」
クールな外見に似合わず結構熱い奴なんだな。俺はちょっと彼を見直して、相好を崩した。
俺の態度に満足したカインが、早く治せよ、と言って俺の身体から降りようとした瞬間、俺は後ろ手を取って彼の身体を壁に押さえつけた。
「……なっ」
「やっぱり甘いな、おまえ。エブラーナ王家皆伝『影縛りの術』だぜ」
「仲間にそんな術を使うか、普通」
彼は呆れたように嘆息した。身体を捻って俺に向き合おうとしたが、わき腹の傷が引き攣れ痛むのか、眉根に皺を寄せ苦しそうに喘いだ。
「ほおら、やっぱり痛むんじゃねえか。無理すんなよ」
「……おまえが痺れさせたんだろ」
それもそうだった。弱くかけたつもりだったが、意外に「麻痺」が効いているらしい。少し申し訳なく思って術を解こうとしたが、奴の言葉を聞いて、解くのをやめた。
「そんな術より『回復の術』でも憶えてろ」
「うるせー! できるもんならとっくにやってら!」
「王子だったら死ぬ気で憶えろよ」
「うるせー! 年長者をもっと敬いやがれ!」
「敬われる言動ができるんならな」
「く……」
口の減らない生意気な鼻っ柱をへし折ってやりたくて、どうしてやろうかと考えていると、ちょっとした悪戯心が湧いてきた。こいつの慌てふためく顔が見てみたい。さいわい、奴は女みたいにきれいに整った顔をしているから、さほど抵抗も無く、俺は奴の唇に素早く口付けてやった。
どんな顔をしているか間近で見てやろう、と押し付けただけの唇を離し、にやりと意地悪く笑ってみせたが、俺の意に反して、彼は表情を変えず冷めた目で俺を見下ろしていて、俺は拍子抜けした。
「おまえさあ、もっと驚くとかたじろぐとか、恥ずかしがるとかしろよ」
「子どもみたいなキスにどうやって」
それを聞いてむかっとした俺はやはり子どもなのか、大人を見せてやる、と今度は口を開き舌をねじ込んでやった。カインは俺の舌をすんなりと受け入れ、待ちかねたように舌を絡めてきた。舌の裏の根元を舌先でくすぐってやると彼はわずかに身じろぎ、鼻の奥から意識しない甘えた声が洩れたことに俺は気を良くして、彼の咥内にくまなく舌を這わせた。
無意識のうちいつもの手順を踏んでいた俺は、彼の身体に伸ばした掌に、女の身体には決して無いもの、同じ男の証を感じ、慌てて手を引っ込め腰を引き、身体を離した。思わず右手をごしごしと自分の太腿に擦り付けていると、彼が眉をひそめて睨んできた。
「汚いもの触ったみたいにするなよ」
「あ、あ、す、うす、すまん。ちち、ちゃ、ちょ、ちょっとびっ、くくりして……」
しどろもどろの俺の様子に、カインは腹を折り声を上げて笑い出した。奴が声を上げて笑うのを初めて見た。それだけ俺に心を赦してくれたようで、彼との距離がぐんと近くなったように感じ、俺は自分の失礼な仕種もうろたえも忘れて、笑顔も結構いいじゃないか、と彼に好感さえ抱き始めた。
笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら、彼が言う。
「王子様は根っからノーマルだな」
「お、女はごまんといるのに、何が悲しくて男を抱かなきゃならねえんだ」
「ごもっとも。たったひとりの惚れた女も落とせない、けどな」
「う、ううるせー!」
俺は頬がかあっと熱くなるのを感じた。
前言撤回。普段あまりしゃべらないくせに口を開けば憎まれ口ばかり。気に食わないことこの上ない。
さらに笑い声を上げる彼に、照れ隠しと反省の一発をお見舞いしてやろうと軽くパンチを繰り出したが、彼はひらりと身をかわし、チェストの上に飛び乗った。
「部屋の中で跳ぶな!」
「けが人のパンチなんてのろいのろい」
「てめーのジャンプもキレがないぜ!」
「明かりもつけないで何やってるんだ」
追いかけっこに夢中になっていた俺は、セシルが部屋のドアを開けたことに気づかなかった。彼は手にしていた小さな洋燈を壁際に設えられた机の上に置き、その火種を壁掛けの照明へ移した。
部屋は暖かなオレンジ色に包まれ、片袖を抜いて肩から胸にかけて包帯が巻かれたセシルの姿が現れた。彼は俺の方へ向くと、驚きの声を上げた。
「エッジ! 腕が!」
俺はとっさにカインの方を見やったが、彼はロッカーの上にしゃがみ込んで片膝を立て、傷と破れた服をうまく隠していた。如才無い奴だ。
「たいしたことない。いま、ローザのところへ行こうと思ってた。おまえは大丈夫か」
「ああ。一晩休めば元に戻る。僕が時間取ったみたいだな。すまない」
「いや、いいんだ。おまえの方がひどかったし。それより……」
「ん?」
「そこの強情なバカの面倒を頼むぜ、リーダー」
「え?」
きょとんと目を丸くしたままのセシルの脇をすり抜け、俺は部屋を出た。
時間の経過のせいか、腕の痛みはいくぶんか軽くなっている。
廊下を歩きながら、俺はカインの後ろに見えた影を思い、彼の不可解な行為を考えた。あれは本当に錯覚だったのか。あれは、彼のあの行動は、母猫が仔猫の傷を舐めて癒すようものではなかった。あれはそう、体液を舐め取るような舌の動きで欲望を喚起するものだった。
あのとき背中を走ったのは戦慄だけでなかった。俺はあの瞬間、確かに昂奮していた。
俺はそれ以上考えるのをやめた。俺には関係ないことだ。俺は今までと変わりなく彼に接していればいい。
キスじゃなくてあいつの傷を舐めてやればよかった、と俺は傷ついた二の腕を鼻先に持ってきて舌を伸ばし、彼の舌の跡を辿ってみた。
2008/05/18