「白い闇」とはよく言ったもので、目に入るものが何もない眩い世界は暗闇と同じく、もしくはそれ以上に不安を掻き立てる。足許には膝の高さまで薄い煙が立ちこめ、地面を踏む感触もほとんどない。力を抜けば、そのままふわふわと浮かび上がりそうなくらい身体が軽い。
ここはどこだ。俺は何をしているんだ。
ふと気づけば、視線の先に人影が見えてきた。どんな奴だろうが構わない。とにかく話がしたい。俺は人に出会えたことに安堵の息を吐き、その影に近づいていった。
影が形を成し、色が浮かんでくる。よく見知った赤いマントに、俺は驚きの声を上げた。
「ルビカンテ!」
火を司る四天王の一人は、俺の姿を認め、わずかに微笑んだ。
「あんた、死んだんじゃあなかったのか」
どういうことだ。彼は確かに俺たちが倒した。その彼に会うということは、俺は死んでしまったのか。
面食らっている俺に、彼は、ふ、と息を漏らした。
「ああ。確かにおまえたちにやられ死んだが、何故かここに留められている」
「ここはどこなんだ」
「私も死ぬのは初めてなので、よくわからないのだが――」
相変わらず生真面目な彼に俺は思わず笑ってしまったが、この奇妙な再会に違和感を憶え、顔をしかめて息を呑み込んだ。彼は以前と変わらない様子で接してくる。俺たちを恨んでいないのか。俺を憎んでいないのか。
「おそらく――」
「ルビカンテ」
俺は自分の衝動を抑えきれず、彼の話の腰を折ってしまった。彼が唇を歪め訝しげに俺を見下ろす。
「……何だ」
「俺を……俺たちを恨んでいないのか」
いや、と彼は静かに首を横に振った。
「私の力がおまえたちに及ばなかっただけのことだ。いま心は安らかだ。あの王子の成長も見届けることもできた」
「……あれか。気がかりだったんだな」
「べ、別に……」
口篭り顔を逸らした彼の様子で、俺は自分の発言に確信を得た。
新しく仲間になったエブラーナの王子。ルビカンテの率いる隊に国を滅ぼされ、両親を目前で失ったが、悲しみを怒りに代え、彼を仇とし見事復讐を遂げた。その王子を気にかけるところが彼らしい。彼の不在の間にあの博士が勝手にやったこととはいえ、責任を感じていたのだろう。そんな魔物らしからぬ彼の律儀さと紳士的な振る舞いを、俺はかつて好ましく思っていた。礼儀を重んじ、俺のことも何かと気にかけてくれた。彼が魔物でなかったら、お互いがこんな立場でなかったら、良き友人になれたかも知れない。
……何をいまさら。詮無いことを。
俺は彼に気付かれぬよう、口を閉じ、ため息の代わりに鼻から息を吐き出した。
「すまん。続けてくれ」
彼は無言で頷いた。
まだまだ訊きたいことがある。勝手気ままな俺に、彼は苦笑いを浮かべ付き合ってくれる。死んだいまもそれは変わらないようだ。
「声が聞こえたのだ。しゃがれた声でよく聞き取れなかったが『しばし待て』と。おまえたちが地上で魔物の殺戮を繰り返しているから、黄泉の門がつかえているのだろう」
「……人聞きの悪いことを言うな」
言いながら俺は、自分の声が震えているのがわかった。片手で口許を覆い目を伏せる。
正義の名の許に俺たちが振りかざす剣は血に塗れている。相容れないものを排斥することが正義なのか。
迷うな。
俺は自分を叱咤する。
信じられるものは己だけだ。俺は正義のために戦っているんじゃあない。友のために、己の誇りのために戦っているのだ。
自分の両の掌をじっと見る。
こうしていつも自分を奮い立たせているのは、戦いにまるで現実感が無いからだ。身体が憶えているままに跳躍し、槍を突き立てる。気がつくと目の前に魔物の屍が転がっている。勝利に沸く仲間の歓声もどこか遠くに聞こえる。
気分は悪くない。体調もいい。なのにこの違和感がいつまでも付き纏う。
大きく吸った息を胸のつかえとともに吐き出し、俺は最大の気がかりを問いかけた。
「俺も死んだのか」
「いや、生きている。いまおまえの身体は眠っている。つまりこれはおまえの見ている夢なのだ」
