「……ろうかな」
カインの小さな呟きを耳にして、ゴルベーザは手にしていたグラスを取り落とした。ガラスの割れる音に、鏡を覗き込んでいたカインが慌てて振り返る。
「あーあ。何やってんだよ」
「いま何と言った」
自分の足許に屈みこんでガラスの破片を拾い上げ始めたカインに問いかける。
「怪我しなかった?」
「いま何と言ったんだ」
ちょっと待って、と立ち上がったカインはキッチンへ向かい、固く絞った布を手に戻ってきた。
「俺、何か言ったっけ。あ、『何やってんだ』」
細かな破片を布で丁寧に拭き取ってからカインはようやく顔を上げた。
「違う。その前だ」
「前……」
右手で自分の顎を摘みわずかに眉を寄せ、カインはじっと考え込んだ。
「鏡を見ていただろう」
「……ああ!」
自分の言葉を思い出したカインは大きく頷き、ゴルベーザに晴れやかな顔を向けた。
「『髪、切ろうかな』」
「だめだ」
「え」
「断じて許さん」
「……」
わけがわからない様子で首を傾げていたカインの端正な顔が、みるみる険しいものになる。カインはすくっと立ち上がり、長椅子に腰掛けているゴルベーザを見下ろした。
「何それ。俺の髪なのに、そこまで言われる筋合いはない」
常よりも低い静かな声は怒りを抑えている声だったが、ゴルベーザはそれをまるで意に介さない。むしろ、よろこびだけでなくこうして怒りも露わにするようになったカインに目を細めている。
「充分ある。おまえはおまえだけのものじゃない。私のものだろう」
カインは顔をさっと赤らめ、何か言いかけた言葉を呑みこみ、視線を宙に泳がせた。
「あ、洗うのも面倒だし、乾くのも時間がかかるし――」
「私が洗ってやる。乾かしてやる。だから切るな」
「……」
カインの仏頂面に、さらに笑みが漏れそうになるのを堪え、ゴルベーザは両腕を広げた。
「おいで」
不貞腐れたままのカインの腰を抱き寄せ、後ろ向きに膝に乗せる。項に軽く口付けるとカインは、くすぐったい、と肩をすくめ笑い声を上げた。
「私はこれが好きなのだ」
一つに結わえていた紐を解き、絹糸のような金の髪をひと束手に取り、指の間からするすると流れて落ちていく髪の感触を楽しむ。明るすぎず暗すぎず、見事な金色は陽の光を受けて輝き、これまで目にしたどんな黄金よりも眩い。
「風になびくときも、シーツに広がるときも――」
一旦言葉を切り、髪に恭しく口付ける。
「その美しさに目を奪われる」
「……」
胸のつかえを取るように、二人は同時に嘆息した。
ゴルベーザは金の髪に鼻先を埋め、カインの腹に腕を回し細い身体を揺さぶった。
「頼むから切らないでくれ」
「……最初からそう言えばよかったんだ」
カインは身体を捻り、肩越しにゴルベーザを見て、にやりと白い歯を見せた。
「有無を言わせぬ言い方するから、ちょっとカチンときた」
「それはすまなかった」
ゴルベーザは高圧的な物言いをしたことを素直に詫びた。
「後生だから切らないでくれ。頼む。このとおりだ」
カインの背中に額を擦りつけ何度も頭を振ると、カインは声を上げて笑い、やり過ぎ、と足をばたばたと踏み鳴らした。
「わかったよ。切らない。反対を押し切ってまで切りたいわけじゃないし」
カインはそのまま頭を後ろに倒し、ゴルベーザの肩にもたれかかった。
「いちいち言わないけど、威圧感、撒き散らしているときがあるよ」
「……以後気をつける」
あとな、とカインは片手で指を折り始めた。
首を傾げるものがないわけではなかったが、調子づいたカインが次々と自分の改善点を挙げていくことさえ微笑ましい。ゴルベーザは、彼に頬を寄せ白い額を撫で少し掠れた甘い声を聞きながら、この満ち足りた瞬間にうっとりと目を閉じた。
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窓辺の椅子に腰掛け満ちた月を眺めているゴルベーザを、カインが眺めている。
月に想いを馳せる彼の横顔は物憂げで、日頃の精悍さが信じ難いほど儚くさえ見える。そんな彼の一面を見ることは決して嫌いではなかったが、同時に、胸に一抹の不安がよぎるのでカインはいつも落ち着かない気持ちになる。
いつかは行ってしまうのだろうか。彼の胸に去来するものを思えば、カインの胸も締め付けられそうになる。
そんなときカインは、彼の伯父が言った言葉を思い出す。その言葉に勇気付けられ、血よりも濃い絆の存在を信じたいと思う。
カインはゴルベーザの横顔から彼の髪に視線を移した。
やっぱり月明かりに映えるな。
