想像していたとおりの話の展開にうんざりしたカインは、盛り上がる仲間たちを尻目に、誰にも気づかれないようそっと部屋を出た。
「カイン!」
人目につかないように退室したつもりなのに、彼には見られていたようだ。耳によく馴染んだ声にカインは気づかないふりをして、すたすたと廊下を歩き自分の部屋を目指した。
「カイン!」
息を弾ませ駆け寄ってくる気配に、カインは観念して振り返った。幼なじみのセシルが、眉を寄せて近づいてくる。
「どうしたんだ。なんで黙って出て行くんだよ」
「どうもこうも、退屈しただけだ」
わずかに口を尖らせるセシルを見下ろして、カインは嘆息した。
夕食後、同期の仲間の一人が「重大発表がある」と皆を談話室に集めて始めた話の内容は、彼の「童貞喪失秘話」だった。思春期も盛りの誰しもが興味津々に彼の熱弁に耳を傾ける中、カインはひとり、いちばん後方から冷めた目で皆を眺めていたが、頃合を見計らって退室したのだった。
「じゃあ、僕も」
「……退屈したのか」
「そういうわけじゃないけど、何か違うと思ったから」
セシルの言葉にカインはにやりと微笑んだ。
「だろう。俺もだ」
二人は並んで廊下を歩き、自室へ戻った。
「だいたい、娼婦相手の話が、そんな威張れることじゃないだろ」
自分のベッドに腰掛けていたカインは、どさりと仰向けに倒れこみ言葉を続ける。
「わかる」
「そこに至る過程が重要なわけで、金で済む話に興味は無いな」
「わかる」
「実際の行為の話にしたって、本に書いてあることとたいして変わりなかったしな」
「わかる」
「おまえ、ちゃんと聴いてるか」
同じ相槌しか打たないセシルに、カインは少し苛立った声を出し、身体を起こした。
「聴いてるよ」
振り返りもせず答えたセシルは、机に向かってなにやら書き物をしていた。
「なんだ。手紙、書いていたのか」
「聴きながらでも書けるから、続けてくれ」
どっちにも失礼じゃないか、とカインは立ち上がり、セシルに寄って行った。彼の背後から手紙を覗き込む。セシルは筆まめで、よく手紙を書いている。相手は幼なじみのローザ、親代わりの国王陛下、何かと世話を焼いてくれた飛空艇技士シドなど。私信を見られることにまるで抵抗の無いらしい彼は、後ろからカインが覗いていても、構わず、せっせとペンを動かしている。
伸びやかでおおらかだが決して巧いとはいえない字面を追いながら、カインは、それがローザに向けられたものであることを読み取った。自分への、顔から火が出そうな大仰な賛辞の言葉を見つけ、面映さに顔をしかめたカインだったが、それを口に出すことはしない。セシル本人が許しているとはいえ、他人(ひと)の私信を覗き見るといううしろめたさは拭いきれない。そこでカインは、手紙の内容については一切言及しないという態度を貫いていた。
だが、いままさにセシルが綴ろうとしている一文を見て、カインは自分で設けたルールを破らざるを得なかった。
「おい」
「ん?」
「それはまずいだろ」
セシルはペンを止め、え、と目を丸くしてカインを仰ぎ見た。
「そんなこと書かなくてもいいだろう」
初めて手紙の内容に文句をつけられ戸惑っているのだろう。セシルは、わけがわからないといったように、きょとんと首を傾げている。
カインは嘆息して、ほっそりとした指でセシルの書いた文字を指し示した。
「女は、『娼』の字を見るだけで気分がよくないもんだ」
これか、とセシルは手紙に視線を戻した。納得してくれたかと思えばそうではなく、なんで、と尋ねてくる。
「だって、喜んで聴いていたわけじゃないし、『退屈な話だった』って書いたから、別にいいだろ」
「男だけがおもしろい馬鹿話だ。何でもかんでも書いて知らせりゃいいってもんじゃないだろ」
「何でもかんでも書いてないことは、おまえも知ってるじゃないか」
口を尖らせるセシルに、カインは意地悪く笑った。
「そういえばそうか。パブの踊子の衣装がきわどくて昂奮したって話は書かなかったな」
「あ、あ、あれは、おまえも言ってただろっ!」
セシルは振り向きざま、握った拳をカインに振った。もちろん本気ではない。セシルが繰り出すお遊びの連打を易々と掌で受け止めながら、カインはベッドまで後ずさった。
「わかった、わかった」
笑いながらセシルのパンチをいなしていたカインだったが、背後のベッドまでの距離は頭に入っていたはずなのに、そこにあるはずのないものに足を取られ、ベッドに仰向けに倒れこんだ。セシルもそれに躓き倒れこんだ瞬間、思わぬ肘打ちがカインの腹に入った。
「おまえ、こんなところに荷物置くな!」
腹を押さえ咳き込みながら、カインは声を荒げた。
ごめんごめん、とさほど気持ちの入っていない謝罪の言葉を口にして、セシルはカインの身体に圧し掛かったまま、カインの腹を撫でた。
「カイン」
「ん?」
「やっぱり書かない方がいいか」
「当然だ」