「夢だと? これが夢なら、あんたはわざわざ俺の夢の中に現れたのか。何故」
「おまえにとっては夢だが、私にとっては違う」
「え」
「夢は無意識の精神世界だ。そのおまえの世界と、私のいるこの世界が偶然重なった層がここだ」
「……よくわからん」
「おまえにはどう見えている。この世界は」
「どうって、周りは真っ白で何もない。煙みたいなもので地面は見えない。身体が軽くて浮き上がりそうだ。あんたは違うのか」
「ああ。どこまでも続く緑の草原だ。花も咲いている。姿は見えないが鳥のさえずりも聞こえる」
「そうなのか……」
俺はまだ首を傾げていたが、自分が死んでいないこと、話を聞く限り、彼のいる世界がそれほど酷いところではないことに安堵し、それ以上あまり深く考えないようにした。
「他の三人もこの世界にいる。運が良ければ会えるだろう」
「運が悪い、の間違いだろ……」
会いたいような、会えば気まずいような。俺は肩をすくめた。
「で、その偶然とやらを、あんたが望んだんじゃないのか」
俺の言葉にルビカンテは黙り込んだ。図星か。
彼は指で唇を擦り、言いにくいことを言おうとしているように、何度も小さく頷いた。
「……おかげでずっと伝えたかったことが言える」
「何だ」
「あの方を頼む」
「え……な、何を言ってる」
彼の唐突な言葉に俺は心底驚き、うろたえた。彼が「あの方」と呼ぶのは一人しかいない。
「い、意味がわからん。俺はもう正気を取り戻した。あんたは敵だ。だから倒した。こうして話しているのは、あんたがもう死んでいるからで、死者に鞭打つことはしたくないからだ。だ、だから、あ、あ……や、奴は俺たちの敵で倒すべき相手で――」
突然、轟音とともに見えない地面が揺れた。何もないはずなのに、見えない白い壁は氷が溶けるように雫を垂らし、白い天は渦を巻く。
俺は足を踏ん張り身体のバランスを保とうと背を丸め、膝に手を置いて体を支えた。
「どうした」
平然と突っ立ったまま問いかけてくる彼に向かって、俺は声を荒げた。
「どうした、ってあんたは平気なのか? 地震か? すごく揺れている。それにこの音」
「それはおまえの世界に起こっていることだ」
「ルビカンテ! あんた、透けてるぞ! 消えるのか? もう逝くのか?」
「違う。おまえが夢から覚めるのだ」
「夢が……」
そうか。彼が消えるのではなく俺の夢の世界が消えようとしているのか。目覚めたら俺はこの夢を憶えているのだろうか。目覚めるといつも忘れている夢は、こんな夢なのだろうか。
強い揺れに立っていることができず膝を付こうとした俺をルビカンテが抱き止める。俺が躊躇うことなく彼の背中に腕を回すと、彼も俺の背中に腕を回し抱き締めてきた。人肌より温かな広い背中に俺は、彼が本当に死んでいるのか、再び信じ難い思いに駆られた。
「何故触れられるんだ。体温も。あんたは死んで別々の世界にいるのに」
「実際に触れているわけではない。おまえの頭と身体が憶えているイメージを感じているに過ぎない」
「……あんたもか」
「いつだったか、おまえを抱き締めたとき。忘れるはずがない」
「……ああ」
あれは、俺がこの上ないくらい落ち込んでいたときだ。俺は唇をぎゅっと噛み締め、それ以上思い出さないように頭を振って記憶を追い出そうとした。
ルビカンテが口を開く。
「こんな偶然はもうないだろう」
「ああ」
「だが、また会える。何故か確信がある」
それは俺が本当に死んだときじゃあないのか。
そう口に出すと、ルビカンテは「そうかもしれん」と苦笑いを浮かべ、俺の背中に回していた手を俺の両肩に置いた。
「おまえだけが……」
轟音に紛れた彼の小さな声は聞き取りづらく、俺は声を張り上げた。
「何! 俺が、何だ?」
「……くれぐれも、頼む」
彼の姿はほとんど消えかかり、肩に置かれた彼の手の重みもなくなっていく。
「ルビカンテ! 何故そんなことを言うんだ! 教えてくれ!」
「達者でな」
「ルビカンテ!」
