土産のワインをカインに手渡しながら、セシルは吹き抜けのエントランスをぐるりと見渡した。
「変わってないな」
高い天井から吊り下がる照明も、壁にかかるハイウィンド家の人々を描いた絵も、階段の両脇に家人を守護するように配置された竜騎士の甲冑も、幼い日の記憶のままだった。
「埃っぽくないか」
「思ったほどじゃないな」
そうか、とカインは、エントランスの突き当たりにある扉を開けた。セシルの記憶では、そこは家族用の小さなダイニングで、自分にも馴染みのある部屋だった。
カップボードの前で扉を開けたまま首を傾げているカインの姿を見て、セシルは、どうした、と声を掛けた。
「客用のカップがわからん」
セシルはくすっと笑いながら、これでいい、と腕を伸ばし、隣の棚からマグを二つ取り出した。隣でカインが訝しげに眉をひそめる。
「外から帰ってくると、ここでよく足止め食らっただろ。おばさんのところへ行きたいのに。そのとき侍女の、名まえ忘れたけど、彼女がよく飲み物を飲ませてくれたじゃないか」
セシルが笑顔のまま昔を懐かしむと、カインは感心したように、よく憶えてるな、と笑った。
「でも、二十年前とそっくり同じというのもどうなんだ」
「庭師の老人が出入りしていて、いろいろ看ていたようだ。数年前亡くなったが」
「ああ、死んだのか、彼……」
カインはテーブルの上に置いた紙袋の中から紅茶の缶を取り出して、ポットに茶葉を入れた。ポットに湯を注ぎながら、酒はあとでいいだろ、と尋ねてきたので、セシルは、ああ、と短く答え、茶色の紙袋を指差した。
「買い物に行ったのか」
「何も無いからな」
「ちょっとした騒ぎになったろ?」
「ちょっとした騒ぎになった」
二人は顔を見合わせ、カインは思い出し笑いを、セシルは久々の竜騎士の登場に驚嘆する町の人々を思い浮かべ、にやりと笑った。
兜を脱いだカインは以前と変わらず美しかった。長年の修練の成果か、いっそう研ぎ澄まされたような鋭さを醸し出していたが、それは近寄りがたいものではなく、年相応の落ち着きと穏やかさがあった。
「少し痩せたか」
「年喰ったんだろう」
「お互いさまだろ」
「おまえこそ、威厳はあったぞ。それなりに」
「……五年やってて『それなり』なんて、へこむ」
天板の上にだらりと突っ伏してしまったセシルの大げさな仕種に、カインは笑った。
「陛下、お言葉が乱れております」
「からかうなよ」
口を尖らせるセシルに、カインは、立派だった、と笑いを噛み殺して言った。
二人とも口数は多くなかったが、話は尽きなかった。
セシルは、目下最大の懸念である軍備縮小計画案を、次の議会で破棄するつもりであることをカインに伝えた。カインもそれに控えめに同意したので、勢いに乗ったセシルは堰を切ったように、政の悩みや重責に対する不安、窮屈な立場への不満を打ち明け始めた。
昔の彼なら「自分で考えろ」と突き放しただろうけれど、カインは静かに相槌を打つだけだった。セシルはそれでも満足だった。こうして悩みを打ち明けられる相手が欲しかったし、それはカイン以外に考えられなかった。
喉の渇きを憶えたセシルはマグに口をつけ、冷めた紅茶を一気に飲み干した。熱い紅茶が冷めてしまう、それほどの時間自分が一方的に話していたことに気付き、カインに話を促した。話したいことも聞きたいこともたくさんあり過ぎた。
カインがぼそりと口を開く。
「あいつ」
「ん?」
「おまえのところの。やんちゃだな、あれ」
息子セオドアのことを言っているのだとわかったが、その名を口にしようとしないカインに、セシルの胸にもやもやとしたものが渦巻く。
「ああ。毎日振り回されてる。僕もローザも」
「今日も拗ねて、木に登って降りてこなかった。あの歳であの高さに登るんだから、たいしたもんだ」
「聞いた。僕が留守の間、稽古をつけてくれるそうだな。頼むよ」
