もしゼムスによる洗脳が成人後だったら

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憧れのひと

 その日、朝から生徒たちはそわそわと落ち着きがなく、校内は期待と昂奮で異様な熱気に包まれていた。彼らは昼食を済ませるや、我先にと争って中庭に面した廊 下の窓に張り付き、午後の講義に招聘された講師の来校を、いまかいまかと待ちわびる。
 来たぞ、と誰かが大きな声を上げた。どよめきが起こり次に歓声が沸き上がる。皆の視線が集まる中庭に、出迎えの学校長と共に黒いマントを纏ったセオドールが 現れた。


 セオドールは、バロン王の推挙もあり、既にいくつもの要職に就いていた。剣の腕前では右に出る者はおらず、黒魔法に至っては、正規の教育を受けずとも天賦の 才のみで国内のどの魔道士よりも優れていた。国王の覚えもめでたい彼を、貴族でもない若輩者だと妬む声も上がったが、セオドールは、法を整備し領土を広げ各方 面に敏腕を振るうことでそれらを黙らせ、王の右腕としてその立場を絶対のものとしていった。軍事大国としてさらに強大になっていく自国を人々は誇りに思い、そ の立役者でもある彼は、比類なき人物として称賛され敬愛されていた。


 学生たちにとってもセオドールは憧れの人物であったが、多忙で国内外を飛び回っているため、彼の姿を初めて目にする者も多かった。抜きん出て長身の逞しい体 躯、煌く銀の髪。名声と違わぬ彼の威風堂々たる風貌は彼らをさらに熱狂させ、感嘆の息があちこちで漏れる。

 彼らに応えてセオドールは顔を上げ、陽の眩しさに少し目を細め、校舎の窓に向け左手を少し挙げた。歓声はさらに大きくなり、生徒たちは千切れんばかりに手を 振って偉大なる先輩の来校を心から歓迎した。

「さっすが、かっこいいい!」
「うわあ、超あこがれるう!」
「やっぱり似てるなあ」
「どんな兄弟だよ、まったく。神様は不公平だぜ」
「なあ、家ではどんなふうなんだ?」
 はしゃぐ友人たちに囲まれ注目を浴び肘で小突かれ、セシルは顔を赤らめたが、得意顔は隠しきれなかった。
「普通だよ」
「あんな超人的な人が普通なわけねーだろ!」
「普通だって。冗談も言うし、料理を失敗することもあるし、普通だよ。なっ?」
 セシルは幼馴染のカインに同意を求めたが、当のカインはセオドールの一挙手一投足を見逃すまいと無言で彼の姿を目で追っていたため、セシルの声が耳に入って いなかった。
「カイン!」
「……ん、あ、ああ」
 カインはようやく呼びかけに気づき、息を大きく吐き、唾を飲み込み何度も瞬きをした。
「え、何?」
 間の抜けた調子の彼に、友人たちは拍子抜けし、ずっこける真似事をする。
「おいおい、しっかりしろよー」
「セオドールさんは家で普通か、って」
「見惚れてたのかよ、カイン。ま、無理もないけど」
 ビックスとウェッジがげらげらと笑う。
「べ、別に見惚れてなんか……」
「隠すなってー」
 馴れ馴れしく肩を組んでくるビックスの腕をいつものように払い除けることもせず、周囲に気づかれぬよう静かに息を吐き、カインは再び中庭に視線を落とし、 久々に見る親友の兄の姿を目に焼き付けた。



 セオドールの講義は対象でない学年の生徒たちも押し寄せるほど盛況だった。講義を終えた彼の周りには黒山の人だかりができ、控室に移動するにもたいそうな時 間を要した。矢継ぎ早に投げかけられる質問は、若い彼ららしく私的なことがほとんどだったが、セオドールはそれらをやんわりとかわしながら如才なく対応した。

 カインは皆の輪に入ることができず遠目にその様子を眺めていた。
 幼馴染セシルとの縁で、子どもの頃、一緒に遊んでもらい、泊まりに行った夜には絵本を読んでもらい、毎夜母にしてもらっていたように、手を繋いで眠った。
 大きくてやさしい親友の兄。男なら誰しもが憧れるセオドール。いま大きな声で彼の名を呼べば、こんな騒がしい中でも、彼は自分の声を聞き分けてくれるだろう か。声を頼りに辺りを見回し、自分を見つけてくれるだろうか。
「セ……」
 思いが声になることはなく喉につかえ、カインは息を飲み込み目を伏せた。
 いまの彼はとてつもなく遠い。国を支える宰相と一介の学生。九年の歳の差と経験の差。どれだけ努力をすれば彼に追いつけるのだろう。父のような竜騎士になる という夢に変わりはないけれど、彼の傍にいて彼の役に立ちたいという思いは日増しに強くなるばかりだった。

