空には雲ひとつ無く、日差しは真夏のように強い。じっとしていても汗ばむほどなのに、バルバリシアと戦闘さながらの一戦を交えた後では、ぴったりと着込んだ竜の甲冑の下でさらに汗が噴出す。一刻も早く汗を洗い流したかったが、この日はマグの姉妹たちも野次馬よろしく見物に訪れていて、勝負を終えたばかりのカインにやたらと話しかけてきた。カインといえば、早く解放してくれ、と言わんばかりに彼女らと目も合わせず、無言で槍の穂先を布で拭っていた。
女たちはカインの仕種が意味するところを知ってか知らずか、ぺちゃくちゃと喋り続けている。カインはそれらをほとんど聞き流し、時折振られる話に生返事を返しながら、退出のタイミングを計っていた。
「あ……」
「どうしたの、ラグ」
「いま、あそこに黒い影が見えた」
カイン、バルバリシア、ドグ、マグの四人は、ラグが指差したほうへと目を向けた。
「何もないじゃない」
「ゴルベーザ様かと思ったんだよ」
「一瞬でもそう思ったのなら、指を差すな」
カインにたしなめられ、ラグが頬を膨らませる。
「それに越したことは無いわね」
バルバリシアもカインに同意したので、ラグはぺこりと頭を下げ肩をすくめた。
カインは、確かめてこよう、とそれに乗じてその場を離れることに成功し、何食わぬ顔でそのままエレベーターに乗り込んだ。
自室のあるフロアに到着し降りようとしたところで、隣のエレベーターの扉が開いた。がやがやと聞こえる話し声に、カインは、このままエレベーターに戻り扉を閉めてしまおうかと逡巡したが、あいにく声の主たちに見つかってしまった。
「おお、カインちゃん。いまお戻りで」
カインは観念して、大きなため息をつき、彼らの前を無言で通り過ぎようとしたが、案の定、カイナッツオに腕をぐいと掴まれた。
あからさまなからかいには無視を決め込んでいるが、人の心を操ることにも長けている魔物だからか、気持ちを逆撫ですることが抜群に巧く、つい怒りを顕わにしてしまう。今日も相手の挑発に乗ってしまい、カインは目を吊り上げ憤怒に顔を赤くした。
突然、スカルミリョーネが素っ頓狂な声を上げた。
「あ……」
「どうしたよ」
「ん、いやあ、いまそこに黒い甲冑が見えたんで、ゴルベーザ様かな、って……」
ゴルベーザの名を聞き、カイナッツオは反射的にカインの腕を離した。
「お、脅かすな、おまえ。誰もいないじゃねえか」
「おっかしいな……」
「あーあ、なんかしらけちまった。行こうぜ」
二人が去ったあと、胸中で彼らに呪詛の言葉を繰り返しながらカインもスカルミリョーネが視線をくれた柱の影を確認したが、もちろんそこには誰もいなかった。
べたついた身体を洗い終え、カインは大急ぎで新しいスーツを着込み甲冑を装着した。長い髪は乾いていなかったので、致し方なく、そのまま一つに結わえ竜の兜を被った。
部屋の鍵をかけているところで、赤いマントを纏ったルビカンテと出くわした。
「来ていたのか」
「いま帰りだ。出かけるのか」
「偵察に行く。お供で」
「部屋にいらっしゃらなかったのだが……」
ルビカンテは首を傾げ顎に手をやった。主の部屋に向かおうとしていたカインも眉を寄せ、彼と同じように首を傾げた。
「出発までもう少し時間があるが、どうする」
カインの問いかけに応えず、ルビカンテはあらぬ一点を見つめていた。
「ルビカンテ」
「あ、ああ、すまん。いま、あそこに黒い影が見えたのだが、気のせいだったようだ」
まただ。これで今日、三度目だ。さすがにカインも気にかかり顔をしかめ、首をひねった。
「どうした」
「いや、なんでもない」
「そうか。私も出直すことにしよう」
二人は挨拶をして別れ、カインは階段へ、ルビカンテはエレベーターへ向かった。
主の部屋の扉をノックすると返答があった。失礼します、と戸口で一礼をしてカインは顔を上げた。ゴルベーザは大きな机の向こうの椅子に腰掛け、こちらに背を向けている。
「あと半時間ほどしたら準備が整います」
「もういい」
「は?」
「今日は、やめだ」
「……わかりました」
低い声は明らかに不機嫌な様子で、カインは戸惑った。下手なことは言えないが、機嫌取りをするのも得意ではない。さて、どうしたものか。
「……では、御用がありましたらお申し付けください」
「おまえはどうするのだ」
「え、そうですね……いつでも伺えるように――」
ゴルベーザは椅子を回してこちらに向き直った。
「上で続きをやるのか」
「え?」
「女たちに囲まれて、さぞかし楽しいことだろう」
はあ? 何なのだ、唐突に。ということは……
「やはりあの場にいらっしゃったのですか」
「いや、おまえは男と一緒でも楽しそうだったな」
「は?」
もしかして、カイナッツオとスカルミリョーネのことだろうか。あれが楽しそうに見えたのか。
「ルビカンテに至っては、いかにも信頼しているかのような親密さだったな」
いや、四天王のリーダー格なのだから信頼は必要でしょう。
などと面と向かって言えるはずもなく、カインは指で鼻先を擦るふりをして小さく嘆息した。
「私を監視していらっしゃったのですか」
「何を言うか。私の行く先々におまえがいただけだ」
「……」
何て言い訳だろう。才識豊な主らしくない。それが通用すると思っているのだろうか。
カインは呆れてまた嘆息しそうになったが、ぐっと堪え息を呑みこんだ。
「はっきり仰ってください。誰とも話すな、と命ぜられればそのとおり従いますから」
「そんな狭量なことが言えるか」
いまに始まったことではないが、何てわがままなんだ!
