ゴルベーザとカインは、彼の部屋に設えられた品の良い年代物の長椅子に腰掛け、低いテーブルの上に置かれた市松模様のボードを挟んで向かい合っていた。
広げた膝の上で腕を組み、小さな唸り声を上げて盤面を睨みつけている配下の様子に、ゴルベーザはくっくと喉の奥で笑った。
「リザイン(=投了)か」
「いえ、まだ……」
カインが手を伸ばし、兵士を表す駒を動かすと、ゴルベーザは、すかさず馬を象った駒を動かした。
「チェック」
「あっ」
「さあ、どうする。逃げるか、守るか」
かたかたと膝を揺らしながら苦し紛れに王冠を象った駒を横に動かしたカインだったが、すぐに小さく舌打ちをした。ゴルベーザは塔を象った駒を手に取った。
「チェックメイト」
くそ! と叫んで頭を抱えカインは長椅子の上に仰向けに倒れこんだが慌てて身体を起こし、すみません、と頭を下げた。ゴルベーザは低い笑い声を上げながら、
駒を元の位置に戻し始めた。カインが慌てて、やります、と手を伸ばす。
「まだまだだな」
「これでも、故郷(くに)では敵無しでした」
「バロンのレベルが低いのだろう」
「そうおっしゃいましても……」
わずかに下唇を突き出すカインに、ゴルベーザは黒い兜の下でふっと笑いを漏らした。
本人はポーカーフェイスのつもりかもしれないが、竜を象った兜を被っていても、表情の変化がよくわかる。喜び、怒り、悲しむ。拗ねる、妬む、失望する。形の
よい唇は、語るよりも雄弁にわずかな動きで、彼の心をしっかりと表している。
ゴルベーザは壁にかかるクラシカルな型の時計を見上げた。外出予定の時刻が迫っている。今日の最後になる次の勝負は少し趣向を変えてみようと、ふと思いつい
たことを口にしてみる。
「次は、負けた方が相手の言うことを何でも聞かなければならない、というのはどうだ」
我ながら子どもじみた提案だと思ったが、子どもじみた賭けは心躍らせる。
「それは、あまり意味がないと思います。賭けなどしなくとも、仰せのことは何でも聞きますから」
カインは駒を規定の位置に置きながら、淡々と答えた。
「おまえが勝つこともあるかもしれんぞ」
「ゴルベーザ様は私の心が読めるのに、そもそも勝てるわけないです」
「読めるわけではない」
え、と目の前のカインが手を止め、顔を上げた。
「おまえの頭の中が単純で、わかりやすいだけだ」
ゴルベーザの言葉に、カインは呆然として、口をぽかんと開けた。
「どうした」
「いえ、そんなことを言われたのは初めてで……」
「ほう」
「無口で何を考えているのかわからない、とはしょっちゅう言われていましたが」
「バロンは節穴揃いか」
「……」
カインは俯いて唇を引き結び、また駒を並べ始めた。彼の故国の人々を嘲った言葉にさえ、カインは口許に微かな笑みを湛えている。彼がこれまで本当にそう言わ
れていたのならば、彼がいま、自分の許にいることは、水が上から下へ流れるがごとく自然なことなのだと、ゴルベーザは、駒を動かす所作さえ優美で美しいカイン
の細く白い指を眺めながら、彼の孤独な魂を想い、彼を初めて抱いたときのことを想った。
駒を並べ終わったカインが、ため息を一つついて、顔を上げた。
「本当に賭けを」
「おもしろいと思わんか」
「勝てるわけないですから」
「おまえが勝ったら、額づいておまえの靴に接吻することすら厭わんぞ」
「そ、そんなこと……言いませんよ!」
カインはすさまじい勢いで、手と首を横に何度も振った。
待つ時間はゴルベーザの方が圧倒的に長い。カインが次の手を考えている間、彼を急かすこともせず、背もたれに背中を預け腕を組み、正面に座るカインを眺める
