眼下に広がる鬱蒼とした森を過ぎると、少し開けた草原の先に建つ一軒の家屋が見えてきた。その予想外の小ささにエッジは首を捻ったが、セシルが着陸の舵を取り始めたので、やはりあれが目的の家なのだろうと、もう一度目を向ける。高度が下がると、家の横できらりと光るものが銀色の機体の最新型の飛空艇だとわかった。
「着いたぞ」
「おう」
威勢良く返事をしてエッジは席を立ち、手荷物を抱えた。
足取りも軽くうきうきと、勝手知ったるようにセシルは勢いよく扉を開けた。
「兄さん!」
「まだ」
家の中から聞こえてきたカインの素っ気無い返事に、相変わらずだな、とエッジは思わず噴き出した。
「え! 飛空艇、あるじゃないか」
「近くだから黒チョコボに乗って行った」
「なんだ……あ、今日はお客、連れて来たぞ」
エッジはセシルの背後からひょいと姿を現した。
「よう。久しいな」
「おう。おまえか。元気か」
久々に会ったカインの笑顔も爽やかな出迎えに、エッジはほんの一瞬たじろいだ。
こいつ、明るくなったな。
無愛想で感情を表に出そうとしなかったかつてのカインと思い比べ、伴侶を得ると性格まで変わってしまうのだろうか、と推し量る。
「ミストで会ったんだ。『一緒にどうだ』って誘ったら」
「お相伴に与ろうってわけだ」
「……」
カインが眉をひそめるでもなく、口を小さく開けたままにこりともせずじっと見つめてきた。どうやら意味が伝わらなかったらしい。
「お供しましょう、てな」
言い直すと、カインは、ああ、と頷いた。
「そうか。適当に掛けてくれ」
「これは、ミストのお土産のお裾分け」
セシルはリディアが持たせてくれた袋の一つをカインに差し出した。
「いつもすまんな」
「来月は一緒に行くか。リディアも会いたがっていたぞ」
「そうだな……」
「お邪魔しまーす」
話が長くなりそうな二人を置き去りにして、エッジはさっさと奥へと進んで行った。
長椅子にセシルと並んで腰掛け、エッジはぐるりと部屋の中を見渡した。木目を基調とした家具や古めかしい調度品はゴルベーザの好みだろうか、どこか懐かしい気持ちにさせ、落ち着いた空間を創り出している。以前訪れたセシルの住まいの、白とピンクに彩られた客間を思い出しながら、男ならこっちのほうが落ち着くだろうな、と頻繁に訪れているというセシルを慮る。
カインがポットと重ねたカップを手に居間に入って来た。トレイも受け皿も用いないところが男所帯らしい。何故かぐっと寛いだ気分になって、エッジは椅子のクッションを確かめるように上下に大きく跳ね、背もたれに両腕を掛け、カインの目前で改めて部屋を見渡した。
「言っちゃあなんだが、えらくこぢんまりしてるな」
「エッジもそう思うか? 僕ももっと広い家にしてもらうつもりだったんだが」
「二人だからこれくらいでちょうどいい」
顔を上げずカップに紅茶を注ぎながら他人事のように応えるカインに、エッジは意地悪く微笑んだ。
「おー、お熱いこった」
「……なんでそうなる」
眉を寄せ睨んでくるカインを物ともせず、エッジが冷やかす。
「すぐ声の届くところ、すぐ姿の見えるところ、だろ。離れがたいってやつ」
「……掃除が面倒なだけだ」
「まあまあ。久々なんだから。二人とも」
「にやにやするな」
笑顔で仲裁に入ったセシルにも、カインは冷たい視線を向ける。
「だって、こういうの、懐かしくて。な」
同意を求めてきたセシルに、ああ、と頷いて、エッジは、照れなくていいだろ、とさらにカインを冷やかした。
「戻ったぞ」
「兄さん! おかえりなさい!」
帰宅したゴルベーザの許へセシルが一目散に駆け寄った。その素早さにエッジは呆気に取られたが、すぐに表情を繕い、椅子から立ち上がり少し緊張して、しかし彼らしい挨拶をゴルベーザに遣した。
「よう。ご無沙汰」
「ミストで会って、一緒に来たんだ」
「これは珍しい。変わりないか」
「ああ。あんたもな」
髪も眸も同じ色の兄弟は、受ける印象はまるで違うのに、並ぶとやはりよく似ている。ゴルベーザの銀の髪はエッジの記憶にあるよりも随分伸び、大きな身体をさらに大きく見せ、野性味が増して見える。
襟に手をかけ黒いマントを脱ごうとしたゴルベーザに、セシルが忙しなく話し掛ける。
「兄さん。今度コリオが出す本の巻末に載せる推薦文の寄稿を頼まれたんだけど、全然進まないんだ。どうしよう」
「だから、ひと息つかせてあげろって」
カインがうんざりしたようにセシルに言い放った。いまの物言いからすると、いつものことなのだろう。ゴルベーザもセシルもカインの言葉を気に留めるでなく、会話を続けている。
「コリオというと天文学者か」
