魂の伴侶

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 珠のように光るセオドアの頬に自分の頬を寄せ、乳児の匂いを鼻腔に吸い込んで、カインはうっとりと目を細めた。
「少し見ない間にどんどん大きくなるな」
「重くなったでしょ」
 隣で微笑むローザはすっかり元の体型に戻っていた。それを褒めると、子育ては運動量が多くいかにたいへんかを長々と聞かされる羽目になるので、会うたびには言わないようにして、カインは胸中で密かに、よかった、と安堵の息をつく。
 腕の中で顔をじっと見詰めてくるセオドアに微笑みかけると、赤ん坊も天使のような無垢な笑みを返してくる。その笑顔に釣られ、今度は心からの笑みが零れる。
「抱きやすくなっていい。よく笑うし」
「どんなにたいへんでも、この笑顔に癒されるのよねえ。セシルもめろめろよ。お義兄様も」
「だろうな」
 自分がこれほど愛しく思うのだから、血の繋がった父親や伯父ならばそれは格別の思いだろう。
 カインは指を一本伸ばしセオドアの顔の前に差し出した。小さな手で指を掴みぎゅっと握ってくるさまがおもしろくて、小さな拳から指を引き抜き、差し出し、を繰り返す。
「赤ん坊って目を逸らさないから、少し照れるな」
「ねえ、カイン」
「ん?」
「結婚式、しないの? あ、あぶない!」
 ローザの唐突な言葉に慌てふためき、カインは腕の中のセオドアを危うく落としそうになった。しっかりと抱え直し、大きな息をつき、赤ん坊をローザに手渡す。
「す、すまん。大丈夫だ。でも、おまえがいきなり変なこと言うから……」
「お腹が大きくなる前にした方がいいわよ」
 ゆりかごの中に座らせたセオドアに木製の小さな玩具を持たせてからこちらに向き直った真顔の彼女に、カインはしどろもどろに応える。
「そ、それはまだ先の話で……い、いや、お、俺は男なんだから、け、結婚がどうとか――」

 結婚は男と女がするものだと当然のように考えていたカインは、自分たちにそれを当てはめたことも考えたこともなかった。かといって、自分とゴルベーザの関係が型に嵌らない自由なものだと声高に主張するつもりもなかったので、思いも寄らないローザの言葉にただうろたえるしかなかった。

「久しぶりに着てみたら? ドレス。きっときれいよ」
 ローザがくすっと笑った。仕官学校時代、戯れ事で着ることになったドレスとそれにまつわる騒動を思い出し、カインはわずかに眉を寄せた。
「……からかってるだろう」
「ごめんなさい。でも、いい思い出になるから、したほうがいいわよ、絶対」
「必要ない」
 カインは背もたれに身体を預け腕を組み、憮然と応えた。
 冗談じゃない。あの鬱陶しい歩きにくい服を着て皆の前で晴れやかに笑顔を振りまけと言うのか。父親代わりのシドに付添われ、祭壇の前で待つ彼の許に……
 そこまで想像して、カインは思わず噴き出した。
「俺はともかく、彼の正装を想像したら、笑える」
「まあねえ……お義兄様、何かと自由だから」
「自由」と聞いてカインはさらに声を上げて笑った。
 ゴルベーザは服装に無頓着で、組み合わせを考えるのが面倒だという理由だけで黒い甲冑を身に着けることがよくある。広い分野で博識なのに、これまで甲冑一式で済ませていたためか、TPOというものが身についていないらしい。見兼ねたカインがあれこれと口を出してようやく恰好がつくが、放っておけば、黒いマントの下は風呂上りと見紛うような姿で出かけようとしてカインを慌てさせたこともあった。
「国王の兄なんだから、それに準じた正装でいいと思うの。それに、この機会に正式な称号を決めたほうがいいわ。カイン、聞いてるの? いつまでも笑ってないで。主役はあなたなのよ」
 カインは息を吸って笑いを呑みこみ、ローザの顔をじっと見た。
「なんで俺が……」
「結婚式の主役は花嫁でしょ」
「ちょっと待て。俺が『嫁』か。男だぞ、俺は」
「だって、お義兄様が花嫁というわけにはいかないでしょう。花婿が二人?」
「だ、だから結婚とかどうでもいいんだよ、男同士は」
「子どもも生まれるんだから」
「だから、それはまだ先だ。どうなるかわからん」
「……」
 ローザは眉を寄せ、唇をわずかに尖らせた。彼女の不服そうな顔を見て、カインは小さなため息をついた。これではまるで自分がわがままを言って彼女を困らせているようだ。
「あのな、ローザ……」
「あ、戻ってきたみたい」
 扉を振り返ると、セシルとゴルベーザが部屋に入ってきた。

