リザイン

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後編

「あ、あの……てください」
 小さな声で訴えるやいなや、カインは耳まで紅く染めて俯いてしまった。何をそんなに恥ずかしがることがあるのか、ゴルベーザは見当もつかず、聞き取れなかった言葉をもう一度言うように促した。
 カインは目を閉じて、大きく息を吸った。
「……キ、キスをしてください」
 思ってもいなかった彼の言葉に、ゴルベーザは虚を衝かれた。
「そんなことでいいのか」
「……はい」
 
 既に心も身体も充分に開いて見せていただろうにまだ恥らうことがあるのだ、とゴルベーザは半ば呆れ、半ば感心した。
 これまで口付けはおろか、素手で触れたこともなかった。それは、人前で決して兜を脱がない故に他ならず、素手で肌のなめらかさを確かめることも、ひたむきな忠誠を誓う唇に触れることも必要のないことだった。彼を抱くのは彼を支配するためで、余計な愛撫などしなくても、慣らされた身体は充分に自分を欲しがるようになった。
 自分のすべてを与える必要など無いのだ。
 念を押すように、それらを頭の中ではっきりと言葉にしたゴルベーザは、自らの述懐に違和感を憶えた。
 これではまるで戒めのようだ。いったい何に対して戒めるというのだ。
 いつもと同じ苛立ちが、頭の中をぞわぞわと這い回る感覚が不快で、ゴルベーザは眉をひそめた。これ以上不快になることを拒むため、彼に触れようとしなかった理由を連ねたことを、頭の外に追いやった。

 カインは羞恥の余り顔も合わせられない、というように俯いている。
「おいで」
 いつものように呼ぶと、カインは、すっと立ち上がりテーブルを回り込んで、ゴルベーザの傍らに立った。彼の腰に腕を回し抱き寄せ、隣に座らせる。 
「膝に乗るか」
「いえ……」
 頬を染め俯いているカインの顎を摘んで顔を上げさせる。縋るように見つめてきたカインの青い眸は期待と不安に満ちていて、ゴルベーザは、彼を安堵させるために少し微笑んでみせたが、それが意味のないことだとすぐに気付いて、軽く咳払いをした後、空いている方の手で、黒い兜の口許を覆うガードをスライドさせた。
 カインの視線がゴルベーザの唇に注がれる。青い眸をさらに大きく見開いて、目に焼き付けようとするかのように、不躾に見つめてくる。
 ゴルベーザはカインの顎を摘んでいた親指を左右にくいっと動かした。
「見ているだけでいいのか」
 からかいを含んだゴルベーザの言葉に、カインはぶるぶると頭(かぶり)を振り、自分から更に仰向いて、長い睫毛を伏せ首を傾げ、無言のまま口付けをねだった。ゴルベーザはカインの頬に手を添え、兜が邪魔にならない角度を定めて、ゆっくりと被さっていった。
 唇を押し当てては離し、何度もそれを繰り返し唇の弾力を存分に味わった後、ふっくらとした下唇を舌でなぞると、焦れたカインは誘うように口を開けた。
 舌を挿し入れて彼のやわらかな舌を捉える。温かな舌は、まるで意思をもった生き物のように、蠢き絡み合う。舌の裏の付け根を尖らせた舌先でくすぐってやると、カインは鼻の奥から意識しない甘えた喘ぎを漏らし、じりじりと腕を伸ばして、甲冑を纏ったゴルベーザの腕や肩でなく、黒いマントをぎゅっと掴んだ。
 口付けを交わす間、ゴルベーザは目を閉じることなく、瞼を小刻みに震わせ目許まで紅潮させ陶酔するカインの顔をじっと見ていた。まるでキスを憶えたての思春期の子どものように口付けに夢中の彼は歳よりも幼く見えて、ゴルベーザは、唇をぴったり合わせたまま口を横に広げ、笑った。彼の頬に添えていた手で、白い額を撫で長い髪を後ろに撫でつける。
 舌を離し、唇を離し、顔を離して彼の表情を覗きこむ。カインは、長い睫毛を何度も瞬かせながらゆっくりと瞼を上げた。青い眸は潤み、たっぷりと吸われた唇はいつにもまして紅みを帯びている。頬を薔薇色に染めいっそう艶めく美しい顔は、微笑もうとして巧くいかなかったのか、いまにも泣き出しそうに見えた。
「満足したか」
「……いえ……」
「欲深い奴だ」
 くっくと喉許で押し殺すような笑い声を上げながら、ゴルベーザがカインの唇を軽く噛むと、彼は反射的に口を開け、舌を差し出し、首に腕を巻きつけてきた。啜り合う唾液がずるずると現実的な音を立てることに微塵も気を払わずに、貪るような激しさで口付けを交わしていたゴルベーザだったが、突然唇を離した。
「時間だ」
 え、とカインは訝しげに眉をひそめた。ゴルベーザは、兜のガードを元に戻し、カインから離れ立ち上がった。
「供は要らん」
「……お見送りを」
 頭を振りながら立ち上がろうとするカインの胸の前で、ゴルベーザは伸ばした腕をかざして、必要ない、と示し、黒いマントを翻して、大きく一歩踏み出し長椅子から離れた。
「ゴルベーザ様?」
 虚ろな眸のままカインは茫然とゴルベーザを見上げた。 
「帰りは夜になる。今日はもう下がってよい」
 カインの頭をすばやく撫でて頬に触れた後、ゴルベーザは軍靴の音を響かせて、カインの方を振り返りもせず部屋を出た。


 取り立てて大事な用ではなかった。急ぎの用でもなかった。あのまま彼を押し倒し、口や舌でもっと可愛がってやってもよかった。
 マントを掴む手も、震える舌も、声にならない甘えた喘ぎも、いじらしくて堪らなかった。そう思った途端、得体の知れない温かな塊が胸の辺りに広がり、喉までせり上がり、その息苦しさに唇を離したのだ。
 不意に、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる。思わず足を止め、匂いの許があるはずもないのに、あたりをきょろきょろと見回した。
 まただ。何だというのだ。いつもなら頭痛と共に感じる、堪らなく不快で堪らなく懐かしい匂いが、いま漂っている。
 彼のことを考えたからか? 彼といつもの幻臭がどう繋がるのかがわからなくて、ゴルベーザは頭を振り目を閉じ、大きく息を吐いた。
 ついぞ味わったことのない感情に揺さぶられ乱れた心を落ち着けようと、深い呼吸を繰り返す。
 混乱しているだけだ。無縁のはずだった感情に戸惑っているだけだ。認めればいい。じき慣れる。認めることで苛立ちは解消されるだろうが、それは新たな痛みを生むだろう。それを怖れているわけではない。自分は世を統べる者、怖れなどあってはならない。
 踵を返し、もと来た道を戻る。
 もう一度彼の顔を見れば、逆巻いていた波は穏やかな凪に変わっていくだろう。細い腰を抱き寄せ、畏怖と憧憬の入り混じった空色の眸を見れば、自然と笑みがこぼれるだろう。近いうちに、それを見せて、知らせてやろう。








2008/07/27

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