セシルは彼に伸ばしかけた腕を止め、宙に浮いた手で拳を握りそっと下ろした。かりそめの抱擁では彼を癒せない。自分では彼の望むものを与えてやれない。国王という絶対の権力の座についたところで、大切な親友ひとりしあわせにすることのできない自分の無力さに、セシルは歯噛みした。
「……セシル、悪い。もう帰ってくれないか」
「嫌だ。おまえをひとり置いて帰れない」
「何言ってるんだ。俺はずっとひとりだった。たいしたことじゃない」
ひとりは嫌いじゃない、と言い足した彼の、顔を覆った左手の隙間から見える唇はうっすら笑みさえ湛えていて、セシルは心臓を掴まれたような痛みを感じ、握った拳で左胸を押さえた。
「早く帰れ。ローザと……子どもがおまえを待ってる」
「もう寝てるよ」
カインは首を横に振り、しゅん、と洟を啜った。
人は前に進めるはずなのに、彼は同じところに留まり続けている。
黒いマントは甘い繭。懐かしいぬくもりの中で身を丸め、羽化を待たずに朽ちていく蛹のようだ。
セシルは妻を想った。彼は全然自由じゃない。身体中見えない鎖にぐるぐる巻きにされていて、進むことも飛ぶこともできない。その足に付けられた重い枷を、切り離せるくせに、彼自身が望んで外さない。
セシルは兄を想った。兄はこんな彼の姿を望んでいないはずだ。己の罪を贖い彼を自由にするために月に留まることを選び、その手を放したのだから。
兄の気持ちを思うと、突然、カインに対して無性に腹立たしい思いに駆られ、セシルは握った拳にさらに力を込めた。
相手の気持ちを考えない、自分勝手で自己憐憫、自己愛のナルシストだ。兄だけでない。自分やローザ、彼のことを案じている皆のことなんてまるで眼中にないのだ。
辛辣な言葉を浴びせたところで、自棄になっている彼は鼻で笑って肯定するだけだろう。
セシルは大きな息を吐いた。これは八つ当たりだ。彼の気持ちが自分へ向いていないことに腹を立てている自分こそ、あの頃と変わっていない。それでは何もならない。何も進まない。
どうすればいいのだろう。何を言ってやればいいのだろう。自分にできることは何だろう。
セシルはふと、この状況に既視感を憶えた。
そうだ、あれはカインの父が死んだときだ。いまと同じように、彼は悲しみに打ちひしがれていた。
いや、違う。同じではない。死んだわけではない。二度と会えないわけではない。生きていればきっとまた会える。きっと……
大丈夫だ。彼は大丈夫だ。
セシルは大きく息を吸った。
「二度と会えない、なんて決めつけるなよ」
覆った指の間からセシルに鋭い視線を向け、カインは重く長い息を吐いた。
「……おまえ、あのときの話、ちゃんと聞いていたか」
当たり前だろう、とセシルは口を尖らせた。
「会いに行けばいい。僕も行きたいし」
カインは顔から手をはずし、眉を寄せ訝しげにセシルを睨んだ。
「もう一度、クリスタルを集めるんだ。すべて」
「おまえなあ……一個人の我がままで、国の秘宝を貸してくれなんて言えるか」
カインは呆れたように嘆息しながら首を横に振ったが、セシルは胸を張り堂々と言った。
「僕がこの座についたのは、このためだ。きっと」
セシルはカインの青い眸を真っ直ぐに見つめた。カインも目を逸らさずにじっと見つめてくる。
「本気か……」
「僕が頼めば、皆快く貸してくれるはずだ」
「どこから来るんだ。その根拠の無い自信は」
失礼だな、とセシルは苦笑いを浮かべカインの腕を軽く突付いた。
「おまえのためなら、僕にはそれくらいわけないってことだ」
カインはセシルを見つめたまま、ふっと息を吐いた。
「理由は……どうする」
「『月に忘れ物がある』でいいよ。本当のことだし」
「……せっかくの案だが、だめだ。不可能だ」
「何故」
「知ってるだろ。バブイルの塔にはバリアがかかっていて、侵入不可能だ」
「エブラーナの洞窟から行けばいい」
「地下部分も、かかっているだろう」
「エブラーナと言えば?」
セシルはにやりと笑って首を傾げ、カインに答えを促した。眉を寄せていたカインが、ああ、と両手で顔を覆って天を仰ぐ。
「あいつにまで頼みごとか……」
「快く引き受けてくれるさ。『壁抜けの術』で」
カインは両手を顔から外し嘆息して、肩の凝りをほぐすように首を回した。
「セオドアも連れて行ってやりたい。会わせたいし。となると、ローザも『行く』って言うだろうな」
「……俺は、家族旅行の付添いか」
「そうだ、シドに頼めば塔の内側から操作してあのバリアを解除できるかもしれない。そうなると、エッジの『壁抜け』がなくてもいつでも出入り自由だ」
「おい」
「ん?」
「いいかげんにしろ」
「そうか? 可能性無いこと無いだろ?」
「おまえなあ……」
「ん?」
「俺が何年もうじうじしていたことを、よくも軽々と……」
「ん、気を悪くしたか」
そうじゃない、とカインはセシルの腕に手をかけ、首を横に振った。
「俺がおまえに敵わないのはそういうところだ。前向きで、どんな困難にも立ち向かい、決してあきらめない……」
「『バカ』って言いたいんだろ。おまえだって昔は無茶ばかりして、僕をやきもきさせていたじゃないか」
それとこれとは違う、とカインは苦笑いを浮かべた。