「では、どうすればよろしいのですか」
カインは自分の言葉が刺々しさを含んでいることに気づいていたが、理不尽なことを言われ、勢いを止められなかった。
「それくらい自分で考えろ」
自分に非があったとはとても思えない。カインは下唇を突き出し不満を顔にあらわにした。
「何が不服だ。言ってみろ」
「では、僭越ながら言わせていただきます。たかが雑談です。何もやましいことはありませんし、私に反省すべき点があったとも思えません」
「いい度胸だ」
「バルバリシアは露出狂だし、三姉妹はチビやらデブやらで問題外です。カイナッツオとスカルミリョーネは私をからかって遊んでいるだけで正直面倒くさいし、ルビカンテは親切な親戚のおじさんにしか思えません」
そこまで一気にまくし立て、カインは大きな息を吐いた。
「結構ひどいな、おまえ……」
「とにかく、これ以上申し上げても平行線のようですし、私、しばらく謹慎いたします」
「何だと。勝手を言うな」
「いいえ。いろいろと失礼を申し上げました。頭を冷してまいります」
カインはくるりと踵を返し扉の前で深々と頭を下げ、ゴルベーザの部屋をあとにした。
自室に戻り、兜と甲冑を外してカインはベッドに仰向けに転がり込んだ。
ちょっと言い過ぎたかな……いや、俺は悪くない。
カインは寝返りを打ち、枕を掴みうつ伏せになるとそのままうとうとと眠ってしまった。
遅めの夕食を済ませ食堂を出ようとしたところでカインは料理長に呼び止められた。
「ゴルベーザ様が食事をお残しになった。具合が悪いとか聞いているか」
え、とカインは口篭もり、いや、と首を横に振った。料理長も首を傾げ続けている。
「珍しいことなのか」
「珍しいどころか、俺が来てから初めてだ。ほとんど手をつけておられん」
「メニューが気に入らなかったとか」
それはありえん、と料理長は自信たっぷりに首を横に振った。
まさかなあ……昼間の出来事が原因だろうか。食事が喉を通らないほど、何を。
目の前の料理長が何を望んでいるかはわかっている。カインは小さなため息をつき、愛想笑いを浮かべた。
「伺ってくるよ」
彼の望む応えを返すと、頼む、と料理長は頭を下げ厨房に戻って行った。
カインは頭を抱えた。自ら「謹慎」と言った舌の根も乾かぬうちに主の部屋を訪れることは避けたかった。本当は、彼のほうから来てくれるかもしれない、と配下にあるまじき淡い期待を抱いていたので尚更だった。
料理長の言ったことから察するに、これまで何度か経験しているはずの「深刻な事態」のときは、普通に食事を摂っていたわけだ。昼間の出来事は、それさえ凌駕するほどのことなのだろうか。あるいは本当に、あの後具合が悪くなってしまったのだろうか。そう考えると居ても立っても居られなくなり、カインは主の部屋へ急いだ。
扉をノックしても返事が無いので鍵を開けて中へ入る。
「失礼します。ゴルベーザ様?」
メインルームに主の姿は無い。寝室の扉が開け放たれているので中を覗くと、ゴルベーザが床に仰向けに倒れていた。
「ゴルベーザ様!」
カインは慌てて彼の許に駆け寄り膝をついた。
「大丈夫ですか。お加減が悪いのですか。ゴルベーザ様!」
カインは主の名を呼びながら漆黒の甲冑を揺すったが、はっと手を止めた。脳内出血の類いなら揺り動かしてはいけない。彼の手を取り革手袋越しに脈を計りながら、カインは救護班を呼ぶべきか白魔法の使い手を呼ぶべきか逡巡した。
そうだ、その前にエリクサーを。
キャビネットに収めてある薬を取りに行こうと腰を浮かせたところで、ゴルベーザの大きな身体がわずかに身じろいだので、カインは再び彼の耳許に顔を寄せた。
「ゴルベーザ様! 聞こえますか! ゴルベーザ様!」
ああ、どうして変な意地など張ってしまったのだろう。何故素直に謝らなかったのだろう。このまま彼にもしものことがあったら、あるいは、最悪の事態は避けられたとしても重篤な後遺症が残ったりしたら、悔やんでも悔やみきれない。
とにかくエリクサーだ。
腰を浮かせ立ち上がったところで何かに足を取られ、カインは派手に転倒した。
「なっ!」
足が何か硬いものに挟まれている。これは、この感触は……
顎を少し引いて視線を後方へ向けると、足が黒い軍靴に挟まれていることがわかった。
「こんなにあっさりひっかかるとは、本当に単純だな」
カインの右足を両脚で挟みこんだまま、少し起こした身体を肘で支えたゴルベーザが低い声で笑った。
「……」
カインは前に投げ出していた両手の拳をぎゅっと握った。
童心に返るにもほどがある!
