カインは大急ぎで食堂へ駆け込み、厨房へのカウンター越しに料理長の名を呼んだ。
「何でもいいからすぐできるものを頼む」
すぐさま料理長は、残り物だぞ、と皿を二つカウンターに置いた。カインは礼を言い、二つの皿を手に誰もいない食堂のテーブルに戻り席についた。
こんな時間までごくろうさん、とテーブルの脇に置かれた書類の束を一瞥した料理長は、前掛けで手を拭きながらカインを労い、向かいに腰掛けた。仕事をしていたわけでもないのでカインは苦笑いを浮かべ、無言で小さく頭を下げた。
彼はカインのためにコップに水を注ぎ、フォークとスプーンを用意し、ナフキンを取った。それらを同時にできるのも瞬時に料理が出来上がったのも、その六本の腕のおかげだった。
彼は腕の良い料理人だったが盗癖があり、どの職場も長続きしなかったそうだ。ある日トロイアの牢獄に収監されているとき、どんな罪人でも受け入れてくれるところがあるという噂を聞きつけ、このゾットの塔にやって来たという。そして彼は、自分の能力を存分に発揮できる身体になるための改造手術を受け、この塔の厨房の料理長という職に収まったのだった。手術を受けてからは、彼の「病気」は鳴りを潜め、新しい身体を与えてくれたゴルベーザに深く感謝していると彼はカインに語っていた。
四天王の一人ルビカンテに諭されてから、カインは魔物に偏見を持たず接することを心がけていた。自分がそういう態度を取ると魔物も心を開く。魔物といってもこの塔にいるのは元は人間だった者、特に犯罪者や世捨人、異端者といった者が多く、彼らは新しい身体を得たことで人間時代の悪しき思い出を捨て生まれ変わることができたので、その恩人であるゴルベーザの役に立っていることが心からうれしいと笑顔を向けた。彼らの笑顔にカインは複雑な思いに駆られた。
目前の男の六本の腕が器用に動くのを眺めながら、カインは冗談交じりに呟いた。
「魔物は夜行性も多いから、一日中開けていればいいのに」
料理長は大きく頷いた。
「わしはそれでもいいんだが、ゴルベーザ様が『夜は休め』と仰る」
彼の言葉にカインは片眉を上げた。
「わしはこの身体になってから、一日二時間寝れば十分だ。だがゴルベーザ様は、『昼は働き夕方は寛ぎ夜は寝ろ』と仰る」
カインは首を傾げた。むしろ、魔物の夜行性を生かして二十四時間眠らない不夜城を築く方が攻守に渡って磐石ではないか。夜中腹を空かせた魔物が無駄な殺生をしたりしないものか。
魔物に秩序を身に付けさせるつもりか……
特殊な能力を備え力も人間の比ではない魔物が人間並みの知能と秩序を身に付ければ、それは強力な戦力になるだろう。
ゴルベーザに尋ねたら、答えてくれるだろうか。彼の目指すものを知る手がかりのひとつになるだろうか。そういう考えを持つなら、彼は当然生身の人間なのだろうか。
「ゴルベーザ様の食事もここで作っているのか」
スプーンを動かしながらカインは料理長に尋ねた。そうだ、と彼は応え、ここで作ったものを専用エレベーターで運んでいる、と付け足した。
「どんなものを?」
カインの問いに料理長は首を横に振った。カインは微かに眉を寄せた。
どうもここの連中はゴルベーザに関しては秘密裏だ。毒を盛られるかもしれないとでも考えているのか。食事を運ぶことは言ってもよいが、その内容についてはだめだという基準もよくわからない。
「単なる好奇心で訊いた。でっかいからたくさん召し上がるんだろう、とかな」
料理長はにやりと笑い、人並みだ、と応えた。その表情から、彼がこれ以上応えるつもりのないことが伝わったのでカインは目を伏せ、美味いな、と残り物とは思えない彼の一品を褒め皿を突付いた。
それからカインは何度もゴルベーザの書斎を訪れた。
初日を反省し、夕食を済ませてから部屋の扉をノックする。返事が無いときは教わった暗証番号をパネルに打ち込み、鍵の外れた音を聞いてから入室する。
