もしゼムスの洗脳が成人後だったら

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せつない片想い

 窓から差し込む陽の眩しさにカインは目を細め、瞼を何度も擦りながらベッドから身体を起こした。大きく伸びをしながらあくびを一つし、頭を振って考える。
 今日は何をしようか。続きが気になる本があるが、こんな天気の日に部屋に籠もるのももったいない。
 ミルクにクラッカーとチーズという簡単な朝食を済ませてから身支度を整え、倉庫から釣竿と魚篭(びく)を取り出す。
 家の外に出た。目を閉じて腕を広げ、早朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。風もない絶好の釣り日和だ、と満足して、カインは門に鍵をかけ、石畳の坂道を足取りも軽く下って行った。


 セシルの家は下町を少し外れたところにあるこじんまりとした家だった。いつかカインが、いまのセオドールならばもっと大きな家に越せるだろうに、と言うと、セシルは、週末しか居ないからここでいい、と応えた。なるほど大きな家は掃除も管理も大変だ、とカインは自分の屋敷と比べて思い至ったが、何より兄弟がこの慣れ親しんだ家を愛しているのだとわかり、余計なことを言った自分を密かに恥じた。


 勝手知ったる友人の家、寝起きの悪いセシルに聞こえるように、カインは扉を乱暴にノックした。
「セシル! 起きろ! 釣りに行くぞ! セシ――」
「おはよう。早いな」
 予想だにしなかった人物に迎えられ、カインは驚きの余り固まってしまった。
「…………あ……ごめ……すみません」
 緊張で身を強張らせるカインを見て、ガウン姿のセオドールはくつくつと笑い、扉を大きく開けた。
「そんなに硬くならなくてもいいだろう。昔馴染みなんだ。もっと楽にしていい」
「……で、でも――」
「入るのか。入らないのか」
「お、お邪魔します!」
 セオドールに招き入れられ、カインはそそくさと家の中に入った。


 居間の長椅子に腰を下ろし、二階への階段に目を向ける。セシルはまだ寝ているのだろうか。久々にセオドールと二人きり、とても会話を持たせる自信がない。

「朝飯は? 食ったのか?」
 台所からセオドールが尋ねてきたので、カインは「食べた。お構いなく」と返事し、いつもと違いきれいに整えられた部屋を所在なさげに見渡した。
 
 セオドールがドーナツを咥えながらポットとカップを手に居間へ戻ってきた。そんな行儀の悪ささえ、自分の前で隠そうともしない彼のありのままの姿なのだ思えて、カインは頬を緩める。
 甘い物好きは相変わらずだな。朝食はまだだと返事をしていたら、アイシングがたっぷりかかったこの甘いドーナツを勧められていたのだろうか、と受け皿に置かれた齧りかけの菓子を見てカインは眉をわずかに顰め、こんなものを朝から食べてよく胸が焼けないものだ、と感心した。

 紅茶をカップに注ぎながらセオドールは、今日は久々に休みが取れたので夕べ遅く帰って来たということ、セシルは自分に見てもらうため学校へ課題を取りに戻ったということを、カインに訊かれるまでもなく話した。
 
 セシルの留守を知り、カインの緊張はさらに高まったが、それを気取られないように努める。
「ごめん。久しぶりの休みなのに、朝早く来て、起こして……」
 カップで口許を隠しながら、カインは小さな声で謝った。
「いや、セシルが早かったので、もう起きていた。この恰好は……まあ、赦してくれ」
「そんな……」
 ガウンの深い前合わせから覗く彼の逞しい胸筋が目に入り、カインは長い睫毛を何度も瞬かせ目を伏せ、紅茶とともに吐息を飲み込んだ。このままカップを口につけたままにして表情を隠したいがそうもいかない。
 落ち着け心臓、落ち着け俺。

 一人もじもじと落ち着かないカインとは対照的に、セオドールは明るい窓に目をやってのんびりと言った。
「行くか」
「え」
「釣りに。長い間やっていない」
 カインはみるみる顔を綻ばせる。
「カインは、海釣りはしたことがないだろう」
 セオドールの言葉に何度も頷く。
「調査艇を借りて、沖まで出てみるか。どうせやるならよく釣れるところがいい」
「いいの? そんな私的に使って」
「この二ヶ月、休日返上でこき使われてきたんだ。陛下もそのくらい大目に見てくれるだろう」
 悪戯っぽく笑うセオドールは昔のままだった。
「職権乱用だ」
 ぐっと寛いだ気分になり、カインも冗談めかして笑った。

