日々是好日

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5

 気が付けばまた暗闇の中だった 
 叫び出そうにも声が出ない 走り出そうにも身体が動かない
 身体が動かないのは何かに戒められているからだと気づいた

 自分の身体に触れてみる
 戒めは手首や足首にではなく自分の腹に絡み付いていた
 鎖でもない 縄でもない それは逞しい腕だった

 身体をひねり腕の主を仰ぎ見ようとする
 どんなに目を凝らしても暗闇の中その顔は見えない
 戒める力は強く息をするのも苦しい

 それでも戒めを解こうとは思わなかった
 それは苦しいけれど心地よい 
 苦しいけれど温かい







 下半身を押し潰されるような痛みにカインは目を開けた。覚醒しない頭で考える。確か、主の書斎でいつものように本を読んでいて、睡魔に襲われて……
 ぼんやりとした視界がはっきりと像を結んだとき、目に飛び込んできた黒い兜に驚き慌てて跳ね起きようとしたが、身体が動かなかった。
「夜、眠れんぞ」
 ゴルベーザが安楽椅子に横たわったカインの上に跨り、膝立ちになって見下ろしていた。
「す、すみません。つい、うとうとしてしまいました」
 カインは狼狽し彼の身体の下から逃れようとしたが、重い身体はびくともしなかった。無理やり撥ね退けることもできず、ごそごそと身を捩っていたカインだったが、主の手が甲冑の留め金に伸びるのを見て、その意図を察し身を竦ませた。
「ゴ、ゴルベーザ様……な、何を……」
「いちいち断りが必要か」
 くっくとくぐもった笑いを漏らし、ゴルベーザは革手袋をはめたままの手で器用にカインの甲冑の留め金を外していく。
 そうだ。俺は彼のものなのだ。わかっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに身体の震えが止まらない。

 初めて会った日に力尽くで犯されてからこれまで、ゴルベーザは自分に劣情を催すことはなかった。カインはそれを訝しんだが、日が経つにつれ、あれは一時的な情欲の迸りで自分を手に入れる手段に過ぎなかったのだ、といささか都合よく解釈し始めていた。
 なんと短慮なことか。カインは己の楽観を呪い唇をぎりぎりと噛み締めた。
 力で適うはずはない。抗えるはずもない。ただおとなしく時が過ぎるのを待つしかない。
 頭でそう考えても身体は抗い、彼の厚い胸を押し返そうと伸ばした腕に無意識に力が入り足をばたつかせる。
 右側の留め金はすべて外され、アンダースーツ越しに脇腹を撫で上げられる。身体がびくんと跳ね息が漏れる。
 顔を背け唇をきつく噛み締めていたが突然身体が軽くなるのを感じ、恐る恐る黒い兜を仰ぎ見た。
「寝込みを襲うというのも、興が乗らんな」
 ゴルベーザはカインの身体から降り、背中を向けた。主の急変に戸惑い身体を起こし、彼に呼びかける。
「ゴルベーザ様?」
「下がってよいぞ」
「……はい」
 ゴルベーザは何ごともなかったかのように書斎を出て行った。
 カインは留め金を掛ける間も惜しんで脱げかけた甲冑を片手で押さえ、失礼します、と逃げるように主の部屋をあとにした。


 自室に戻り、カインはベッドにうつ伏せに身を投げ出した。どくどくと鼓動がこめかみにまで響き、上がった息は収まらず、口の中が乾き何度も唾を飲み込む。
 とんだ失態だ。配下の取るべき態度ではない。何故おとなしくじっとしていられなかったのか。主の不興を買っただろうか。あきらめの悪い子どものような振る舞いに呆れてしまっただろうか。
 身体が震えたのは恐ろしかったからだ。一度は奪われた身だ、嫌悪は無かった。痛みも耐えてみせる。では、何が怖いのか。何を恐れているのか。
 ……
 きっと自分が変わることが怖いのだ。同性に組み敷かれ犯され翻弄されることで、敬愛とは異なる感情が芽生え、自分の知らない自分が目を覚ますことが怖いのだ。
 寝返りを打ち仰向けになり、目を閉じて細く長い息を吐いた。左胸に手をあてる。激しい鼓動は治まっていて、いまなら冷静に考えられるような気がした。
 どうすればいいのか。俺はどうしたいのか。


