まなざし

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 赤ん坊をあやすことに夢中でセシルの話をほとんど聞き流していたカインだったが、さすがに「聞いているのか」と険しい顔で詰め寄られれば生返事で済ますこと はできず、観念して彼に顔を向けた。
「だから、俺はいいってさっきから言ってるだろ」
 断っても断ってもしつこく同じことを繰り返すセシルに辟易して、カインは仏頂面で応えた。
「記念になるって言ってるじゃないか」
「親子三人で充分だろ。俺は遠慮する」
 膝の上に乗せたセオドアに再び向き直り、額に軽く息を吹きかける。硬く目を瞑り、強い風を全身で受け止めているかのように身体を強張らせ小刻みに震える赤ん 坊のさまがおもしろくて、カインは声を上げて笑う。セオドアもきゃっきゃと笑い声を上げ両腕を振り回してカインに、もっと、とせがむ。再び息を吹きかける。わ ずかな銀の巻き毛がふわりと立ち上がり、愛らしい生え際が見え隠れする。
「一緒に遊ぶの、巧くなったわね、カイン。さまになってるわ」
 ローザの言葉にカインはわずかに眉を寄せた。
 セオドアと遊ぶことは楽しい。だがそれは、おむつの交換をするわけでもなければ添い寝をするわけでもない。まだ悪さをする歳でもないので叱ることも躾けるこ ともしなくていいし、ぐずればローザに助けを求めればいい。そんな無責任の上に成り立つ楽しさだと自覚していたので、彼女の褒め言葉に居心地の悪さを感じ、セ オドアに寄せていた顔を少し離した。
「カイン」
 セシルに呼びかけられ、カインは彼にではなくセオドアに向かって、何だ、と低く恐ろしげな声で返事をし、赤ん坊の脇腹をくすぐった。屈託のない笑い声が部屋 に響く。
「もちろん三人のも描いてもらう。それに加えて、だ」
「だから、何で王家の肖像画に俺が入らなきゃいけないんだ」
「だって、親族だろ」
「……バロン王家の肖像画だ。後世に残るんだぞ。それをわかっているのか」
 それが? と首を傾げるセシルに、カインは嘆息した。
 記念にしたいというセシルの言い分もわかるが、姻戚でもない自分がそこに加わることにどうしても納得がいかない。
「セシル。二人のも……」
 ローザが隣に座る夫の目を見つめながら彼の腕を引き、ちらりとカインを見遣った。首を傾げていたセシルも、もちろん、と頷く。
「僕たち親子三人のを一枚、五人で一枚、兄さんとおまえ二人の――」
「ちょっと待て」
 セシルの言葉を遮り、セオドアを膝から下ろし長椅子の上に注意深く座らせ、右腕を赤ん坊の前で柵のように伸ばしたまま、カインは二人に向き直った。
「何でそこで『二人』が出てくる」
「せっかくだから、記念に」
 必要ない、と呟き、カインは苛立ちを抑えるようにこめかみを擦った。
「二人の絵は私たちからの贈り物よ。大げさに考えないで、家に飾って」
「遠慮する」
 カインは首を横に振り、大きなため息をつき背もたれに身体を預け、こめかみを擦ったまま眉を寄せ目を伏せる。
「で、彼は? 何て?」
「まだ訊いてない。今朝ダムシアンから連絡が入ったところなんだ。画家の都合がついたって」
「ダムシアン?」
 カインが顔を上げ片眉を上げる。
「ああ。今度頼むのは代々ダムシアンの宮廷画家の家の出で、腕はギルバートのお墨付きだ」
「そうか。まあ、大げさなことだな」
「カイン」
 咎めるようにじろりと睨んできたローザにカインは肩を竦め、顔を背けた。
「兄さんにはおまえからも言っておいてくれよ。僕も言うけど」
「断る」
「カイン」
「もし彼が承諾したら、四人で描いてもらえばいい」
「カイン。何が気に入らないの?」
「気に入る気に入らない、じゃなくてだな、俺が――」

 カインはこの状況に既視感を憶え、口を噤んだ。以前こうしてここで、自分とゴルベーザの結婚式をするしない、の話になったときだ。
 口ではローザに敵わない。セシルの頑なさも厄介だ。
 何故嫌なのか。二人の気持ちを害すること無くそれを説明する言葉を探すため頭の中を整理しようと、カインは黙り込んだ。