女心がわかってないな、と付け足すと、セシルはむっと口を尖らせた。
「わかってるかのような口ぶりだな」
「おまえよりは、な」
セシルの膨れっ面が眉尻を下げた情けないものに変わった。てっきり怒ると思ったのに、セシルは口の中で、あー、えーと意味の無い呻きを上げるばかりで、彼がきちんと言葉を紡ぐのを、カインは辛抱強く待った。
「あの……さあ、も、もしかしてさ、おまえ……そ、その……」
「なんだよ」
「……け、け経験済みなのか」
「……」
思わず噴出しそうになったが、真顔で尋ねてくるセシルの目は真剣そのもので、どう答えたものか逡巡した。こうして沈黙を続けることがセシルを焦らせることを充分わかった上で、自分でも意地が悪いと思ったが、カインは、不安げに自分を真っ直ぐ見下ろしているセシルから顔を逸らし視線を外した。
それを肯定の意に取ったセシルが大きな声を上げた。
「ええ! いつ! いつ? いつの間に! だだ、だ誰と!?」
何で教えてくれなかったんだ、とカインの両肩を掴んでぐらんぐらんと揺らすセシルに、カインは耐え切れず噴出し、声を上げて笑った。
「おまえ、やっぱり俺の話、聴いてなかったな」
え、とカインの肩を揺らす手を止めて、セシルは小首を傾げた。
カインはひとつ大きな息を吐いてにやりと微笑んだ。
「俺はさっき『本にあることと変わりない』って言っただろ。実体験のある奴が本を引き合いに出すか」
「……言ってたっけ」
首を傾げたセシルだったが、やがて破顔して、よかった、とカインの首に抱きついた。
「何がよかったんだよ」
ひとの話を聴け、とカインはセシルの背中に腕を回し、ぎゅっと力をこめて揺さぶった。
「重い。退け」
「嫌だ。僕をからかっただろう」
セシルはカインの胸に頭を乗せて首を振った。
「セシル」
「ん?」
カインはにやにやと笑いながら自分の片膝を上げて、セシルの股間を擦り上げた。
「思い出して昂奮したのか。半勃ちだぞ」
「ち、違う! してない!」
おまえだって、とセシルが腕を伸ばしてきたので、それを避けるため身体を反転させ俯いたが、セシルの手の動きの方が速く、股間をぎゅっと握られた。やめろ、とげらげらと笑いながら、ぐっと腰をマットに押し付けセシルの手を挟み込んで動きを止めようとしたが、セシルも負けじと手を動かす。
「ほら、おまえだって半勃ちじゃないか」
「ばか! 触ったら反応するのは当たり前だ! 俺は膝を当てただけだろ!」
「あー、これは勃つ、勃つ。完全に」
セシルが楽しそうに意地悪く言うので、カインはわざと情けない声で根を上げた。
「わかった。わかったから、降参だ。参りました」
カインの言葉に気を良くしたセシルが手の動きを緩めたところで、カインはすかさず身体を起こし低い体勢のままセシルの腰に組み付いて、彼の股間を掴んだ。
「甘い!」
「ずるい!」
負けず嫌い同士「降参」の声を上げさせようと相手のものをまさぐることに夢中になっていたが、自分以外の者に初めて触れらているという事実にふと気付き、羞恥とともに身体がぞくっと熱を持つのを感じた。それはセシルも同じだったらしく、これまで聞いたことのない熱っぽい声で尋ねてきた。
「このまま触り合い、する?」
お互い、自分のいつもの手の動きとは違う新鮮な刺激に身を任せてしまいたい気持ちはあったけれど、カインは首を横に振った。
「……やめておこう。癖になったら困るだろ」
それもそうか、とセシルがあっさり引き下がったので、カインは拍子抜けして手を離した。
「どうする、これ」
「数式でも思い浮かべれば、収まるだろう」
「僕は数式より、こっちだな」
セシルがいきなりカインの片腕を取り両足で挟み込んできたので、カインもそれを回避するべく身体を丸め、両足でセシルの首を挟んで引き倒した。
「なあ、カイン」
上になったり下になったり、ベッドの上でごろごろと体術もどきに技を掛け合っていた二人だったが、息も切れてきたところでセシルが呼びかけてきた。
「ん?」
セシルが身体をずり上げ、うつ伏せたカインの肩に、とん、と顎を乗せてきた。
「僕たち、いつまでこうしていられるかな……」
「卒業するまでだろ」
「そういう意味じゃなくて!」
セシルが耳許で大きな声を上げたので、カインは顔をしかめ、わかってるって、と頭を反らせた。
「楽しいと楽しいだけ余計切なくなるというか……」
「わかる」
「これも、子どもっぽい感傷かな」
「わかる」
「ちゃんと聴いてるのか」
同じ相槌しか打たないカインに、セシルは苛立った声を上げて、カインのわき腹に手を伸ばしくすぐり始めた。
意趣返しのつもりはなかったのにさきほどに似たやりとりになって、カインは密かに苦笑いを浮かべた。いまこそが少年時代の終焉のかけがえのない瞬間(とき)なのだと同意してしんみりするのも面倒だったので、セシルのくすぐりの攻撃に身を捩りながら、カインは、ただ「やめろ」と笑い声を上げ続けた。
2008/10/26