悪い冗談

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後編

 カインは時折重く長い息を吐くだけで何もしゃべらない。肩を貸し彼の沈黙に無言で付き合ってやるという自分の辛抱強さに半ば感心しながら、ルビカンテはカインの気持ちを浮き上がらせてやる言葉を模索した。
「まあ、その、何だ。また次がある。あまり気に病むな」
「慰めてくれてるのか。残念ながら次もないよ。次は、下衆のスカルミリョーネが行くんだとさ」
「おまえがしくじったのは人間だからだ。揺るがぬ強い心が欲しければ魔の力を手に入れればいい」
 ルビカンテの言葉に耳を傾けながら、カインは、魔か、と呟いた。
「ルゲイエ博士を知っているだろう。彼はおまえを魔物にしようとしたが、ゴルベーザ様はそれを赦さなかった。どういうことかわかるか?」
 カインは頭をもたげ、ルビカンテの横顔をじっと見つめた。声には出さなくとも、早く言え、と全身で訴えているカインの様子に、ルビカンテは苦笑いするしかなかった。
「ゴルベーザ様も生身の人間だからな」
「そうなのか?」
 カインは吃驚し、ルビカンテに詰め寄らんばかりに顔を寄せた。
「そうなのか、っておまえ、おまえは知らないはずが……」
 今度はルビカンテが驚く番だった。
「俺は知らない。顔も見たことない。俺の前で兜を脱がないし、手袋さえはずさない」
「おまえは、その、ゴルベーザ様と、その、なんだ……」
「御察しのとおり。でも、本当だ」
 カインは首を横に振り、俯いた。

 寵臣を閨房に侍らせることなど珍しくもなく、むしろ、人間である主はやはり人間を好むのだと納得していたルビカンテは、ゴルベーザがその素顔をカインにさえ見せていないことは、心底意外なことだった。
 生身の人間でありながら主の信頼と寵を受けた新参者は、恰好の噂の的となった。腕は確かだし機転も利く。認めざるを得ないとわかると、今度は、常に兜の下に隠された彼の容貌が的になり始めた。
 ルビカンテは、カインがこちら側についたところで自分の地位が脅かされることもなかったので、彼に妬みも嫉みも抱かなかった。ただそれまでと違ったのは、主の許へ見参したときに、いつも主の傍らに彼が控えていることで、ルビカンテにとって、顔こそ見えないけれど姿形の美しい青年が、優雅に立ち振る舞い、腕を組んで資料とにらみ合い、立体ホログラムで投影された世界地図を身を乗り出さんばかりに見入っている姿を眺めることは密やかな楽しみだった。
 主と顔を寄せ合いひそひそと打ち合わせをしている姿が少し妬ましかったくらいで、ルビカンテは、概ね、カインに好意的だった。
 だから、ファブール侵攻の指揮を執ったカインが、目下のところ最優先に排除すべきバロンの暗黒騎士を、あと一歩のところで討ち損じたため主に叱責されたという話を漏れ聞くやいなや、彼のことが気になって、こうして探し回っていたのだった。

「それはともかく、一度の失敗でおまえを見限るほど狭量な方だと思うか」
「……思わない」
「おまえが人間の弱い心を持つことは、もとより承知の上のことなのだ」
「それを克服できないで傍に仕えていられると思うか」
「それはこれからのおまえ次第だろう。おまえのような立場の者はかつていなかった。だから、ゴルベーザ様がどういうおつもりなのか、私にもわからない」

 項垂れてじっと考え込んでいたカインだったが、再びルビカンテの肩に頭を預けた。
「人の肌って温かいよな」
「まあ、私は人ではないが」
「……そうか。あんたは『火』だからか。夏は近寄って欲しくないな」
 くっくっと喉の奥で笑うカインの様子に、憎まれ口を利く彼の虚勢に、ルビカンテは心臓をぎゅっと掴まれるような胸の痛みを憶えた。彼の言った「人」とは、他の誰でもない、ゴルベーザのことで、彼が欲しているのは主のぬくもりだけなのだ。
 これほどまで彼の心を掌握してしまったのは、主が彼にかけたという術のせいだけなのか。それとも……