が、彼が俯いてしまっていては、わずかな表情の変化を楽しむこともままならない。
「カイン」
「はい」
顔を上げたカインに、ゴルベーザは無言で、自分の黒い兜を人差し指でコンコンと叩いてみせた。それを見たカインは自分の兜を脱ぎ、傍らに置いた。
片手で顔にかかる前髪を後ろに撫で付け、カインは再び盤面に目を落とした。長い睫毛がほんのりと朱に染まった頬に影を落とす。険しい顔つきで、ふっくらとし
た下唇を親指の爪先で何度も弾き、口の中でぶつぶつ何やら呟きながら、ほっそりとした指で遠くからマスを指差して、先の先の手を読もうとしている。その仕種
に、ゴルベーザは、バロンで敵無しというのは誇言だな、と苦笑いを浮かべた。
勝てるわけがないと言いつつ、先ほどの対戦のときよりもさらに真剣な表情で取り組む姿に、勝利への執念が垣間見える。生来負けず嫌いなのだろう。万が一彼が
勝ったなら自分に何を望むのか。そう考えると好奇心がむくむくと湧いてきて、それに気をとられ、カインが動かした駒をうっかり見過ごしそうになった。
「おまえは、私に術をかけられていると思うか」
「……ルビカンテはそう言っていました」
カインは盤面に目を落としたまま答えた。
「おまえ自身はどう思う」
「……わかりません」
「術を解いたらどうなると思う」
「わかりません」
「術などかけていないのに、かかっているとおまえが思い込んでいるだけかもしれんぞ」
カインは顔を上げ、ゴルベーザをじっと見つめた。空と同じ色の眸が不安げに揺れている。
「気が散るか」
「いえ、そういうわけでは……」
カインは手の甲を頬に当てて口許を覆い、ほお、と熱い息を吐いた。
「チェックメイト」
「むう」
勝利の女神が初めてカインに微笑んだ。
よし、と足を踏み鳴らし胸許で拳を控えめに握って、カインは背もたれに身体を預け天を仰いだ。またすぐに身体を起こし、すみません、と頭を下げたが、口許は
緩んだままだった。
いそいそと駒を片付け始めたカインの手がはっと止まった。
「ゴルベーザ様、ひょっとして、わざと……」
「そうまでして靴に接吻したがっていると思うのか」
「そういうわけでは……」
カインは気まずそうに目を伏せ、再び手を動かした。
決して手を抜いたわけではなかったが、己の好奇心が勝ったのか、勘が鈍り不注意なミスを繰り返した結果の敗北だった。不思議と悔しさはなく、興味の矛先は
とっくに「カインが何を望むか」に移っていた。
「さあ、何でも言うことを聞こう」
ゴルベーザは、ぽんと一回手を打って、芝居がかった仕種で両腕を広げ掌を上にして、カインを促した。
「本当に……」
「私が言い出したことだ」
すべての駒を収めた箱を畳んだ盤面の上に重ねそれらをテーブルの端に追いやってから、カインは大きな息を吐いた。
顔を上げて口を開きかけたかと思えば俯いて頭を振ったり、唇を舌で湿らせゆるく噛んだり、組んだ両手の指を開いたり閉じたり、よほど言いにくいことを言おう
としているらしく、落ち着かない仕種を繰り返すカインに、ゴルベーザは、ここでも彼を急かしたりせず、彼が要求を口にするのをじっと待った。
目の前の青年は眺めているだけで面白く、待つことが苦にならない。そんな相手はカインが初めてで、ゴルベーザは自分の意外な辛抱強さに気付かされると共に、
それが、カインの類稀な美貌に拠る理由だけでなく、もう一つ何か別の理由があって、それが何であるか掴みきれないことにいつも軽い苛立ちを憶えていた。
意を決したように顔を上げ、眸に強い力を取り戻したカインは、ごくりと唾を飲み込んで口を開いた。
「あ、あの……てください」
2008/07/20