 何よりも気恥ずかしい。単体ならともかく、大の男二人が描かれた肖像画など見たことがない。それに、何を着るのかも思いつかない。まさか揃って甲冑姿という わけにもいくまい。慣れない正装で二人並ぶ姿を想像するだけで顔が熱くなってくる。
 ゴルベーザはまだいい。国王の実兄で親族には違いない。だが自分は――

「俺は、俺なんて、例えば、明日『出て行け』と言われればそれまでのかんけ……」
「カイン!」
 突然鋭い声を上げたローザに驚き、カインとセシルはびくりと居住まいを正した。
「何てこと言うの。あなたたちの関係ってその程度のものなの?」
「い、いや、だ、だから例えばの話で……」
 彼女の静かな剣幕に、カインはしどろもどろに応える。
「だから、きちんと結婚式挙げましょう、って言ってるのよ」
「それとこれとは……」
「まあまあ。ローザ、落ち着いて」
 セシルは妻の背中に手を添え軽く叩いた。彼女も夫の腿に手を置き揺すりながら訴える。
「そうすれば、カインにも親族なんだって意識がもっと芽生えるでしょ。そう思わない?」
 思う思う、と微笑みながら妻を宥めるセシルは余裕があるのか、それとも尻に敷かれているだけなのか。

 今日もそろそろ切り上げたほうがよさそうだ。
 そっと腰を上げようとしたところで、伸ばしていた腕に不快感を憶えカインは顔をしかめた。腕にしがみついているセオドアを振り返ると、赤ん坊がカインの腕を 抱え込み、涎をぼとぼとと垂らしながら手首に噛み付いていた。カインは眉を顰め唇を歪める。まだ歯の生えない口で噛まれても痛みは無いが、袖は涎に濡れ、色が 変わっている。反射的に振り払いそうになるのをぐっと堪え、手首を何度も捻りながら空いている手でセオドアの頭を押さえ、そっと引き剥がした。
 赤ん坊は可愛いが、これは無理だ。涎で無理なら、おむつ換えなど到底無理だ。
 子育ての現実を垣間見て、なにかずしりと重いものが臓腑に落ちてきたような気がしてカインは無意識に腹を押さえた。
「歯が生えかけで痒いのよ」
 嫌悪を露骨に顔に出すカインを宥めるように、ローザが微笑みかける。
「赤ん坊の涎なんてきれいなもんだ」
 同じく笑いながら腕を伸ばしセオドアを抱き上げるセシルに、それはおまえが父親だからだ、とカインは心中で呟く。
「そうよ。大人の唾液のほうがよっぽど……ねっ」
 ローザは長椅子の傍らに置かれたゆりかごから小さなタオルを取り出し、カインの顔をちらりと見て片目を瞑った。手渡されたタオルで涎に濡れた手首を拭き、袖 をひらひらと揺らして気休めに乾かしてから大きく捲り上げる。
「気にすることないわよ。セオドアのがだめでも自分の子のなら平気だから。お義兄様のだって平気でしょ?」
「……それ以上言うな。帰る」
 借りていくぞ、とタオルをひらひらと振り、カインはつかつかと客間をあとにした。




 昼間の出来事を言おうか言うまいか。ゴルベーザの方をちらちらと見ながらカインは逡巡した。
「何かあったのか」
 こんなとき察してくれる勘の良さはありがたい。カインはため息混じりに微笑んで彼の隣に腰を下ろした。
「セシルたちが今度肖像画を描いてもらうらしくて、それに一緒に、って誘われた」
「なるほど。気乗りしないからそんな顔をしているのか」
「してない……はず……」
 語尾を濁した自分にゴルベーザが小さく笑ったので、カインも苦笑いを浮かべた。わずかな表情の変化を読み取られるのもいつものことだ。
「親族だから、って二人とも結構しつこかった」
 そうか、とゴルベーザは頷いて膝の上の冊子をテーブルに置き、長い脚を組み直した。
「おまえがそんなに嫌なら、私から断っておこう」
「え、いや、そんなに、というほどでもないんだけど……」
 ついうっかりと煮え切らない返事をしてしまい、カインは慌てた。
「い、いまの違う。やっぱり嫌……だ……」
「どっちなのだ」
「い、いや……だ、だから――」