 唐突にカインが話を変えてきた。
「この間の話、憶えてるか」
「階段で会ったときのか」
 カインは小さく頷いて、ルビカンテの肩から頭を起こした。
「あんたも少なからず俺に興味があるみたいだから」
 ひと言異を唱えようと口を開きかけたルビカンテだったが、次にカインが放った言葉に唖然とした。
「キスしてもいいぜ」

 呆気にとられるルビカンテを尻目に、カインは竜を象った兜を脱いだ。顔にかかる長い前髪を首を振って後ろに流し、ルビカンテに向き直った。
「あんた、慰めてくれたし、肩貸してくれたし」
 カインは、それがどんな効果を持つか知り尽くしているかのように、艶然と微笑んだ。

 これほどとは……
 神の創りし奇跡の造形だ、とルビカンテは初めて見るカインの素顔に驚嘆すると同時に、この美しい顔を目の前にして、花のような唇に触れることのない主の心が不可解で、改めて主ゴルベーザへの畏怖を強くした。
 目の前のカインが口の端を少し上げ、不敵な上目遣いで見つめてくるので、ルビカンテは咳払いをして平静を装った。
「……いや、余りにも唐突に、突拍子もないことを言うからだな……」
「嫌だったら別にいいぜ」
 迷いがないわけではなかったが、断るには魅力的過ぎる申し出だった。深く吸った息を吐き出してからルビカンテは、ぷいと顔を逸らして横目でこちらを窺っているカインの腰に手を添えた。
 カインは片手をルビカンテの肩に置き、少し顔を傾け目を閉じ、そっと唇を合わせた。

 唇を押し付けるだけで離れようとしたカインの頭を、ルビカンテは片手でしっかりと押さえ込んだ。傍らに置いた兜が硬い音を立てて転がる。カインは何か叫んで抗ったが、ルビカンテは、構わず、細い身体を抱き寄せ、強引に舌を吸った。たっぷりと咥内を蹂躙したのち唇を離し、ほんのりと朱に染まった耳を甘く噛む。耳介の溝に沿って舌を這わす合間に、カインの表情を横目で盗み見た。彼は、流されまい、溺れまいと眉根を寄せ下唇をぎゅっと噛み締めているけれど、時折鼻の奥から喘ぎが漏れるのは止められなかったようで、その微かな甘い声に煽られたルビカンテは、彼を抱く腕の力をさらに強めた。

 二人の頭上で、突然、呼び出しの放送を知らせるがアラームが響き渡った。

“カイン・ハイウィンド。至急、中央司令室へ”

 カインは慌ててルビカンテの肩を押し返し、腕の中から逃れようとしたが、ルビカンテはそれを赦さなかった。
「行かなきゃ。離してく……んっ……」
 暴れる彼の唇をもう一度吸ってから、ルビカンテはカインを解放した。
「さあ、行ってこい」
 カインはルビカンテを憎々しげに睨み、荒い息を整えながら片手で濡れた唇をぬぐって立ち上がると、兜を拾い上げ、飛び出さんばかりの勢いで駆け出した。

 上気した頬、潤んだ眸、乱れた息。あのさまでは聡い主は察するかもしれない。
 指先で今しがたまで触れ合っていた唇をなぞってみる。目を閉じれば、脳裏に焼き付いた彼の嬌態が鮮やかに蘇る。唇の弾力も舌のやわらかさも甘い吐息も、その所有者である主は知らないのだ。ルビカンテはほくそ笑み、そして自嘲の笑いを浮かべた。

 溺れたのは自分の方か。

「水は苦手なんだが……」 
 本当に口にした冗談を呆れ顔で笑ってくれるはずの相手は既にエレベーターの向こう側で、ルビカンテは、放心したように、彼の眸と同じ色の空を仰ぎ見た。








2008/04/20

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