「うん。内容は面白いんだけど、推薦文って難しくて……」
「どれ、見せてみろ」
「やった! それと、ミストで復興記念碑を造って、そこに協力した国の長の言葉を刻むんだって。百文字以内で」
「これが終ったら、一緒に考えるか」
「ありがとう! 兄さん!」
抱きつかんばかりに身を寄せる弟の銀の髪を、ゴルベーザは微笑みながらやさしく撫で、マントを脱いで窓辺の椅子に腰を下ろし、掌をセシルに差し出した。
兄弟のやりとりにあんぐりと口を開けていたエッジは、カインの隣に回り耳打ちした。
「何だ、あいつら」
二人の死角になる自分の胸の前で、ゴルベーザとセシルを指差す。
「やっぱり変か」
「変に決まってんだろ! あいつ国王だぞ。夏休みの子どもか」
エッジは囁き声のまま思わず声を荒げた。
「まあ、二十年以上離れていたから大目に――」
「はあ?」
「見てくれ、って言われてる」
実の兄弟とは知らず敵として戦った二人が、遺恨を残さず、こうして仲睦まじくしていることは喜ばしいことだ。当人たちだけでなく、周囲の理解があってのことだろう。
それにしても、とエッジは腕を組み首を捻った。一人っ子の自分にはよくわからないが、兄弟仲が良いと言っても限度があるのではないか。
「まあ、わからんでもないけどよ、うーん……ゴルベーザもあんなだったとはな。甘い。甘過ぎるぜ」
「そうか?」
「しっかりしろ! おまえまで毒されてるぞ」
「大丈夫だ。あれにはついていけない。俺は」
カインは、くいと顎をしゃくり、窓辺の二人を指し示した。洒落たデザインの椅子に腰掛けたゴルベーザは装丁前の本を片手に弟の草稿に修正を入れ、傍らに立つセシルは畳んだ黒いマントを腕に掛け兄の口頭による説明に何度も頷いている。
「なるほど。さすが兄さん、わかりやすい」
「あとは自分で清書してみろ」
「わかった。ありがとう!」
エッジは、呆れる気持ちと好奇心の半々で、兄弟に近づいた。
「おい、セシル。おい」
「ん?」
「おまえ、そんなことまで兄貴に相談してんのかよ」
「え? エッジはすべて自分でやるのか? 議会の回答もセレモニーの挨拶も、全部自分で?」
「お、俺のことはいいんだよ。文化が違うんだから」
エッジ自身、そういった事務仕事は書記官に割り当て、仕上がったものを読み上げるだけで済ませている。エブラーナではそれが代々彼らの仕事であり自分は何も恥じることはないが、正確には自分独りででこなしているわけではないので、セシルの問いかけに言葉を濁した。
「ていうか、おまえ、それも兄貴任せかよ。書記官か事務官はいねえのかよ」
「博識だから、兄さんに訊けば間違いないんだ」
「そ、そうか。よかったな」
きらきらと目を輝かせ誇らしげに微笑むセシルを見ていると何も言えなくなり、エッジはすごすごと長椅子に戻り、ため息をついた。
「だめだ、ありゃ。心酔してやがる」
「な。無駄だって」
「それはそうと、おまえ、子ども産むんだって」
「……」
今日ここを訪れた最大の関心事をできるだけ自然に伝えたつもりだったが、カインの気に障ったらしく、ぎろりと睨まれた。
小さなテーブルを挟んでゴルベーザの向かいに座り、原稿の清書をしていたセシルが、「子ども」と聞いて、顔を上げた。
「エッジも知ってたのか!」
「おう。ギルバートから聞いたぜ」
「……国王はどいつも口が軽いな」
「そんなこと言うなよ、カイン。ギルバートも喜んでたよ」
「やっぱりおまえか。喋ったのは」
カインが冷たい視線をくれると、セシルは、めでたいからいいじゃないか、と悪びれる様子もなく肩を竦めた。
仏頂面のカインを横に見ながら、エッジは首を傾げた。セシルの言うとおりだ。めでたい喜ばしいことなのに、当のカインのこの様子は何だろう。子を産むことを望んでいないのか。望んでいないのにゴルベーザに無理矢理付き合わされているのだろうか。
エッジは視線だけをゴルベーザに向けた。彼は椅子にゆったりと腰掛け、組んだ脚の上で本を台にして、こちらに関心がないかのようにペンを持つ左手を動かしているが、きっと全身を耳にして、自分たちの話を聞き漏らすまいとしているに違いない。
「おまえ、子ども産むの、嫌なのか」
「そんなこと、言ってないだろ」
カインは小さな声で応えながら、声が高い、と目配せで伝えてきた。それを察し、エッジも囁き声を出す。
「全然うれしそうじゃねえから」
「おまえなら、どうだ。自分の身体が変わるんだぞ」
「それくらいのリスクがあって当然だろ。それに、産んだら元に戻るって聞いたぞ」
「……それでも、だ」
「唯一男にできないことができるようになるんだぜ」
わかってる、とカインは俯いた。
