久々に足を踏み入れた居住棟に面する庭園は到るところに色とりどりの花が植えられ、先王の頃には無かった噴水が川のせせらぎに似た涼しげな水音を奏でていた。生涯独身を貫いた先王は後宮を持たず、庭園もこのように華やいだ空間とは無縁の質実剛健とした造りだったことを思い出しながら、カインは、石畳の境目を踏まないように、俯き加減に歩いていた。
薔薇のアーチをくぐったとき、建物の奥がなにやら騒がしいことに気付いた。顔を上げ前を見据えると、入口から女官が二人、大慌てで駆け出して来た。
出迎えにそう慌てなくともよいのに。
そう考えたカインだったが、彼女たちは、挨拶をするでもなく、カインの脇を猛スピードですり抜けて行った。呆気にとられて彼女たちを振り返る。女官たちは、アーチの脇にあるひときわ高く大きな木の下で、樹上を見上げながら、何やら必死に叫んでいた。
騒がしいな。出直すか。
建物の入口からさらに数人の女官たちが駆けて来る。カインは、さらにその奥から、険しい表情で小走りに駆けて来る、懐かしい幼なじみの姿をみとめた。
「ローザ」
「カイン!」
声を掛け合ったのは同時だった。眉間に皺を寄せていた彼女だったが、久々の再会にこぼれんばかりの笑顔を見せた。
「戻ってきてくれたのね! ずっと待っていたのよ!」
カインの許へ駆け寄り、彼女は彼の手を取り固く握った。カインは、仕方なく、と本当のことは言えず、ああ、とだけ答えた。
「ちょっといま取り込んでいるの。中で待ってて。後でゆっくり」
何の騒ぎか、と尋ねようとしたが、忙しない彼女の様子にカインは黙って頷いた。ローザは再び駆け出そうとしたが、あ、と声を出して立ち止まりカインを振り返った。
「そうだわ、カイン。ちょっと来て。ちょうどよかったわ」
カインの返答も聞かぬうちに、ローザはカインの腕をぐいっと引っ張った。
「何の騒ぎだ」
ようやく口にした疑問に、再び眉をしかめ険しい表情に戻ったローザは、カインの腕を引きながら、大きなため息をついた。
「息子よ、あそこ」
ローザは、女官たちが集まっている、大きな木の樹上を指差した。
「殿下! 危のうございます!」
「降りてらっしゃいませ!」
女官たちが樹上に向かって必死に声をかけるが、返事は無い。
「いつものことなのか」
カインは樹上を見上げながらローザに尋ねた。大きな木は葉が生い茂り、彼女の息子の姿は見えない。
「気に入らないことがあるとね」
先ほどまで怒りをあらわにしていた彼女だったが、いまは、心配そうに息子の身を案じる母の顔になっている。
「何が気に入らないんだ……いや、訊いてみるか。直接」
「ありがとう。お願い」
カインはマントを脱ぎ、頼む、とローザに差し出した。彼女はそれが地面につかないよう腕を上げて注意深く受け取り軽く畳んだ。
カインは木から離れて間合いをとり、枝振りを見て、最初の着地先を目で測った。ジャンプの態勢に入り、ちょっと待ってろ、と言い残し、鮮やかに高くジャンプした。
目的の子どもはすぐに見つかった。
「おい」
声をかけると、びくっと肩をそびやかした子どもはバランスを崩しそうになり、跨っていた枝に慌ててしがみついた。背後から声をかけられるとは思いもよらなかったのだろう。さっと振り返った目つきは、この歳の子どもにしては鋭くて、カインは、ほう、と感嘆の声を上げた。
ふわふわと綿毛のような銀色の髪。セシルの子どもの頃によく似ている。よく似ているが、勝気そうな目許だけはセシルともローザとも少し違う。
「母上に心配をかけるな」
「……おじさん、誰」
「おじさん、か……」
カインは苦笑いを浮かべ、兜の隙間からこめかみを押さえた。
眉をしかめ強気な視線を寄越してくるけれど、目には怯えが浮かんでいる。まだほんの子どもなのだ。漆黒に覆われ顔もわからない見知らぬ男に、警戒を抱かないはずがない。
カインは自分の兜を人差し指でコンコンと叩いてみせた。
「これだ。わかるだろう」
子どもは小首を傾げて、カインの黒い兜をじっと見つめた。
「……ドラゴン? あ! 竜! おじさん、竜騎士?」
「そうだ」
「じゃ、じゃあ、跳んだの? ここまで跳んで来たの?」
くるりと向きを変え、昂奮冷め遣らぬ様子でじりじりとカインの方へ近づいてくる。目から怯えの色は消え、林檎のように頬を紅く染め、彼によく似た眸をきらきらと輝かせながら。
その憧憬は、いまのバロンでは、竜騎士が伝え聞くだけの存在になっていることを如実に表していて、カインは、自分に与えられた任務の意味を改めて思い知らされた。
「そうだ。ひとっ飛びだ。竜騎士には容易い」
「すごい!」
「名まえは?」
「セオドア」
カインは目を見張った。人懐っこく見上げてくるセオドアの、自分のものより少し色の薄い眸から目が離せない。口の中が乾き、唾を飲み込むことさえ一仕事のように思われた。
声に出さず、その名を口にしようとしたけれど、舌がもつれ、巧くできなかった。
カインは目を伏せ、重く長い息を吐いた。
「……そうか……父上につけてもらったんだな」
「そうだよ。おじさん、父上を知ってるの?」
その名を口にしたのは一度きりだった。最後のRの音は、巧く発音できなかった。発音できなかったというより、呼び終えないうちに長い腕に抱きすくめられ最後まで言えなかった、という方が正しい。息もできぬほど強く抱き締められ、喉許までせり上がってくる熱い塊を抑えることに精一杯で、もう名まえを呼ぶことはできなかった。あのとき泣ければ、泣いていれば、熱に浮かされたように、何度でもその名を呼んだだろうに。
「おじさん? ねえ」
小さな手に黒い篭手に覆われた腕を揺さぶられ、彼(か)の人に想いを馳せていたカインは、我に返った。
「『おじさん』はやめてくれ」
カインはできるだけやさしく微笑んでみせた。
「だって、兜を着てると、みんなおじさんに見えるよ」
なるほど、とカインは納得し、黒い兜を脱ぎ、小ぶりの枝に引っ掛けた。
顔にかかる前髪を頭を振って後ろに払い、カインは、どうだ、とセオドアに笑ってみせた。
「おねえさんだったの!」
「……こんな声の女がいるか」
子どもは正直だというが、正直ではなく物を知らないだけだ、と訂正して回りたい気分だった。
セオドアがさらににじり寄り、顔を覗き込んできたので、顎にうっすらと生えた髭を指し示してやった。
「おにいさんだ」
「そうだ」
「おにいさん、きれいだね」
「……ありがとうよ」
やっぱりよく似ている、とカインは若い日々を思い出し、くっくと喉許で押し殺した笑い声を上げた。
「母上の次にきれいだよ」
「そうだな。母上がいちばんか」
セオドアは首がもげそうなほど、うん、と大きく頷いた。
「その母上に、心配かけたらだめだろう」
カインの言葉に、セオドアはぷうっと頬を膨らませ、口を尖らせた。
2008/08/10