部屋の主の不在時にあれこれと嗅ぎ回るようなやましいことはしない。そう訴えるようにカインはわき目も振らずまっすぐに書斎を目指す。
しばらく読書を楽しんでいるとゴルベーザが部屋に戻ってくる。以前は読書を中断し彼を出迎えていたが、いちいち出てこんでいい、と言われてからは、彼が戻ってきても書斎から出ることはせず、落ち着かない気持ちを抱きながらも本に集中する。
入れ替わるように退室することで彼を不快にさせてはいけないと考え、時計代わりに、彼が戻ってからはきっちり二十ページだけ読み進めることにしている。
既定のページを読み終え書斎を出る。彼が不在のときは一筆残し、在室しているときは挨拶をして部屋を出る。彼に話し掛けられることはない。彼は何も求めてこない。それは気が抜けるような、何か物足りないような気がして扉を開ける前もう一度彼を振り返るが、ゴルベーザは分厚い魔導書に没頭しているか何か書き物をしているかで顔を上げることはない。カインは自分でもよくわからない落胆を抱え、小さな息を吐いてから扉を開け部屋を出る。
そんなルーティンに慣れたある夜。
読書を終え、いつものようにメインルームに出たカインは、大きな机の上にアイテムが溢れ返っているのを目にした。ゴルベーザは大きな椅子に深く身を沈め、右へ左へ、暇を弄ぶように椅子を半円に回していた。いかにも頑丈そうな椅子がキイキイと音を立てている。
子どもっぽいところがあるんだな。
主の意外な一面を垣間見たようで、カインは口許に微かな笑みを湛えた。
「カイン」
「はい」
「これを片付けてくれ」
ゴルベーザが机の上と大きなキャビネットを交互に指差した。
「わかりました」
言い渡された雑事を嬉々として引き受ける自分が可笑しくてなんとも不思議な気分だった。
机に寄ったカインがきょろきょろと視線をさ迷わせていると、これを使え、とゴルベーザは、傍らのワゴンの上に置かれていた銀のトレイを差し出した。
ありがとうございます、と一礼してカインはトレイを受け取り、アイテムをその上に置いていく。中には、見たこともない形のものやいびつに歪んでいるもの、原型をとどめないほどバラバラになっているものもあったので、とりあえず自分がわかるものからキャビネットに収めていく。
「見るからにおかしなものは、捨てていい」
「はい……」
返事をしつつカインはわずかに顔をしかめた。いくら形がおかしくても、自分が知らないだけで、貴重なものがあるかもしれない。
カインは、見たこともないきれいなピンク色の牙を手に取りトレイの上に置いた。
「それは要らん。失敗だ」
「はい」
失敗? カインは牙を持ち上げじっと視線を注いだ。色以外はごく普通の牙に見える。
「不思議でたまらん、といった顔だな」
「はい……」
顔に出したつもりはなかったのにまたもや考えを見透かされた。もう何度もこんなことがあり、次第に慣れてきた。慣れてくると驚きに代わって微かな喜びが感じられる。これが「理解されている」という喜びだとカインが気付くまでには、もう少し時間が必要だった。
「投げてみろ」
「これをですか?」
左手に持ったピンク色の牙を少し上に持ち上げた。ゴルベーザが頷く。
「あの扉を目掛けて投げろ。思い切り」
これは「牙」だ。投げれば黒魔法と同じ効果があるはずだ。初めて見る色の牙なのでどんな効果が秘められているかはわからないが、部屋の中で投げても大丈夫なのだろうか。カインは逡巡したが彼の命令に逆らうつもりはなかったので、牙を扉に向かって投げつけた。
牙は木製の扉にぶつかると砕け散り、その瞬間、凄まじい勢いの水が噴き出した。あ、とカインが声をあげたのと、カインの背後から脇を熱風が掠めたのは同時だった。扉の前で炎が舞ったかと思うと、水蒸気だけがしゅんしゅんと音を立てていた。
一瞬の出来事にわけがわからず思わずゴルベーザを振り返ると、彼は左腕を伸ばし掌を扉に向けてかざしていた。
