カイン父についての記述で、原作と大いに異なるところがあります。原作至上主義の方はご注意ください。そのままさらーっと流してくだされば幸甚です。
カインがシャワーを浴びている間、僕はそわそわと落ち着かない。まだかまだかと待ちわびていると、かちゃりとバスルームの扉が開く音がして、ようやくバスローブを羽織った彼が、タオルで頭をゴシゴシと拭きながらやってきた。僕はベッドからいそいそと立ち上がって、彼に寄って行く。
「髪、梳くよ」
「自分でするから、いい」
「やらせろって」
いつもと同じやりとりの後、カインはやれやれとわざとらしいため息をついて、僕に目の粗い櫛を手渡した。窓を少し開けて風を入れ、椅子を窓辺に置いて、さあどうぞ、と理髪師がするように彼を座らせる。
椅子に座った彼の頭を、後ろからゴシゴシと――本当は強く擦ってはいけないらしい――タオルで水分をよく拭き取って、毛先のもつれから櫛を入れていく。
何故か僕は、前世は理髪師だったんじゃないかと思うくらい、この作業が大好きで、特にカインの長い髪は遣り甲斐があるから、いつも鼻歌交じりにうきうきと手を動かす。
彼の髪は、明る過ぎず暗過ぎず、見事なまでの金色で、癖もなく、重力に素直に従ってすとんと真下に落ちている。僕がその真っ直ぐな髪を羨むと、顔にかかってうっとうしい、と嫌そうな顔をするくせに、決して切ろうとはしない。
「伸びたな」
「ああ」
「腰まで、あと一年くらいだな」
「そんなもんかな」
「ほんと、よく似てるよ」
「女顔ってのも、なあ……」
彼は顔をしかめて、顎に手をあてた。
彼が髪を伸ばすのには理由があった。彼が幼いころに亡くなった母親が、やはり腰まで伸びた見事な金髪の持ち主だったのだ。
僕も憶えている。僕の記憶の中の彼の母は、はかなげな美しい女性で、カインにとてもよく似ていた。実際身体が弱かったらしく、床に臥すことが多かったそうだ。それでも体調の良い日には、窓辺の椅子に腰掛けて刺繍をしながら、庭で遊ぶ僕たちを見守ってくれていた。
遊び疲れて館に戻ると、侍女に、お静かになさいませ、と叱られたけれど、彼の母は、いいのよ、とやさしく微笑んでくれた。
起きてていいの!? とカインは母親の胸に飛び込んだが、母子はすぐに身体を離し彼女は、大丈夫よ、と答えた。あのころはそれが不思議だったけれど、今ならわかる。そんな小さなころからカインは、孤児の僕に配慮してくれていたのだ。
カインは家族の話をほとんどしない。僕を気遣ってくれているのだろうけれど、当の僕と言えば、家族の存在が不思議で実感できなくて、好奇心いっぱいにいろいろ尋ねることもあった。
乾き始めた彼の髪を一束、手にとってみた。きらきらと輝きを取り戻した髪は、するすると指から逃げていく。
何故彼が母と同じように腰まで髪を伸ばそうと思ったのかはわからない。好奇心いっぱいの僕でもそこまで踏み入るのはなんだか無粋なような気がして、理由を訊かなかった。
家族といえば、彼の父親、竜騎士団団長リチャード・ハイウィンド。日に日に亡き妻に似てくる息子が、同じように髪を長く伸ばしているのをどう思っているのだろうか。
「ハイウィンド団長は、何か言う? 髪、伸ばすの」
「……この前帰ったとき、寝惚けた親父に抱きつかれた」
「えええっ! あの団長がっ!」
素っ頓狂な驚きの声を上げた僕に、そんなわけないだろう、とカインは声を上げて笑い出した。僕は、からかわれたとわかって憮然とし、彼の髪を後ろに軽く引っ張った。彼は仰のいたまま、俺はおまえが心配だよ、と笑顔を向けた。
「若く死ぬといいよな」
「何で?」
「記憶の中でいつまでも若くきれいなままなんだぜ。俺が四十を過ぎようが、俺の中のおふくろはずっと二十代のままなんだ」
「でも『いい』とは思わないな」
「ま、そうだけど」
カインは頭を元の位置に戻し、首を振って髪を後ろに流した。
さらさら、さらさら。
窓の外を見つめていたあのひとの金色の長い髪。
僕はぽつりと呟いた。
「会いたいか?」
消え入りそうだった僕の声をカインは耳聡く聞きつけて僕に向き直り、小首を傾げたが、やがてゆっくりと頷いた。
「……会いたい……すごく」
どこか悲しげな笑みを浮かべ、瞬きもせず見つめてくる彼の視線で僕は気づいた。
今の言葉は僕が僕自身に問いかけたもので、カインの答えは僕の答えだ。
やっぱりカインには見透かされてしまう。
温もりさえ知らぬ母を思慕して流す涙なんて子どもの頃にとっくに枯れてしまったと思っていたのに、なぜかその夜は、はらはらと涙が止まらなくて俯いてしまった僕の頭を、銀色の髪を、カインはそっと撫でてくれた。
2008/04/27