支えを失った俺は、見えない亀裂に足を取られ見えない瓦礫と共に崩れ落ちていった。
声を上げて飛び起きたカインに、エッジも驚きの声を上げ跳ね起きた。
「な、なんだよ! てめー! 寝ぼけてんのか!」
「……」
「カイン。大丈夫か」
「……ああ」
セシルは洋燈に火を点し、カインのベッドに寄った。慣れた手つきでカインの額に浮いた汗を用意していたタオルで拭い、水の入ったコップを手渡す。
「またか?」
「……らしい」
コップの水をすべて飲み干して、カインは大きなため息をついた。
「何なんだ、おまえら」
セシルの流れるような一連の動きを見て、エッジが呆れたように尋ねる。すまん、とセシルはエッジに笑顔を向けた。
「カインはしょっちゅう悪い夢を見てうなされるんだ。目覚めたら内容は憶えていないから、余計に夢見が悪いらしい」
な、とセシルが同意を求めてきたので、カインは無言で頷いた。
額の奥が痛む。頭の中は霧がかかったようにはっきりとしない。喉の渇きは癒えない。夢の中で何か叫んでいたような気がするが、やはり思い出せない。
「憶えてないんじゃあ、夢見占いもできねえな」
「……」
無言のカインに代わってセシルが、ああ、とエッジに応えた。
「絞ってこようか」
「……頼む」
「おまえ、保護者みたいだな」
そんなんじゃないよ、とセシルは苦笑いを浮かべながらタオルを手にバスルームへと向かった。
カインはぼんやりとベッドの上で膝を抱えていたが、大きな息を吐き、膝の上で腕を組み左のこめかみを乗せた。小さな洋燈がオレンジ色の明かりを灯す中、顔にかかる前髪の隙間から、新しく仲間になったエッジの横顔を覗き見る。彼の何かが気にかかる。それが忘れてしまった夢を思い出す糸口になるような気がして、彼から連想する言葉を頭の中で挙げていった。
忍術、エブラーナ、洞窟、バブイルの塔……
カインの視線に気づいたエッジが軽口を叩く。
「何だ。異国の男前に惚れたか」
カインは、ふ、と笑いを漏らし、頭をもたげた。
「エブラーナ皇太子殿下」
「『エッジ』でいい」
「もし、奴の……ルビカンテの家族、部下、何でもいい。それがおまえを恨んで襲ってきたらどうする」
何故そんなことを訊いたのか。自分の口から出た言葉にカイン自身が驚き、目を見張り眉を寄せた。エッジには、さぞかし訝しく思われたに違いない。
「一足飛びに『おまえ』か」
カインの懸念をよそにエッジはけらけらと笑い、ベッドの上で胡坐を組み直した。
「そいつらに恨みはねえが、そりゃあ、倒さなきゃならねえだろうな。やられる前に」
「もし、おまえがやられたら……」
「親はもういねえが、故郷(くに)の奴らが黙っちゃいねえな、ってさっきから何当たり前のこと訊いてんだよ」
「……そうだな。すまん」
カインはエッジに背中を向け、ベッドに潜り込んだ。
「あ、てめえ! 言いっ放しか!」
「眠るから、静かにしてくれ」
「く……」
冷たい水で絞ったタオルを手に戻ってきたセシルは、カインがベッドに横になっているのを一瞥すると、ナイトテーブルの上にそっとタオルを置いた。
エッジは胡座を組んだ身体を前後に揺すりながら意地悪く笑い、からかうようにセシルを見上げた。
「おまえ、甘過ぎないか」
「そんなことない。彼が心配なだけだ」
「……寝るぞ!」
エッジはベッドに潜り込みシーツを被り、セシルも、おやすみ、と灯りを吹き消し床に就いた。
二人の寝息が聞こえてきたことを確認し、しばらくしてからカインは静かに身体を起こした。
少し俯き、右の掌を二の腕から上に滑らせ左肩に這わせる。肩が熱い。襟を引っ張り素肌に直に触れてみたが、熱を持つような傷は無かった。筋肉の疲労だろうか。腕を伸ばし、セシルが絞ってくれたタオルを取り肩に当てる。その心地良さに一息ついて、カインは目を閉じた。
瞼の裏に紅蓮の炎が映し出される。
きっと夢の中で、己の罪を浄化するために煉獄の業火に身を焼かれたのだろうととりとめもなく思い、暗闇で一人、苦笑いを浮かべた。
2009/08/24