「帰ったよ」
「おかえりなさい」
 セシルは、ソファの傍らに置かれたゆりかごの中で機嫌よく玩具で遊んでいたセオドアを抱き上げた。
「いい子にしていたか。ただいま」
 息子の頬に音を立ててキスをして、続いて妻の頬にキスをする。
 後ろに続いていたゴルベーザがセシルの隣から腕を伸ばすと、セオドアも父親の腕から抜け出さんばかりに伸び上がって伯父に抱っこをせがむ。
 懐いてるな……
 赤ん坊はまだ動物みたいなものだから魔物が彼に惹きつけられるのと変わらないのではないか。セシルとローザの前でそんなことは言えないが、とカインはセオドアとクアールの赤子たちとを思い比べ、彼の前であと何人か赤ん坊を並べてみたらどうなるだろう、と好奇心を募らせた。
「どうしたんだ、何か揉めてた?」
「べ、別に。それより、どうだった?」
 カインはセオドアを胸に抱いたゴルベーザを仰ぎ見た。

 今日、ゴルベーザとカインはセシルに頼まれ、魔道士団、特に黒魔道士団を視察するためにバロンを訪れていた。当初カインは、門外漢だから、とひとり留守番を決め込んでいたが、「ローザがカインに話があるらしいから一緒に来てくれ」とセシルに諭され、久々にセオドアの顔を見るのもいいだろう、とそれを了承したのだった。

「軍備重視の国とは言え、やはり物足りんな、あれでは」
「僕も前々から気にはなってたんだけど、兄さんの評価、厳しかったよ」
 ゴルベーザの隣でセシルが肩を竦めた。
 世界一を誇る軍備に比べどうしても見劣りする魔道士団に梃入れするために、セシルはゴルベーザに魔道士団の指導と管理を委ねることを切望していたが、ゴルベーザはそれを固辞し続けていた。しかし今日は「見るだけでいいから」と粘るセシルに折れて、渋々視察に出かけていった。
 これまでは優秀な者をミシディアへ留学させたり彼の地から指導者を招聘したりしていたが、できることならば自国で人材を育てたい、とセシルは語った。その横顔に差す暗い影を読み取ったカインは、セシルのミシディアに対する慙愧の念は未だ払拭されておらず、彼の生真面目さとやさしさは国王の責務をより重いものにしているのだと思うと、無邪気に兄に甘えるさまも彼の気分転換のためには致し方ないことのように思えた。

「やっぱりな……で、引き受ける?」
「ん……」
 向かいの椅子に腰掛けたゴルベーザは、赤ん坊を向かい合わせに膝の上に乗せ、カインの問いに生返事を返し、彼の顔を触ろうと腕を伸ばすセオドアの小さな手を唇だけで銜えた。セオドアがキャッキャと笑い声を上げる。
「兄さん、時間を取られるから、って渋るんだ。カイン、おまえからも頼んでくれよ」
 弟には甘いくせに、そこは譲れないんだな。
 ゴルベーザが渋る理由はわかっている。自分と過ごす時間を減らしたくないのだ。カインは、セシルとのささやかな争いに勝利したような気分になったがそんな自分の幼稚さが照れくさく、俯いて緩んだ口許を擦り表情を繕った。
「たいした時間じゃないだろ。毎日じゃあないんだし」
「……」

 幼馴染みに頼まれたからというわけでなく、カインもゴルベーザがセシルの願いを聞き入れることを望んでいた。
 彼にはまだ告げていないが、カイン自身も竜騎士団への復帰を考えていた。彼が家を空ける間寂しいし身体も動かしたい、とでも言えば彼も了承せざるを得ないだろうと目論んでいたので、自分が言い出すよりも先に彼に決断してもらいたかった。