 願ってもない申し出に俺は何をためらってるんだ。昼間あんなに嫌だったのに。
 カインは自分の中の矛盾に唇を歪め、落ち着かない瞬きを繰り返した。

「親族だが王族ではないからな。堅苦しいのは勘弁願いたいものだ」
「そう、それ!」
 絵を描かれることが嫌なのでははない。王族として宮廷画家に畏まって描かれるのが嫌なのだ。もし旅先で出会った街の似顔絵描きにならば、「記念に」とよろこ んで、普段着の二人を描いてもらうことだろう。
 納得した答えを導き出すことに成功し、カインは勢いよくゴルベーザに同意して身を乗り出した。

 一つの懸念が解決されたことに気を良くし、カインはもう一つについて彼に打ち明けた。
「今日俺、セオドアの涎を汚いと思った。赤ん坊のおむつ換えなんて無理だ。絶対できない」
「案ずるな。私がすればいいことだ」
「……そんなんでいいのか、俺」
 拳を緩く握り、親指の爪で下唇を何度も弾きながら、カインはじっと考え込んだ。
「そうやって甘えて、任せっぱなしで、いつまでも母性、いや、『母』は嫌だな。ま、まあ、とにかく、そういうものが目覚めなかったら……」
 ゴルベーザは、目を伏せたカインの頭を引き寄せ、金の髪をやさしく撫でながら、小さな子どもに言い聞かせるような口調で話し始めた。
「転ぶことを懸念して歩き出さない奴はおらぬだろう」
「例えが極端過ぎる」
「ならば。どうせ明日には下水に流れるのだからもったいない、と言って物を食わない奴はおらぬだろう」
 カインは肩を震わせて噴き出し、彼の腹を肘で突付いた。
「的外れだ」
「相手が来なければ無駄だから、と待ち合わせに出かけない、というのはどうだ」
「どうだ、って論外だろ、それ」
 ゴルベーザが挙げる例え話にひとしきり笑い、カインは大きな息を吐いた。彼の身体を横から腕を回して抱き締め、広い肩に頭を預ける。彼の左手はずっと髪を撫 でてくれている。カインは目を閉じて、腕に力を込めた。

「傷つくのが嫌だから、と剣を握らない騎士はおらぬだろう」
「そんな奴、いない」
「そういう奴を何と呼ぶ」
「……臆病者」
 カインは重い息を吐き、何度も瞬きを繰り返した。

 臆病者にはなりたくない。
 それなのにいつまで経っても踏ん切りがつかず同じことを憂う自分に、自分でうんざりするほどなのに、彼は呆れることも突き放すこともせず、辛抱強く穏かに接 してくれる。その寛容さに感謝し、惜しみない愛情に報いたいと気持ちが焦る。
 でも、もう少し。
 カインは小さな息を吐いた。子を産むのは「彼が欲しがるから」ではなく「自分が欲しいから」、そう思えるようになるまでもう少し待ってほしい。それを口にし なくても、おそらく彼はわかってくれている。だから尚更、自分の不甲斐なさを情けなく思い、もどかしさは募るばかりだった。

「臆病でもいい」
 思いもよらない言葉にカインは驚きで口を小さく開けたまま頭を少しもたげ、自分のものより薄い青い眸をじっと見つめた。
「戦いとは違う。臆病に慎重に、命を守ることが親として肝要だ」
「……だったらそんな例え、言うなよ」
 唇をわずかに尖らせて、頭を彼のこめかみに軽くぶつけた。

