王子と竜騎士

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後編

「だって、今度、父上がミストに行くのに、『僕も行きたい』って言ったら、母上がダメって」
 セオドアの言っていることが、ミストへの救援物資の搬送を指しているのだとカインには理解できた。故郷ミストの再建に奔走しているかつての仲間、召喚士リディアへの支援のため、セシルは毎週物資を送っていて、月に一度は王自らミストを訪れるのだと、バロンへの帰還の際、ミスト上空を通過したときに迎えの者から聞いていた。
「当たり前だ」
 カインに一蹴され、セオドアはさらに口を尖らせた。
「あの辺りは、まだ野生の魔物も多い。おまえのような子どもを、連れて行けるはずがない」
「だって、父上がいないと、魔法の勉強ばっかりなんだもん」
「へえ、おまえ、もう魔法を習っているのか」
「僕は、父上と剣のけいこをする方が好きなのに」
 同じく白魔道士を母に持ち、バロン一と言われるローザとて、こんな幼少の頃はまだ、魔法に慣れ親しんでいなかった。
 母になると教育熱心になるものだな。
 五年の月日を想い、他の多くの母親たちと同じく、彼女もやさしさだけでなく子を守る強さと逞しさを身に付けたのだろうと、必死の形相で駆け出してきた彼女のことを思い、威厳ある風格を漂わせていた玉座のセシルを思い、カインは自嘲の笑いを浮かべた。

 変わらないのは俺だけか。俺はあの日から何も変わらない。どんなに技を磨き、身体を鍛え、精神を高めても、心はあの日あの場所へ置いてきたままだ。いや、きっとあの人が持っていってしまったのだろう。ここにいるのは、自棄になることもできず、想い出にしがみついて無為な日々を過ごしてきた、からっぽの、騎士とは名ばかりの男だ。

 口を尖らせ、樹皮を爪先でいじっているセオドアに、カインは微笑みかけた。
「俺が相手をしてやろうか。剣の」
「ほんと!」
 顔を上げたセオドアの眸が、きらきらと輝く。
「ただし、仕事が終った後の短い時間だけどな」
「おにいさん、強いの?」
「……強いよ」
「やったあ!」
 両手を高く上げ全身で喜びを表すセオドアに、カインは目を細めた。
 らしくないことを言ったと自分でも思う。酔狂かもしれない。この子が心の隙間を埋める慰めになるとも思えない。ただ、彼によく似た眸を眺めていたいだけかもしれない。
「母上が心配している。降りるぞ」
「うん!」
「稽古のときは?」
「はい!」
 そうだ、とカインは満足そうに頷いて、兜を被りセオドアに向かって両腕を広げた。セオドアは跨っていた枝の上に慎重に立ち上がり、両腕を水平に広げバランスを取りながら一歩踏み出し、三歩目には枝を踏み込んで、カインの胸に飛び込んだ。
 首に両腕を回しぎゅっとしがみついてくるセオドアの銀の髪をくしゃくしゃと撫で付け、カインは片腕に彼を抱え直し、枝から枝へ、黒い豹のように軽やかに飛び降りていった。