 訪れた沈黙を待っていたかのようにローザが切り出した。
「ねえ、セシル。カインのけっ――」
「ローザ! セオドアが……臭い」
 カインに遮られ、え、と彼女は向かいのゴルベーザの顔を窺い見た。
「臭わんぞ」
「ん? 何」
 妻に話し掛けられたセシルが顔を少し前に突き出す。
「いいや、臭った。早く」
 ローザは、そう、と小首を傾げながら腕を伸ばし、向かいのゴルベーザからセオドアを受け取った。あとでね、とセシルに告げ、おむつを替えるため彼女が席を外したので、カインは密かに嘆息した。
「ああ。ん? どうしたの、兄さん」
 顎に手を当てじっと考え込んでいるゴルベーザに、セシルが尋ねる。
「……考えなかったこともないが、いいかもしれんな」
「それじゃあ……」
「じゃあ、引き受けてくれるんだね!」
 セシルとカインは同時に声を上げ、顔を見合わせ、にやりと微笑んだ。
「ありがとう、兄さん」
「ドレスをあつらえんとな」
「そっちか!」
 カインは思わず大きな声を出した。なんて耳なんだ! ゴルベーザはローザの、途中で尻切れた言葉をしっかり聴き取っていた。カインは俯き頭を抱え、自分の長い髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「何? 何のことだよ」
 セシルが説明を求め、向かいのカインと隣の兄に交互に視線を送る。カインは俯いたまま首を横に振り、絶対に嫌だ、と呟いた。
「え? 何が嫌なんだ?」
「結婚式するの、嫌だって言うのよ」
 隣室からセオドアを抱いてローザが戻って来た。セシルが喜色の混じった声を上げる。
「結婚式か!」
「してなかったわよ、カイン」
 ローザは、嘘を吐いたカインを咎めるように、セオドアの尻をぽんぽんと軽く叩いてみせた。ばつの悪さにカインは顔を背け、口をわずかに尖らせた。
「そうか、そうだな。腹が目立つ前にしたほうがいいな」
「夫婦で同じこと言いやがって……」
 カインは小さな声で呟いてセシルを軽く睨み、そのまま顔を動かし、隣のゴルベーザ、そのまた隣に立つローザに視線を移した。
 三人と自分ひとり、分はかなり悪い。自分の言うことは聞き捨てにされ、あれよあれよという間に話が望まないほうへ進みそうな気がする。いや、進むに違いない。それを避ける方法はただ一つ。
「もう帰ろう」
 カインは立ち上がり、ゴルベーザを見下ろした。
「あら、まだいいじゃない。久しぶりなのに」
「用は済んだろ」
 カインが身体と顔を背けたままゴルベーザの黒いマントを引っ張ると、彼はその上から自分の手を重ねた。
「ドレスが嫌なら、式典用の正装でいいだろう」
「そ、そういう問題じゃ――」
 ゴルベーザの手を振り払い彼に向き直ったカインだったが、抗議の言葉を呑み込んだ。だめだ。ここで相手にしても多勢に無勢、到底勝ち目はない。
 カインは踵を返し、大股で扉に向かい皆に背を向けたまま手をひらひらと振った。
「じゃあ、俺、先に帰る。送ってもらえよ」
「花嫁はやっぱりドレスじゃないと、お義兄様」
「ああ、白もきれいだと思うな、僕も」
 扉の前で一旦立ち止まり、カインは振り返った。
「帰るから!」
「ねえ、カイン! 本当に帰るの?」
「またな!」
 わざと大きな音を立てて扉を閉め、カインは客間を出て行った。




 決して振り向かないと心に決めて、途中寄越される挨拶にはできる限り愛想よく応え、カインはつかつかと大股で駐機場へと急いだ。何十機もの飛空艇が並ぶ中、銀の機体が一際眩しい、大枚をはたいた最新型の飛空艇は、なるほど、群を抜いて恰好がいい。
 カインは足を止め後ろを振り返った。誰も追ってこなかったことを確認したが、そんなことを確認した自分にも嫌気がさして、大きな溜息をついた。
 飛空艇に近づくと、技士が一人、詰所から出てきた。
「カインさん。点検と整備を行なっておきました。異常ありません」
「ありがとう。ご苦労だった」
 技士に礼を言ったが、彼はきょろきょろと落ち着かない様子であたりを見渡していた。
「まだ何か」
「あ、あの……おひとりですか」
「シドによろしく伝えてくれ」
「は、はい! お気をつけて」
 素っ気無く技士に告げて、カインは外付けのタラップを駆け上がり搭乗した。