眩しすぎる陽の光の許では、煌く銀の髪は白髪のように見えることがある。それに比べ、窓から煌々と差し込む月の光の許では、ゴルベーザの銀の髪はこの世ならざるもののように見える。
霊力を宿しているのか。魔力にも関係あるのか。
子どもの頃読んだ本の「魔女の髪は長ければ長いほど魔力が増す」という一節を思い出し、カインは頬を緩める。
カインの視線に気づいたゴルベーザが、何だ、と無言で片眉を上げた。
「ん……髪、伸びたな、と思って」
ああ、とゴルベーザは自分の髪をひと束掴み、顔の前で毛先を見つめた。
「切ってあげようか」
「心遣いはありがたいが、丁重に断る」
「信用してないな」
「おまえに巧く切れるとは到底思えん」
「ひどいな」
大げさに口を尖らせカインは立ち上がり、ゴルベーザの背後に回った。銀の髪にふわりと手をかけ、彼の肩より少し下の位置で掌を水平にあてた。
「このくらいの長さがいいと思う」
「経験はないのだろう」
「俺の埋もれた才能が開花するかもしれない」
彼の許を一旦離れ、机の抽斗を探ってみたがあいにく鋏は見つからなかった。代わりに小ぶりのナイフを取り出して彼に見せたが、ゴルベーザは苦笑いを浮かべ首を横に振った。
髪を切ることを諦め、頭の中の買い物リストに左利き用の理容鋏も加え、カインはゴルベーザの許に戻った。
「いままで自分で?」
「ああ」
たとえ毛先が揃わない仕上げになろうと人前で決して兜を脱がなかったのだから、たいした問題ではなかったのだろう。あるいは、彼の意外なまでの手先の器用さをもってすれば、自分自身の髪を切ることなどお手の物かもしれない。
「普通に鋏で? 魔法で?」
カインの問いにゴルベーザがふっと息を吐き出した。
「どんな魔法を用いるのか、聞かせてくれ」
そうだな、とカインはかつてリディアが唱えていた黒魔法を思い出そうとしたが、適切と思えるものは何も浮かばなかった。
んー、と唸ったままのカインに、ゴルベーザがまた笑いを漏らす。
「私の唱える魔法が万能だと思っていないか」
「つい……」
その場をごまかすようにカインはゴルベーザの髪を手櫛で梳き始めた。
記憶にあるセシルの髪の手触りよりも、年齢のせいか、少し硬いように思う。銀の髪に埋めた指先がひんやりと心地良い。
いつもよりも高い位置で一つに束ねてみたり二つに分けたそれを密かに笑ったり。彼の髪で遊んでいたが、ふと思いついて自分の髪をひと束取り、掌の中で彼の髪と並べてみた。癖の無い真っ直ぐな金の髪と波打った銀の髪。銀の髪を少し引っ張り伸ばし、軽く拳を握りすり合わせ、二人の髪を交ぜてみる。青白い月の光に照らされた金と銀が混じりあい不思議な色合いを醸し出すのをカインは興味深げに眺めていたが、銀の髪が束から跳ね出てきたので、それをさらに引っ張った。
仰け反ったゴルベーザが、う、と小さな呻きを漏らしたので、カインは手を緩めた。
「あ、ごめ――」
「気が済んだか」
「まだ」
髪で遊ぶことには飽きたが、彼の許は離れがたかった。腰を少し屈め、銀の髪を掻き分け現われた項に口付けると、ゴルベーザはびくりと肩をすくませた。そのまま唇を移動し彼の耳を軽く噛む。彼が、やめないか、と笑いを含んだ声で言い、頭を振って逃れようとしたので、カインは彼の首に腕を回した。
ゴルベーザは、胸の前でだらりと下げられたカインの白い手を取り指を絡め、首を少し傾げ肩越しに目を合わせてきた。
「したくなったか」
「そんなつもりなかったけど、そう思われても仕方がない」
「理屈っぽい奴だ」
「でも、もう少しこのまま……」
彼に抱きつくのではなく、彼をゆったりと抱き締める。包まれるだけでなく包みたい。支えられるだけでなく支えたい。彼の憂いも悲しみも、背負ったものも分かち合っていきたい。
言葉では伝えきれない想いを胸に、カインは彼に頬を寄せそっと目を閉じ、彼の伯父が残した言葉を反芻した。
『生まれた星の土に還るべきだ』
いつかくるそのとき、自分はどこにいるのだろう。何をしているだろう。
願わくば、彼の眸に最後に映るものが自分の姿であるように。願わくば、その直後自分の心臓も止まってしまうように。
タナトスに手を引かれる自分が滑稽でカインは薄笑いを浮かべた。ゴルベーザが、どうした、と微笑みかける。
こんな想いも見透かされているのではと思うと気恥ずかしくて、何でもない、とカインは彼を抱く腕にさらに力を込めた。ここでしたい、と彼の耳許で囁くと、ゴルベーザは少し驚いた顔で見つめてきたので、彼と目を合わせ、わざと舌舐めずりをしてみせ、何か言おうとした彼の唇を乱暴に塞いだ。
2009/06/28