「おまえたち! いつまでもご迷惑だろ! 教室に戻れ!」
 しばらく傍観していた教官たちが、いつまでも引かない人の波に業を煮やし大きな声を上げたので、生徒たちは口々に文句を垂れつつようやく散り散りになり始め た。
「カイン、俺らも行くぞ」
 ウェッジに促され、ぼんやりと人だかりを眺めていたがカインが我に返ると、焦点の合った視線の先、セオドールがこちらをじっと見ていた。カインの心臓が跳ね る。微笑もうとして巧くいかず頬を引き攣らせるカインと対照的に、セオドールは穏やかに微笑んだ。カインは目を見張りすばやく周囲を見渡した。セシルの姿は近 くにない。彼の笑みが弟にではなく自分に向けられたのだとわかり、大勢の中から自分を見つけてくれたことがうれしくて、カインは頬を染め、緩く唇を噛み、急か すウェッジに腕を引かれながら何度もセオドールを振り返った。






 夕食後の自由時間、生徒のほとんどは談話室で過ごす。時事問題を真面目に討論しているグループもあればチェスやカードに興じるグループ、馬鹿話に盛り上がる グループもある。毎日厳しい実技訓練と学業でへとへとの少年たちも、このときばかりは溌剌と、年相応の顔に戻る。
 セシルは仲の良い友人たちととりとめのない話に花を咲かせカインは輪から少し外れたところでそれを眺める。それが彼らの日常だった。


「セシルは? なんとかっていう娘と巧くいってんのか」
 うーん、とセシルは冷めた紅茶をスプーンで掻き回しながら首を少し傾げた。
「巧くっていうか、進展は無い」
「早く押し倒しちまえ」
「そ、そんなことできるか!」
 セシルは顔を紅くして声を荒げたが彼の憤懣は軽く受け流され、友人たちの標的はカインに移った。
「カインは? どうなんだよ」
「こいつ、もてるくせに誰とも付き合わないんだよなー。俺に分けろっての」
「好きなこ、いるのか?」
「…………い、いない」
「いま間があったぞ! いつもは即答のくせに!」
「え! 僕、聞いてない! 誰だよ!」
 親友を自負するセシルが、膨れっ面で、腰掛けたまま椅子をカインの傍に寄せて行った。
「『いない』って言っただろ」
 うるさく言ってくるセシルをあしらってカインは大げさなため息をつき、こめかみを押さえた。
 
「なあ、『好き』って何だ? どんな気持ちになるんだ?」
 カインのいまさらな質問にセシルたちは呆然と口を開けた。友人たちの様子にカインは顔を赤らめ、思わず口をついて出てしまった言葉を取り消すことも出来ず、 照れ隠しの咳払いをして口篭った。
「確認だ、確認。おまえら、わかってないと思って……」
 カインの妙に高飛車な態度を誰も意に介さず、ウェッジが口火を切った。
「それはおまえ……好きってのは、こう、愛しい気持ちがふつふつ湧いてきて――」
「そうそう。胸がどきどきして――」
「抱き締めたいとかキスしたいとか触りたいとか、あるじゃないか」
「おまえら、ヤりたいだけじゃないのか」
 あけすけなカインの言葉に「失敬な」とビックスは大げさにむくれた。
「それとこれとは別なんだよ。本当に好きなこの前ではそう思ってても照れくさくてなかなか言えないもんだ。な、セシル」
 急に話を振られ、セシルは慌てて「うん」と頷いた。
「大切すぎて、手が出せない」
 その前に告白すらできないけど、と小声で付け足してセシルは肩を落とした。彼の背中を「がんばれよ」とウェッジが軽く叩く。
「心だよ、心。心が揺さぶられるんだ。ヤりたいだけの相手だとチン○が揺さぶられるだけ」
「あーあ。良いこと言ったのに、最後で台無し」
 セシルは眉を顰め、ビックスに冷たい視線を寄越した。他の友人たちもどっと笑い、セシルを口真似て「台無しー!」とビックスを囃した。


 友人たちの話を聞きながらカインはじっと考え込んだ。
 心が揺さぶられる……
 彼を見ると胸が高鳴る。だがそれは、超人的な活躍をする彼に対する憧憬と、そんな人物と親しく話ができる間柄だという優越感がそうさせるのではないのか。
 抱き締めたいとかキスしたいとか……
 いや、むしろ、あの逞しい腕の中はどんな心地がするだろう。髪に口付けていた唇が額にこめかみに降り頬に唇に――
 顔が火照り汗がどっと噴き出たような気がしてカインは額に手をやった。何を考えてるんだ、俺は。赤くなった顔を誰かに見られていないだろうか。不自然に見え ないような仕種で片手で顔を覆い、呆れて物も言えない、といった風を必死で装おうとする。
 

「カイン!」
 名を呼ばれ、カインはびくりと居住まいを正した。
「話振っておいて黙んなよー」
「……あ、すまん」
 友人たちは依然、恋愛と性について盛り上がっている。これ以上この話題が続くようならこっそり退散しよう。自分が飲み干したコップを下げようと手を伸ばした ところで、顔を寄せてきたセシルが耳許で囁いた。
「好きなこができたら、真っ先に僕に言えよ」
「……」
 おまえにだけは言えるか、とカインは胸中で呟いたが、親友には曖昧な笑みを浮かべるだけにとどめた。










2010/12/23

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