 それからしばらくは、学校の話や彼がいま技士のシドと共に開発に取り組んでいるという新しい船についての話をしながら、セシルが戻るのを待った。
 セオドールの話は興味深いものだった。久々の休日なのだから仕事の話は避けようという当初のカインの殊勝な心がけはあっさりと打ち砕かれ、軍の機密事項に触れそうでいて肝心なことには触れないという絶妙の話しぶりはカインの好奇心を煽り虚栄心をくすぐった。
 顔がにやついているのが自分でもわかる。海釣りにも出かけたいが、こうしてセオドールと二人きりで話すことが楽しくて仕方がない。セシルがゆっくり戻ってくればいいと思い、いっそ彼抜きで出かけられたならと思い、親友を邪魔者扱いしている自分の身勝手さに呆れ、カインはまた一人もじもじと俯き、手持ち無沙汰に「もらうよ」とポットに手を伸ばした。

 カップに紅茶を継ぎ足していると、視線を感じて、上目遣いにセオドールを見上げた。
「な、何? 何か付いてる?」
 自分のものより少し薄い青い眸にじっと見つめられ、カインは顔を紅くして長い睫を何度も瞬かせながら右手の甲で唇の周りを拭った。
「髪が伸びて、ますますお母さんに似てきたな」
「……」
「男に向かって言うのも何だが、本当にうつく――」
「ごめん。俺、用事を思い出した」
 カインは突然立ち上がり、席を離れた。先ほどまでの浮かれた気分は一瞬で吹き飛び、代わって、何か重いものが胸につかえる。
 驚いたように口を小さく開き、セオドールはカインを気遣う言葉をかける。
「どうした、急に。顔色が悪い。気分が――」
「今日中にやらなきゃ。お邪魔しました」
「お、おい。カイン!」
 扉を開けざまに振り返ったカインは、会えてうれしかった、と精一杯の笑顔を見せ、一目散に駆け出した。


 息を切らせ坂道を駆け上がる。流れる景色は何も目に入らず何も聞こえず、ただ、どくどくと脈打つ音が鼓膜に響く。胸の痛みは心臓が体力の限界を訴えているからか、それとも別の理由か。足もふらつき、このままでは家まで持ちそうにない。カインは足を止め適当な街路樹を見計らい、力を振り絞り樹上にジャンプした。
 
 生い茂る葉が強い日差しを遮り、カインの姿を人の目から隠す。休憩するにはもってこいの樹上で上がった息を整え、両手で顔を覆う。身体は熱いのに手指は冷たく震えている。

 セオドールは俺に母さんの面影を見ている。
 若く美しかった母、やさしかった母。あっけなく死んでしまった母。
 金の髪も青い眸も鼻も唇も輪郭も。瓜二つと言われることは女のようだと言われているようで抵抗があったが、成長するにつれ、母を身近に感じられるようでうれしく思えるようになったのに。
 彼が俺を美しいと褒めてくれるのも、母に似ているからなのか。やさしいまなざしも俺にではなく母に向けられているのか。十も違わなかった彼が、母に秘めた想いを寄せていたとしてもおかしくはない。母の前で彼はいつも照れくさそうに緊張していたことを憶えている。まさにいまの俺と同じだ。
 身代わりは嫌だ。俺だけを見て欲しい。それが叶わないなら、きっぱりと諦めてしまいたい。
 いや、身代わりでもいい。決して言葉にはしないから、この想いをずっと抱いていたい。

 相反する想いに戸惑い自分の行く先を決めあぐね、重いため息をつき、膝を抱えて突っ伏した。
 やがて幼馴染が自分を捜す声が聞こえてきても、カインはそのまま樹上から動こうとしなかった。





 後日、カインは町で偶然、女連れのセオドールと出くわした。
 若くして権力を手にした彼には言い寄る女も多い。大臣たちがこぞって自分の娘との縁談を勧めてくるという話もセシルから聞いたことがある。その中から彼が好みの女を選び出したとしても何の不思議もない。妻を娶り子を持ち家族を増やしていく、他に親類縁者のない兄弟にとって、こんな喜ばしいことはない。
 彼のしあわせは自分のしあわせと同じではない。
 カインは唇を噛んだ。
 祝福しなければ。難しいことではない、にっこり微笑んでごく普通の挨拶を交わせばいいだけだ。瞬時に自分にそう言い聞かせたが、葛藤も空しく、カインは目を伏せ、軽く会釈をするだけで、セオドールの脇を足早に通り過ぎた。
「カイン」
「……」
「おい、カイン!」
 呼びかける声に振り向くこともなく、カインはさらに足を速めた。 


「きれいな子ですわね。どなた? お知り合い?」
「……ああ……弟の友人で、私の――」
「え」
 いや何も、とセオドールは口篭り、首を横に振った。
 そう、と女は険しい表情を解き、セオドールに腕を絡め、豊かな胸を摺り寄せた。
 セオドールはしなだれかかってくる女に視線をくれず、カインが路地を曲がるまで、その光り輝く髪の後姿をじっと見つめていた。










2011/01/11

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