 カインは再びゴルベーザの部屋を訪れた。ノックをして返事があったので名を名乗り、失礼します、と扉を開ける。
 ゴルベーザは長椅子に腰掛け、低いテーブルの上に広げた設計図のようなものを眺めていた。
 どう切り出せばいいだろう。自分から声をかけるにも気概が足りなくて、カインは扉の前で俯いたり顔を上げたりを繰り返した。
 じっと留まったままのカインに、ゴルベーザが顔を上げた。
「書斎に行かんのか」
 いえ、とカインは首を横に振った。
「もうとっくに読み終えています……何日も前に」
 カインはゴルベーザの目を、黒い兜の向こうにあるはずの双眸をじっと見て応えた。ゴルベーザは何も応えず視線をカインに据えている。
「何か忘れたのか」
「はい……」
 ゴルベーザは、ふっと息を吐き出し片手を少し挙げた。
「おいで」
 低く穏やかに響く声に誘われ、カインはゴルベーザの傍らに寄った。彼はカインの腰に腕を回し引き寄せ隣に座らせ、己の漆黒の兜を指で軽く叩いた。それが意味するところを正確に読み取り、カインは竜を象った兜を脱ぎ、髪を手早く整え、膝の上に置いたそれをぎゅっと抱えた。
「何を忘れた」
「……」
 ゴルベーザはカインの膝から兜を取り上げ、そっと床に落とした。肘掛を枕に身体を横たえられる。カインは目を伏せ下唇を上の歯で巻き込み、眉間に小さな皺を寄せ、どう応えるべきか頭の中で言葉を慎重に選んだ。
「わ、私……」
「印象に残ったところはどこだ」
 唐突に話題を変えられ、カインは慌てて目を開けた。何度も瞬きをしながら、教師に設問の答えを求められた生徒のように従順に返した。
「や、やはり初めて読んだ竜騎士の挿話がおもしろかったです」
「おまえの父と同じ名だな」
「ご存知でしたか……」
 驚きの余り出た声が変に上擦ってしまい、カインは唾を飲み込んだ。
 ゴルベーザがさらに詳細な感想を求めてきたので、カインもそれに応える。主の問いを聞き逃さないように耳をそば立て、粗相のない応えができるように気を配っていると、留め金を外す音もどこか遠くに聞こえ、甲冑を脱がされていることを忘れそうになる。これも気を紛らわせるようにとの彼の気遣いだろうか。
 まただ。カインは密かに自嘲した。以前の自分はこんなに自分に都合の良い、楽観的なものの考え方をする人間ではなかった。主が配下に気遣うなど、あるはずもない。

「最後のほうにおかしなところがありました」
 ゴルベーザは、ほう、とわずかに頷いた。
「落丁かと思いましたがそうではなく、でも、少し繋がりが悪いというか……」
 よく気付いたな、とゴルベーザはカインの頬を右手の甲で軽く撫でた。革手袋の感触は硬くひやりと冷たかったが、こんな状況なのに誉められたことがうれしくて、カインは頬を上気させた。
「あれは、当時噂になっていたさらに上級の竜騎士について書かれていたようだ」
「上級? そんなものが……」
「所詮創作なのだから真偽は構わんと思うが、著者自ら削除したようだな。混乱を招くと思ったのだろう」
 別の著書にそう書かれていた、とゴルベーザは付け加えた。
「そうだったのですか」
 読書中の疑問が氷解し、薄い霧が晴れたような清々しさにカインは微かに笑った。

 主に協力し、自ら肩を浮かせ頭を浮かせ甲冑を脱ぎ落としながら、緊張で強張る身体を解そうと、目を伏せ大きく息を吸いゆっくりと吐き出す。
「目指してみるか、それを。なりたいか」
 カインは驚きで目を見張った。さらに上級の竜騎士。主がそう言うからにはあながち創作ではないのかもしれない。なれるものならなりたい。だが。
「ですが、どうやって……」
「知らぬ」
 主の応えに拍子抜けして、思わずくすりと笑いが漏れた。既に彼を万能の主と心服していたため、彼にも知らないことがあるのだという驚きとそれを何の衒(てら)いもなく告げる鷹揚さを好ましく思い漏れた笑いだったが、主に対して取るべき態度ではないと恐縮し、カインは慌てて口を引き結んだ。
 カインの無礼に気を悪くした様子もなく、ゴルベーザも微かな笑いを漏らした。
「おもしろい奴だ」
「え」
 カインはわずかに眉を寄せた。これまで自分を評して「おもしろい」など言われたことはない。そんな人間だと思ったこともない。

 喉の奥でくぐもった笑いを漏らしながら、ゴルベーザはカインのアンダースーツの下衣を引き下ろし、露わになったものに手を伸ばした。長い指が絡みつき大きな掌に包まれ、カインの顎が上がり短い声が漏れる。唇を噛み締め、温度のない無機質な感触に顔をしかめる。
 自分は無防備に下半身を晒しているというのに、主は兜はおろか手袋も外さない。素肌が触れ合うことを阻む一枚の薄い革。主従の隔たりは自分が思う以上に大きいのだとカインは眉を曇らせる。
「て、手袋が……」
「先ほど換えたところだ」
「……」
 眉を寄せ口を小さく開けたまま無言で説明を求めるカインに、ゴルベーザは、手を洗うが如く手袋を換える、と告げた。カインは屑入れに捨てられていた大量の手袋を思い出した。こういった行為に及ぶときでさえそれを外さないということは、彼の手は見るに耐えない姿形をしているのかもしれない。それが手だけでないとしたら、彼が醜悪な人外だとしたら、この畏敬の念も霧散してしまうのだろうか。
「気に入らんか」
 また心を見透かされたような主の言葉にカインは頬を紅潮させ、ぶるぶると首を横に振った。
「な、慣れます」
 その言葉を裏付けるように、カインは目を閉じゆっくりと息を吐きながら自ら脚を広げた。








2010/07/29

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