「全部わかってる。覚悟もできている。ただ、踏ん切りがつかないだけだ」
「俺がもし男を好きになって、そいつの子が産めるとなったら天にも昇る気持ちになるけどな」
「……そうか」
「おまえ、自己愛が強いんだよ」
「……」
下唇をぎゅっと噛み長い睫毛を震わせ目を伏せたカインに、エッジは内心、しまった、と舌打ちをした。
「すまん、言い過ぎた。もしそうなら、迷う以前に断ってるよな」
「……いや。そうかもしれん。俺は結局、自分が可愛いんだ」
類稀な容姿、並ぶ者のいない竜騎士の資質、内に秘めた情熱。自分が可愛くて当然だろうに。
「誰だってそうだぜ。そもそも、自分が可愛いだけの奴なら、他人と一緒に暮らせないだろ」
「……そうかな」
目を伏せたままのカインにエッジは、やれやれ、と首を竦め嘆息した。さらに彼ににじり寄り顔を寄せ、胸の前で立てた親指で背後のゴルベーザを示し、真摯な顔つきで尋ねる。
「おまえさあ……あいつのために死ねるか?」
カインは虚を衝かれたように目を見張り口を小さく開けた。美しい顔をみるみる紅潮させ、「あ」だの「うう」だの、音にならない呻きを形の良い唇から漏らしてから、小さな子どものように、大きく頷いた。その反動で一つに結わえた金の髪が大きく揺れるのを見て、エッジは顔を綻ばせた。
「だろ? だったら、どうってことねえよ」
カインの腰を軽く叩きながら、エッジは片目だけを瞬かせた。長椅子のシートの端をぎゅっと握り締め、カインは、はにかんだような困ったような笑顔を見せた。思わず頭を撫でてやりたくなるほど素直に感情を表に出す彼に、エッジは、やっぱり変わったな、と思い、この変貌ぶりに比べれば身体が一時的に変わることなど些細なことなのに、とカインに気づかれぬよう小さな息を吐いた。
「カイン」
ゴルベーザに呼ばれ、カインはびくりと居住まいを正し、彼の方へ顔を向けた。
「腹が減った」
おまえはどうだ、とゴルベーザは向かいに座るセシルにも尋ねる。
「僕も少し」
「わかった」
カインがのそのそと立ち上がる。あの旅の間、野営で当番になったときも、カインはろくに料理ができなかったことを思い出し、エッジも立ち上がり彼に顔を寄せた。
「おまえが飯、作ってんのかよ。てか、作れんのかよ」
「焼くだけ、とか、温めるだけ、とかなら何とか」
ちらりと見下ろして目を逸らせ何度も瞬きするカインの見え透いた芝居に、エッジはわざとらしいため息をついて肩を竦めた。
「しょうがねえな。俺が作ってやるよ」
「エッジ!」
待ってましたとばかりに、カインはエッジの首にしがみついた。抱き締めるというより締め上げるといった腕の強さに、エッジは喘ぎながら首に回されたカインの腕を必死で叩く。
「く、くるし……て、てめー! 」
「お手伝いいたしましょう」
カインは笑いながら腕を解き、先にキッチンへ向かった。
あの野郎、と毒づきながら首を擦っていたエッジは、背後に気配を感じ振り返った。いつの間にかゴルベーザが突っ立っている。
「すまんな」
「いや、却って申し訳ないかもな。俺の味を知ると、忘れられなくて悶えるぜ」
自分の軽口を自分で笑い飛ばすエッジに、ゴルベーザは首を横に振った。
「それだけじゃない」
「……ああ。いいってことよ」
エッジは、それ以上言うな、と視線でゴルベーザを制した。やはり彼には、さきほどまでの自分たちの会話は聞こえていたようだ。彼の謝意を断りはしたが、あのゴルベーザが自分に礼を言ったと思うと、悪い気はしない。彼との距離が近くなったような気がして、エッジはふっと息を吐きほくそ笑んだ。
「兄さん! エッジはすごく料理が巧いんだ。国王なのに」
思い出したように声を張り上げたセシルの言葉に、ゴルベーザは、ほう、と感心し、楽しみだ、と付け加え、キッチンに向かって顎をしゃくった。
「よかったら、あれに何か簡単なものを教えてやってくれないか」
「焼くだけとか温めるだけとか、あんたも辛抱強いな」
「苦手なことを懸命にやっているのだ。文句を言えるはずがない」
何故か胸がじんわりと熱くなり口許が緩むのを見られないように、エッジは襟巻きに顎を埋め首を竦めた。
セシルの温厚篤実な気質が生まれ持ったものだとしたら、同じ血を引くその兄の本質も、穏やかで情け深いものなのだろう。
「エッジ! 何を使うんだ?」
「はいはい、いま行くって」
キッチンから自分を呼ぶカインにおざなりな返事をして、エッジはゴルベーザに向かって親指を立てた。
「待ってな。俺の味に溺れろよ」
「残念ながら、泳ぎは達者なんだ」
にやりと微笑んだゴルベーザの冗談に付き合い大げさに笑って、エッジは自分を待つカインの許へ向かった。
2009/09/07