頼りなく若い日々

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5

「何読んでるんだ?」
 セシルは、就寝前のひととき、いつものように窓辺に置いた椅子に腰掛け本を読んでいるカインの傍らに寄り、身を屈めて背表紙を覗き込んだ。
 セシルが表題を読み取れるように、カインは手にしていた厚い本を自らの顔に引き寄せる。そこに見た文字に、セシルは思わず驚きの声を上げた。
「え! 魔道書? また、何で? いまさら魔法を憶えるのか? 魔道士に転向するのか? そんなことできるのか?」
 矢継ぎ早に問いかけられ、カインはため息混じりに苦笑する。
「質問は一つずつにしてくれ」
「つい……」
 セシルも苦笑いを浮かべ、照れ隠しに、額にかかる髪をかき上げる。カインは、いいさ、と自分も長い髪をかき上げ後ろに流した。
「魔法を使う敵と戦うこともあるだろ。知っておかないとな」
「それはわかるけど、魔法の基本科目はもう履修したじゃないか」
「ああ。だから、さらに詳しいやつだ。ほら」
 カインは重心を後ろへ傾けていた椅子を元の位置に戻し、膝の上で本を広げ挿絵を指差した。
「ほら、これ」
「リヴァイアサン?」
 海を統べるものとして崇められ畏れられている海竜が何故魔道書に載っているのだろうか。セシルは首を捻りながらカインの返答を待った。 
「ああ。こいつも魔法になるらしいんだ。つまり――」
「あ! 召喚魔法か!」
「そうだ。こいつだけじゃない。他にも強力な幻獣を召喚魔法で呼び出せるらしい」
「でも、ミストの召喚士と戦うことになんてならないだろ。味方になりこそすれ」
「召喚魔法を使えるのが召喚士だけとは限らないだろ」
 カインの言葉にセシルは眉をしかめ、さらに首を傾げた。
 魔物が別の魔物を召喚するということだろうか。それもなんだか変だ。
 召喚士の血筋はミストの村にだけ伝えられるが、いまはその数も減り、セシルもカインも召喚魔法を実際に目にしたことはないので、それに対する疑問は深まるばかりだ。リヴァイアサンまでをも召喚し使役する召喚士とはどんな人々なのだろうか。自分たちが知らないだけで、ミストの村以外にも召喚士がいるのだろうか。それともカインが言うように、召喚士でなくとも召喚魔法を使える者がいるのだろうか。
 まだ見ぬ召喚士に思いを馳せるセシルをよそに、カインは淡々と話を続ける。
「この魔法を憶えるのに遺伝が関係あるとしてだな――」
「ミストの村人の祖先は召喚獣、幻獣そのものだったとか」
 カインの言葉を遮って密かな持論を展開したセシルに、カインは少し驚いたように、本から視線を外し顔を上げた。
「それはないだろう。おもしろい考えだが」
「つまり、幻獣と人間が結ばれて、その子孫がミストの――」
「おとぎ話だな」
 自説を鼻であしらわれ、セシルは口を尖らせ語気を強める。
「そんなことわからないぞ。魔物のなかには変化するものや人型に近いものもいるんだし」
「万が一恋に落ちたとして、やることやったとして、子どもはできないだろ。普通に考えて」
 首を横に振り大げさに肩をすくめるカインに、セシルはなおも食い下がる。
「魔物の血は濃いだろ? 濃そうじゃないか、なんとなく。だから、ひとたびその血が混じれば、子孫はその後はずっと人間同士の子でも、一見普通の人間でも、魔力は凄まじくて魔物の言葉も理解できて――」
「わかった」
 カインは真摯な顔つきでセシルを見上げた。理解されたよろこびにセシルは顔を綻ばせ、ありえるだろ、と少し屈み込んでカインの肩に両手を置き、彼と目を合わせた。カインは大きく頷くと、唇の片端を上げ意地悪く微笑んだ。
「わかった。おまえが雌の魔物に勃つということはわかった」
「そ、そんなこと言ってないだろ!」
 せっかくの熱弁をからかわれ、セシルは顔を赤くして、カインの肩を強く揺さぶった。
「ちゃんと聞けよ!」
「わかった。わかったから」
 カインが笑顔のまま宥めるように手を重ねてきたので、セシルは落ち着くために大きな息を一つ吐き、咳払いをして「では」と勿体をつけた。
「遺伝なら、ずっと遡ってミストに出自を持つ召喚士が他の場所にもいるかもしれない」
「聞いたことないな。余所の地で召喚士なんて」
「もしかしたら僕だって、ミストの村の子かもしれない」
 人差し指を振って詠唱の真似事をしてみせるセシルを、カインが冷ややかに見つめる。
「……そんな兆し、まったくないだろ」
「これからだよ。これから」
 カインの視線を物ともせず、セシルは胸の前で両の手首を合わせて掌を開き腰に引きつけ、より強大な魔法を繰り出す構えを真似た。
「おまえがやると、魔法というより――」
「何だよ」
「そんなことよりこれ、見ろよ」
 カインは膝の上の本に視線を戻しページを繰った。そんなこと、とカインの物言いにセシルはまた機嫌を損ねたが、俯いた彼には自分の膨れっ面も目に入っていないだろうからと気を取り直し、彼の肩越しに身を乗り出した。
「これが大昔、目撃されたやつ」
「何だ……蛇?」
 カインが開いたページには、とぐろを巻いた巨大な蛇のような黒い魔物が描かれていた。
「読んでみろ、ここ」
 彼が指差した箇所をセシルは音読し始める。
「『突如現れた黒い魔物が咆哮を轟かせたかと思うと、瞬きする間もなく、小隊は全滅してしまった』……一撃必殺か」
「たぶんな」
「『突如現れた』ってことは、これも召喚獣か?」
「さあ……」
「でも記述がこれだけじゃあ、伝説伝承の域を出ないな」
「ああ」
「何だよ、気の無い。おまえが『見ろ』って言ったくせに」
「……」
 黙りこんだカインの視線の先の絵を、セシルも再び見つめた。