「セオドア!」
 地上へ音も立てず着地したカインの許に、ローザが駆け寄ってきた。セオドアはカインにしがみついたまま母親の顔を見ようとしなかった。
「ありがとう、カイン。本当に、もう、この子ったら……」
 え! とセオドアはカインの肩から頭をもたげた。
「おにいさんがカインなの! 父上のともだちの!」
 目を丸くして顔を寄せてくるセオドアに、カインは苦笑いを浮かべた。
「……そうだ」
「あら、自己紹介していなかったの」
「すっごく強いんでしょ! 父上の次に!」
「セオドア!」
 いいんだ、とカインはローザに片手を上げた。
「おい、母上にちゃんと謝れ」
 セオドアは口を尖らせたまま上目遣いにローザをちらちらと見て、小さな声で、ごめんなさい、と呟いた。
「わかってくれたのね。セオドア、降りなさい」
 セオドアは首を横に振って、さらに強くカインにしがみついた。
「仲良くなったようね」
 ローザは嘆息し、カインに向かって微笑み、預かっていた黒いマントを差し出した。カインはそれを片手で受け取ると、セオドアを抱いていない方の肩に、無造作に引っ掛けた。
「母上! あのね、父上がいない間、おにいさんがけいこつけてくれるって!」
「だめよ。お兄さんはお仕事があるの。迷惑よ」
 迷惑じゃないよね、とセオドアはカインに同意を求めながら、少し伸び上がって、カインの唇に素早くキスをした。カインは驚いてセオドアと目を合わせる。無邪気な笑顔の子どもと、その向こう、暗い目をした母親の姿が一枚のフレームに収まった。
「……だめよ。降りなさい」
 ローザは両腕を伸ばし、嫌がるセオドアをカインから無理矢理引き離した。セオドアは手足をばたつかせ大きな声を上げた。
「なんでだよお!」
「迷惑よ」
「ローザ、俺が言い出し――」
「いいえ、あなたには大事な仕事があるわ」
 カインは彼女の有無を言わせぬ強い口調と鋭い目つきに気圧され、言葉を続けることができなかった。
 ローザは目配せをして女官を呼んだ。
「腕に擦り傷ができているわ。ほかに怪我が無いか、看てやってちょうだい」
 彼女は暴れるセオドアを女官たちに引き渡した。女官たちはセオドアを二人がかりで押さえ抱えて、建物へと向かった。
「おにいさーん! また来てね! 絶対だよ!」
 女官たちに抱えられながら、セオドアは首を精一杯伸ばし、カインに向かって大きく手を振った。カインも胸の前で小さく手を振って応えた。
「ごめんなさい。せっかく会いに来てくれたのに、騒がしくて」
「いや」
「やんちゃで、手を焼いているの」
「いや、男の子はあれくらいでいいじゃないか」
 誰に似たのかしら、とローザは片手を頬に添えて、ふうとため息をついた。
「……ローザ」
「ん?」
「子どものしたことだ。だからあまり――」
 カインは、ためらいながらも、明らかに様子の変わったローザを気遣ったが、彼女は首を横に振り、カインの言葉を遮った。
「わかってるわ。子どもじみているのは私の方よ。あの子がセシルにそっくりだから……あなたの心は知っているのに、私ったら……」
 ローザは片手で額を押さえ、唇を噛んで俯いた。
 彼女が何をどこまで知っているのか、かける言葉も見つからず、カインも小さな息を吐いて下を向いた。首を少し傾げ、肩に引っ掛けたマントに鼻先を埋めて頬を寄せ、目を閉じた。
 ここに来るべきではなかったか。
 カインはこの場を立ち去ろうとしたが、彼女をひとり置いて去ることはひどく残酷なことのように思えて、結局、二人して、じっと俯いたまま立ち尽くしていた。
 やがてローザは大きなため息をつくと、さあ、と明るい声を出し、顔を上げた。
「たいへんだと思うけど、あの子のこと、よろしくね」
 その言葉に驚いて顔を上げたカインは、自然と頬が緩むのを止められなかった。彼女の大らかさと、しなやかな逞しさがありがたかった。
「いいのか」
「その代わり、厳しく、ね。セシルは甘くって……」
 だろうな、とカインは口の端を少し上げて笑い、ローザもくすりと笑った。
「お茶にしましょう。話したいことがたくさんあるの」
 ローザはカインの腕を引き、さあ、と促した。



 憧れと怖れが入り混じった表情をした女官たちの列に出迎えられ、居心地の悪さを感じながら、カインは、建物の中をぐるりと見渡した。高い天井、壁の色は明るいものに換えられ、趣味のよい絵画が等間隔に掛けられている。子どもの背丈ほどありそうな鈍い色の花器には豪奢な花が飾られ、清しい芳香を放っている。
 菓子を焼く甘い匂いが廊下まで立ち込め、奥からは、機嫌を直したらしい子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。少し前を歩いていたローザが振り返り、こっちよ、と手招きをした。しあわせそうな笑顔の彼女は、眩しいほどに美しかった。

 それらはみなセシルのものだ。いまの地位も温かな家庭も、孤児であった彼が、たゆまぬ努力の末、手に入れたものだ。
 自分に無いものすべてを持っている彼を羨むことはない。昔の自分なら、きっと羨み妬んだことだろう。それはそれで人間らしい感情なのだが。

 いまの自分に嫉妬などない。欲もない。いちばん欲しいものが手に入らない。他は何もいらない。
 こうしてあらゆる欲から解放されたなら、いつか人間ではなくなって、星さえも軽く飛び越えていける存在になれるだろうに、ただひとつの欲望がそうさせてはくれない。
 人間でないとまずいよな……
 ローザに気付かれぬよう俯いて、カインは自分の憐れな夢想を嗤い、唇を歪めた。








2008/08/17
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