「やるだけやって足掻くだけ足掻いたら、『こいつら見ちゃいられない』と見兼ねて何か連絡あるかもしれないし」
「……」
カインは嘆息し、芝居がかった仕種でゆっくりと両手を叩いた。
「おまえ、すごいな。楽観もそこまで行くと、もう、何と言うのか……」
「僕にも月の民の血が流れている。わかるんだよ、なんとなく」
「……それを出せば、俺が何も言えなくなると思ってるな」
ちょっとだけ、とセシルが少し舌を出すと、カインも笑って握った拳をセシルの腹に軽く当てた。
空気が少し変わった。先ほどまでのピリピリとしたものでなく、昔に近い和やかな空気に。打たれた腹を押さえ咳き込むふりをして、セシルは安堵の息を吐いた。
あれは非日常が見せた、ほとばしる若さが刻んだ一時の劣情だ。
大丈夫だ。僕は大丈夫だ。
セシルは頭の中で、自分に言い聞かせるように同じ言葉を繰り返した。
セシルは一歩踏み出し腕を伸ばし、周りの空気ごと抱くようにカインをゆったりと抱き締めた。カインはびくりと身を竦ませたが、おとなしくじっとしていた。
「僕は、似ているだろ」
「……違う。身長がまるで違う」
ひどいな、とセシルは苦笑いを浮かべ、額をカインの額に、こん、とぶつけた。痛っ、とカインもぶつけ返してきた。額と額を合わせたまま、セシルは目を伏せた。
「ずっと聞きたかったんだ……彼がどんな人で、どんな風に喋って、どんな風に笑うのか。ずっと知りたかったんだ」
お前の口から、とセシルは顔を離しカインと目を合わせた。
「でも、おまえは彼のことを語るのもつらそうで……」
「セシル……」
カインの唇がわなわなと震え、端正な顔が歪む。
「す、すまない。俺は……俺は自分のことしか……」
いいんだ、とセシルは首を横に振って微笑んだ。
「おまえは考えもしなかっただろうけど」
セシルは一旦言葉を切り、何度も瞬きをした。
「僕も兄さんが恋しいんだ」
「……」
「もっと話をしたかった。父さんのことや母さんのことを聞きたかった」
「セシル……俺は……」
カインの青い眸にきらりと光るものを見て、セシルは彼を抱く腕にぎゅっと力を込めた。
「……俺、最低だな」
「でも最悪じゃない」
カインはふっと息を吐き、目許をセシルの肩に押し付け、消え入りそうな声で、ありがとう、と呟いた。
「僕もきっと、抱き締めて欲しかったのかもな」
弟としてな、と慌てて付け加え、セシルが照れくさそうに笑うと、腕の中のカインが体重を預けもたれかかってきた。
「あの人は、胸が高鳴ってどきどきして、とても落ち着かなかったけど――」
カインは言葉を切り、静かな息を吐いた。
「おまえにこうされると、落ち着く」
「……」
ああそうか。そうなのだ。それでいい。それで充分だ。
何故か目頭が熱くなり、セシルは何度も瞬きをして涙が溢れそうになるのを堪えた。
セシルはカインの金の髪に指を入れ、後ろに梳いて彼の頭を起こすと、唇に触れるだけのキスをした。カインは嫌がるわけでもなく表情も変えずじっとしている。
「拒まないのか」
「拒む理由がない」
「ひどいな」
「拒む理由はないが、おまえの意図もわからん」
「……泣きそうなおまえが可愛かったから、って言ったら?」
「お、おまえなあ……」
目許と頬を朱に染め眉間に皺を寄せ、カインが抗議の言葉を口にしたのと同時にセシルは、少し顎を引いてじっと彼の青い眸を見据え、真摯な声で言った。
「泣きそうなおまえにそそられたから、って言ったら?」
カインは一瞬目を見開き顔を背けたが、すぐに長い睫を瞬かせ、口許に不敵な笑みを浮かべセシルに向き直った。
「おまえがやりたいなら、俺は別にいい。だが、そんな応えじゃあ、おまえはいやだろ」
直截的だが的を射たカインの言葉に、セシルは嘆息し苦笑いを浮かべ、いや、と首を横に振った。
「冗談だ。そんなことしたら、兄さんに殺される」
カインは、まさか、と微笑んだが、セシルが、今度こそ、と言い足したので、眉を寄せセシルを睨んだ。
「おまえ、それは笑えない……」
すまん、とセシルは微笑んでカインの手を取り、両手で包み込んだ。
「一緒に行こうな。絶対」
「ああ……」
「僕が先に抱きついたら怒るか?」
「怒る。今度は遠慮しない」
でもすぐ代わってやるよ、と微笑んだ彼の笑みは心からのもので、その眩しいほどの美しさにセシルは目を細めた。
そう簡単なことではないだろう。エッジの術が効くという証しは何もない。次元エレベーターが再び稼動するという保証はどこにもない。
それでも。
一緒に行こう。向こうへ着いたら、兄に会えたら、見つめあったまま戸惑う彼の尻を叩いてでもしっかりと抱き締めさせよう。そのとき彼が見せる至福の笑顔を、たとえ遠巻きでも、それを見守ることこそが自分のしあわせなのだとセシルは思いながら、いつかの白い花のことを思い浮かべた。
咲かない花よりも咲く花のほうがいい。たとえそれが手の届かないところであっても。
「朝まで飲もうか」
「強くないくせに」
「トロイア産だから期待できる。悪酔いしないって」
カインの手を離しセシルは彼に背を向け、勝手知ったるとばかりに棚からワイングラスを二つ取り出した。今夜は酔えそうだ、と呟いたカインの言葉には聞こえないふりをしたが、その真意を汲み取り、セシルは密かに頷いた。
2008/12/21