「カイン……」
「ん?」
「……何でもない」
「何だよ」
 禍々しい黒い魔物の絵から何故か目が離せない。それをカインに言おうか言うまいか、少し逡巡した後、セシルは結局口を閉ざした。
 遠い記憶の残滓か、あるいは何らかの予兆か。いずれにしても、自分が邪悪なものに惹きつけられていると認めることに抵抗がある。
 顔を背けたセシルの腕をカインが突付く。
「気になるんだろ」
 見透かされるような言葉を寄越され、セシルはびくりと背筋を伸ばしカインの顔を見下ろした。セシルの様子にカインはくっくとと笑いを漏らし、魔物の絵を指で弾く。
「隠さなくてもわかるぞ。俺もだ」
「なんだ、おまえもか……」
「何だろうな……鳥肌が立つような身震いするような、引き込まれるような……」
「ああ、そんな感じだ」
「こいつについてほとんど何もわかってないのに、な」
「ああ。運命的戦慄というか――」
「ばか。この先こんなのと運命的出会いがあってたまるか」
「『出会い』なんて言ってないだろ! ばかって言うな!」
 セシルがカインの首を羽交い絞めにしようと腕を回すと、彼は椅子から滑り落ちるようにセシルの腕をすり抜けベッドへ向かって駆け出した。すかさずセシルは床を蹴って彼の背中に飛びつき、そのままベッドに二人して倒れこんだ。
 カインは「重い、退け」と文句を言いつつ腰にセシルをぶら下げたまま腹ばいで進み、枕に到達するとそれに顔を埋め大きな息をついた。セシルが腕の力を緩めると、カインは身体を反転させて仰向けになり、腰にしがみついているセシルの肩を軽く叩いた。

 カインの腹に額をつけたまま、セシルは嘆息した。
「僕、本当は、白魔法くらいは憶えたかったんだ」
「片手間で憶えられるもんじゃあないだろ」
「うん。でも、少しでもできると傷ついた仲間を癒せるだろ」
 おまえらしいな、とカインはセシルの頭を乱暴に撫で、銀の髪を指先にくるくると巻きつけた。
「俺は断然黒魔法だな。空中で錐揉みしながら槍にサンダガを乗せて穿つんだ。効きそうだろ」
「できても、おまえじゃあ、サンダーがせいぜいだろ」
「うるさい!」
 先ほどのお返しとばかりに首を羽交い絞めにしようとしたカインの腕からいち早く抜け出して、セシルは自分の机に寄り、椅子を引いた。
 カインは寝そべったまま頬杖をつき、セシルの背中に声をかける。
「寝ないのか」
「ん……手紙書いてから寝る」
「そうか。俺はもう寝る。椅子、戻しておいてくれ」
 背中を向けたカインが毛布を引き上げ肩越しにひらひらと手を振ったので、セシルは「おやすみ」と声をかけ彼の椅子を元の位置に戻し、部屋の明かりを小さな洋燈に移して机の上に置いた。


 取り出した便箋の片隅で、とりとめもなくペンを動かす。描いたものを改めて見直して、セシルは小さな声で呟いた。
「蛇というより虫だな……」
 自分の絵の拙さにくすくすと忍び笑いし、それをぐりぐりと乱暴に塗り潰した。
 カインのベッドの端に置かれた魔道書に目を向け、もう一度黒い魔物の絵を思い浮かべた。禍々しいからといって邪悪な忌むべきものとするのは早計かもしれない。あれは人々に畏怖を与えるための仮の姿で、本当は善良で慈しみ深い、召喚士を守護する幻獣かもしれない。

 おとぎ話だな。

 自分の願望にカインの口調を真似て自嘲の笑いを浮かべながら、セシルはもう一人の幼馴染に向けて今日一日の出来事を事細かに綴り始めた。








2010/07/08

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