口をぽかんと開けたままのカインに、ゴルベーザは低い声で笑った。
「あの色の牙で水が出てくるとは思うまい。失敗だ。紛らわしくていかん」
「失敗とは……」
「何色を混ぜればあの色になるか、わかるな」
ゴルベーザの口調が小さな子どもに言って聞かせるようなものだったので、カインははっと我に返り、咳払いをして、顔を引き締め大きく頷いた。
「赤と白です」
当たり前のことを堂々と応えて、ようやくカインは気付いた。
「赤い牙と白い牙を合わせたものですか」
ゴルベーザは頷いた。
「合成させると、赤と白で色は当然ピンクになった。炎と氷で効果は水になった」
そんなことができるのだ。カインは感心した。机の上の一見がらくたにみえるものたちは、アイテムを合成した末の試作品や失敗作なのだろう。
それよりも、扉の前で噴き出した大量の水を、炎の魔法で、他に何も燃すことはなく一瞬で消し去った彼の魔力と詠唱の素早さにカインは驚愕した。木製の扉に寄り触れてみる。扉はまったく濡れておらず焼け焦げたところもなかった。
魔法とはこんな風に制御できるものなのか……
カインは再び机に寄り、アイテムの中から砂時計を手に取り逆さにした。砂が落ちるのを見ていると、見知った色ではない砂の特殊な形に気付き、カインは喜色の交じった声をあげた。
「星の砂を合わせたものですね」
「これは成功だ。相手の動きを止めさらに攻撃魔法も発動する」
すごい、とカインは呟いて、星の砂時計をそっとトレイに置いた。
「新しいアイテムの研究開発をされていたんですね」
「遊びだ」
え、とカインは声に出さず口を開けた。
「単なる暇つぶしだ」
「……そうでしたか」
暇なのか? 暇ならもっと……
カインは自分の思い上がりに顔を赤らめ頭(かぶり)を振った。ゴルベーザが、どうした、と少し首を傾げたので、何でもありません、と慌てて応える。彼は心が読めるかもしれないのだ。余計なことを考えてはいけない。こうして部屋を自由に出入りすることを許され、貴重な本を心地良い書斎で読むことを許される、そんな厚遇に加えて何を求めているのか。
カインはそそくさと残るアイテムをキャビネットに収めた。がらくたに見える失敗作を前に視線をさ迷わせていると、ゴルベーザは自分の背後の箱を指差した。すみません、と謝意を表してカインはがらくたを捨てるため示された箱に寄ったが、中を見て驚いた。黒い革手袋がいくつもそこにあった。これは屑入れではないかもしれない。
「あの……」
「一日五、六回、新しいものに換える」
「……そうでしたか……」
いまの彼の物言いで、この箱は屑入れと判断してよいのだろう。
使い捨てなのか、もったいないな。
カインは心の中で呟きながら、手袋の上にがらくたを流し入れた。
「捨てて参ります」
「清掃人に任せておけばいい」
「はい」
カインは箱から手を離した。
「もう、下がってよいぞ」
カインは頭を下げたがすぐ顔を上げ、よろしいですか、と恐る恐る切り出した。
「何だ」
「槍を賜りたいのですが」
ふむ、とゴルベーザは顎に手を当て頷いた。
「身体がなまりそうで、動かしたいと思いまして」
「武具担当に伝えておく。明朝、いちばん良いものを選べ。そのうちもっと特別なものを取り寄せてやろう」
「ありがとうございます!」
カインは声を弾ませ深く頭を下げた。
いつも以上に丁寧に挨拶をして退室した自分を現金な奴だと自嘲しながらも、顔がにやつくのを止められなかった。足取りも軽い。浮かれているのは、槍が手に入るからだけではない。ゴルベーザと過ごすひとときがこんなにも自分にとって喜びの多くを占めていることに、少し不安を抱きながらも、カインは、もっと彼のことが知りたい、もっと彼の役に立ちたい、と件の魔物たち以上に自分が彼に傾倒していることに誇りすら抱き始めていた。
2009/01/11