 機嫌を直せ、とゴルベーザはカインの頭を乱暴に撫でてから席を立ち、紙とペンを手に戻って来た。彼は隣ではなく向かいに腰掛け、冊子を台の代わりにして紙を 置き、掌を上に向けて人差し指を数回動かし、カインに顔を上げるように促した。
 自分の絵を描くつもりなのだと気付いてカインはいそいそと居住まいを正し、口角を引上げたり緩めたりを繰り返し、ぱちぱちと大きな瞬きをした。
「描いてもらうの初めてだから、ちょっと緊張するな」
「初めてではない」
 え、とカインは首を傾げたが、ゴルベーザは紙から目を離さず何も応えない。自分の知らない間に描いていたのだろうか。いつの間に? どこで?
「落描き程度だ」
 カインの疑問を見透かすようにゴルベーザは応えた。絵心がまるでないカインには想像し難いが、その場にいない者を描くということは、例え落描きでも、相手を 想いながら描くものだろう。それがいまのこの暮らしのさなかではなく、常に兜を脱がなかったあの頃だったならいいな、とカインは密かに頬を緩めた。
「楽にしていいぞ」
 彼の言葉に、知らず知らずのうちに身を硬くしていたことに気付き、カインは肩の力を抜き息を一つ吐いた。
「おまえの顔など、見なくとも描ける」
「……」
 だったらモデルは要らないだろう、と顔をしかめたが、よくよく考えてみれば、それは想いの深さを物語っているようで、カインはよろこびと照れくささに頬を朱 に染め、緩む口許をごまかそうと下唇を上の歯で巻き込んだ。
 さらさらとペン先が紙を擦る音が部屋に響く。真剣な彼の顔を見ていると話し掛けることもためらわれて、カインは退屈しのぎに、頭の中に買出しの品を書き出し たり、長椅子に張られた布の模様を数えたりして過ごした。


 それなりの時間を費やして描き上げられた素描は、微かに笑みを湛えた口許や慈愛に満ちたやわらかな眼差しを見ていると、自分の姿だということを抜きにして も、思わず微笑みかけたくなるほど、見事なものだった。
 だがカインは、その出来栄えよりも、描かれていたのは鏡の中の見慣れた自分ではなく、生き写しと言われた亡き母そのものだったことに息を呑んだ。
 彼が生前の母を知るはずがない。母親似だと伝えたことはあるが、いまそれを意図して描くはずがない。
 これが母の顔だと気づくのはおそらく自分だけだろう。描いた彼自身はもちろん、幼い頃とはいえ面識のあるセシルやローザも、これはカイン自身の絵だと何の疑 いもなく思うだろう。
 そうだ、思い違いだ。自分もまだほんの子どもだったのだ。母の表情の細かなところまで正確に思い出せる自信はない。

 声も出せないでいるカインに、ゴルベーザは首を少し傾げ、気に入らないのか、と視線だけで訊ねてくる。
「お、俺、こんな表情(かお)してた?」
「いましていたというより、私の好きな表情だ」
「……」
 胸に温かなものが灯り、カインは火照る顔を片手の甲で押さえた。
「穏かさの中にも凛としたものがある」
 それはカインにも見て取れた。この表情には覚悟が見える。視線の先にある対象を守ろうという意志が伝わってくる。
 そうか。
 これは母の顔ではなく、母と同じ表情をした自分の顔なのだ。自分も、母と同じように、愛する者をこんな風に見ているのだ。甘えてばかりだと思っていた自分に も、こんな表情ができるのだ……
 胸に灯った小さな熱が全身に広がり身体が軽くなっていく。心を覆っていた霧はスッキリと晴れ、その清々しさに思わず叫び出したくなるほどだった。
 落ち着きを取り戻すため、静かに息を吸いゆっくりと吐き出してから「なあ」と彼に話し掛ける。
「自画像、描いたことある?」
「ない。まあ、描けるだろうが」
「じゃあ、ここに描いて」
 ここ、と余白を指差すカインにゴルベーザはわずかに眉を顰め、首を横に振った。
「バランスが悪過ぎる」
 彼の言うことはもっともだった。自分の姿が中央に描かれている、その余白に彼の絵を描いたところで、出来上がったものは「良い絵」とは言い難い。
「だったら、もう一枚、端に寄せ――」
 言いかけた途中でさらなる良案を思いつき、カインは顔を綻ばせ、ゴルベーザに晴れやかな顔を向けた。
「いや。いまじゃなくて、今度、本格的なやつを描いて欲しい」
「道具を揃えんとな」
 漫然と応える彼に、先ほどとは一転して神妙な顔つきで訴える。
「これと同じ表情のを……こ、子どもやその子どもたちが見たときにしあわせな気持ちになれるような」
 ゴルベーザはわずかに目を見張り、カインの真摯な顔をじっと見つめたのち、穏かに微笑んだ。
「明日、画材を買いに行くか」
 彼の提案に大きく頷いて、カインは立ち上がった。ゴルベーザも立ち上がり腕を大きく広げる。テーブル越しに抱き合うと、彼は「ありがとう」と耳許で囁いてカ インをさらに強く抱き締めた。







2010/06/28
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