 カインは操縦室に入るやコントロールパネルにある自動操縦の赤いボタンを押した。
「ん?」
 ボタンを押しても画面に何も現われない。目的地は既に設定してあり、リストの先頭に自宅が表示されるはずだ。訝ったカインはあちこちのボタンを押してみたが、画面は真っ暗なままでエンジンがかかることもなかった。
「ロックか……」
 カインは頭を抱えた。手動で操縦することはできない。自動操縦が可能なこの最新型飛空艇だからこそ「先に帰る」などと息巻いて偉そうなことが言えたのだ。
 だから彼は追ってこなかったのか。もちろん、かつて飛空艇団部隊長だったセシルにも容易くわかっていたはずだ。
「くそ……」
 いまさらおめおめと皆のところに戻れない。つれなく接した技士にロック解除の方法を尋ねることもできない。カインは途方にくれて床に座り込んだ。




「強情だな」
「……」
 膝を抱えて床に座り込んでいたカインの頭上に、低く穏やかな声が降ってきた。
「すぐ戻ってくればよいものを」
「……恥ずかしくてできるか」
 カインは額を膝頭につけたまま応えた。ゴルベーザも隣に腰を下ろし、カインの肩を抱き寄せる。
「ロック掛けているなんて、ずるい」
「降機するときの常識だ」
「……すぐ言ってくれなかったのは、ずるい」
 ゴルベーザは、そうだな、と低い声で笑った。
「どうせ好き勝手言ってたんだろ。皆して」
「主役がいないのに、話がまとまるはずがない」
「その『主役』が嫌なんだって」
「セシルも彼女も、おまえを想ってのことだ」
「……おもしろがってるだけだろ」
「それが八割方だろうな」
 カインは思わず笑いを漏らし、そこは否定しろよ、と顔を伏せたままゴルベーザの腕を肘で突付いた。
「考えてみろ。そんな晴れがましいことを私が望むと思うか」
 祭壇の前で立っている正装のゴルベーザを再び思い描き、カインはまた噴き出しそうになった。
「似合わないよな」
「それだけじゃない」
「……」
 カインは顔を上げ隣のゴルベーザを、月を眺めるときと同じ物憂げな彼の横顔を窺い見た。

 セシルは生き別れの兄を公に披露することを望んでいるが、ゴルベーザは未だそれを拒んでいる。もっとも、人目をはばかりこそこそするのも性に合わない彼は気の赴くまま城を訪れ、城下では既に国王の兄として知る人ぞ知る存在ではあるが、かつてこの星を脅かした「ゴルベーザ」と同一人物だとは知られていない。
 知られてはいけない。知らせる必要もない。彼の懊悩を理解することなど誰もできないのだから。自分以外には。
 セシルの願い出もすべて断り、自分と静かに暮らしている彼が華やかな儀式を望んでいるはずがない。ドレス云々も、いつものようにからかわれたのだと思い直して、カインは苦笑いを浮かべた。

「……でもドレスって」
「好奇心だ。単純に、見てみたい。だから花嫁姿は寝室で見せてもらおう」
「……嫁って言うな」
「他の誰にも見せたくない」
 不意に額に眦に頬に小さなキスを落とされ、カインは笑いながら顔を背けた。
「ひとの話、聞けよ」
 ひとしきり笑ってから、カインは小さな息を吐いた。
 自分の望みと彼の望みが違うときは、惚れた弱みか、彼にできるだけ応えたいという気持ちがいつも勝る。どんなに嫌がっても、最終的には彼の望みを聞き入れるだろう。
 主従が抜けきらないからか。
 カインは密かに顔をしかめたが、違う、と即座に否定し、正しい答えを導いた。
 笑顔だ。望みが叶ったときに向けられる少し照れたようなやさしい笑顔が何よりも自分の心を満たすから、彼には心底抗えないのだ。
 カインはゴルベーザの腕に掌を滑らせ、彼の手に自分の手を重ねた。彼が目を合わせてくる。カインは唾を飲み込み、舌で唇を湿らせた。

「俺は、記念日も物も要らない。誓いも約束も要らない。俺の欲しいものは」
 自分のものより少し薄い青い眸を見つめ、わかるだろ、と首を少し傾げた。
 ゴルベーザはゆっくりと瞬きをし、口許に微かな笑みを浮かべ無言で頷いた。
 これも好きな笑顔だ。
 カインは破顔し、言葉にせずとも理解してくれる彼に感謝を捧げ、親を見つけた迷子の子どものように、彼の首に腕を巻きつけ押し倒さんばかりの勢いで抱きついた。







2009/07/21
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