主の過ぎた冗談にカインはめらめらと静かな怒りを滾らせたが、同時に、張り詰めていた緊張が一気に解けて心から安堵し、大きなため息をついた。
「お戯れが過ぎます……」
声を震わせ、そう言うのが精一杯だった。口惜しいやらうれしいやら情けないやら、憤りと安堵がない交ぜになって涙が零れそうになるのを必死で堪える。歪んだ顔を決して見られないように、カインは腕を前に投げ出し床にうつ伏したまま動こうとしなかった。
「カイン」
「……」
「怒ったのか」
がちゃりと金属のぶつかる音がする。足が軽くなり圧迫感が取れた。主が身体を動かしたようだ。
「意地を張ったおまえがここに来る方法を考えた末のことだ。赦せ」
「……」
「怒っているのか」
主の気遣うような声音に自尊心をくすぐられ、カインは思わずにやりと微笑んだ。もう気が済んだ。駆け引きをいつまでも続けるのは利口ではない。配下の自分から折れることが定石だ。
緩く唇を噛んだあと、口角を上げ目を細め、飛び切りの笑みを称え振り返ろうとしたとき、薄い金属がぶつかる聞き憶えのある音がした。
「え……」
振り向きざまに後ろから顎を掬い取られ唇を覆われる。予期しない口付けに目を白黒させていたカインだったが、唇を吸われ、舌を吸われ、唾液を吸われ、濡れた音が耳を犯す頃には、カインは長い睫毛を震わせ目を閉じ、ゴルベーザの舌を追うように自分の舌を伸ばした。
「赦せ」
唇を離したゴルベーザは、カインの濡れた下唇を黒い革手袋の指先で拭い、その指でカインの頬を数回突付いた。
「ゆ、赦すも何も、私にそんなことが言え――」
「赦せ」
頬を上気させ荒い息を漏らしながら首を横に振り、掠れた声で訴えたカインを遮り、ゴルベーザは同じ言葉を繰り返した。
「……」
どうやら主には、いまこの状況も遊びのようなものらしい。ならば、主の望む応えを返すことが臣下の務めだ。カインは息を整え、敢えて取り澄ました顔で咳払いをした。
「……今回は赦して差し上げます。こんなたちの悪い悪戯は、二度となさらないでください」
「またしたら、どうする」
「……」
カインは更に身体を捻り、ゴルベーザの身体の下から抜け出し、後ろ手を床につき、彼に向き合う形に体勢を変えた。視線を合わせ穏やかに微笑むと、ねだるように首を少し傾げた。
「またなさったら……兜を脱いで、お顔を見せてください」
「……」
主の唇がわずかに突き出されたのをカインは見逃さなかった。
「お嫌ですか」
カインが顔を綻ばせると、ゴルベーザは微かな唸り声を上げ、口許を覆うガードを元に戻し顔を背けた。
「……考えておこう」
主に一泡吹かせることに成功したらしく、カインは心の中で快哉を叫んだ。
立ち上がり自分の傍を離れた主を見上げ、声をかける。
「食事を摂られますか」
「頼む。空腹を通り越して飢えている」
「わかりました」
噴き出しそうになるのを何とか堪え、カインはすくっと立ち上がり寝室を出た。
もし自分が来なければ、腹を空かせたままいつまでも倒れたふりをしていたのだろうか。そう考えればおかしくて、カインは口許を緩めながら、大きな机の上の小さな通信機器のボタンを押して、厨房の料理長を呼び出した。
2009/05/10