「ローザは?」
「ん?」
「最初、良い顔をしなかった」
「いや、喜んでいた。僕が甘いから厳しくしてもらう、って」
そうか、とカインは微笑んで紅茶をひとくち啜った。
「カイン」
「ん?」
「似てるだろ」
「え」
「似てるんだろ」
セシルは幾分語気を強めて、同じ言葉を繰り返した。カインはマグを両手に包み直し、唇に当てた。彼の肩がわずかに上下する。マグで口許を隠すことで、深いため息をつくことを気づかれないようにしたつもりだろう。
「……名まえが、な」
「ああ」
「驚いたけど、うれしかった。おまえが……赦したんだとわかって」
「そうか」
カインは目を伏せ長い睫毛を瞬かせた。セシルは鼓動が早まるのを感じ、大きく息を吸った。それはいちばん聞きたくて、でも彼の気持ちを思うと訊けないことだった。
昼間、漆黒に覆われた彼の姿を見た瞬間彼の変わらぬ想いが伝わり、セシルは言いようのない寂しさを憶えた。
未だ忘れられないのだ。息子の名を口にできぬほどに。
「ローザがときどき言うんだ。『私たちはおとなしい子だったのに、誰に似たんだ』ってさ。僕だって知らないから、答えようもない」
セシルが笑いながら言うと、カインも、俺にも言っていた、と静かに笑った。
「だから僕は、常にそばに感じていられる。でも、おまえは……」
「セシル」
セシルにじっと目を合わせ、カインは鋭い声を出した。
「何が言いたいんだ」
静かだが強い口調にセシルは気圧されそうになったが、彼から目を逸らさず唾を飲み込んだ。
「その話はもういい」
カインは顔を背け、セシルから目を逸らした。
「そんな話をしに来たのか」
そういうわけではなかった。昔話やかつての仲間の近況、彼が付き合ってくれるなら、自分の愚痴や悩みを聞いてもらうつもりだった。だがセシルは敢えて答えた。
「……そうだ」
向き直ったカインの青い眸は暗い怒りに満ちていて、セシルは息を呑んだ。
「話をしてどうなる。何も変わらない」
「そんなことない。話をするだけで、聞いてもらうだけで気持ちが軽くなることがある。おまえだって、僕の話を黙って聞いてくれたじゃないか」
「それは単に、おまえが吐き出したかったからだろう。俺は言いたくない。任された仕事は完遂する。俺が言い出したことだから子どもの相手もしてやる。それ以上俺に何を望む」
セオドアの眸は自分の眸ではない。それはセシルもとうに知っていることだった。セシルは大きな息を吐き、意を決した。
「じゃあ、言わせてもらう。セオドアに兄さんを重ねるな。あの子は彼の代わりになれない」
カインはセシルを睨んだまま鼻先で笑い、皮肉をこめて歪めた唇から乾いた笑い声を上げた。
「残念ながら、はずれだ。的外れもいいところだ」
いかにも無理をして笑っているのがわかって、それをやめさせようとセシルは椅子から立ち上りカインの腕を引いた。
「カイン、やめろ」
笑い疲れたカインが息を切らせ腹を押さえる仕種も白々しく思えて、セシルは顔をしかめた。カインは口の端を吊り上げ、上目遣いでセシルを睨め付けた。
「あいつよりおまえを代わりにする方が、よっぽど現実的だろう」
セシルは弾かれたようにカインの腕から手を離し後ずさった。カインは気だるそうに立ち上がり、セシルの肩に右手を置き、もう一方の手をセシルの腰に添え顔を寄せ、耳許で囁いた。
「王の命令とあらば、喜んで脚を開いてやるよ」
その瞬間頭にかっと血が上り、セシルはカインの手を乱暴に払い除けた。よろめいたカインは腰をテーブルを強く打ちつけ、そのまま天板に後手をつき体重を預け、痛みに眉を寄せ顔を歪めた。
「やさぐれたふりはよせ。おまえには似合わない」
できる限り冷静に言い放ったつもりだったが、身体を巡る血が滾るのは怒りによるものだけでないことはわかっていた。痛みに堪える彼の表情を見ていると、あの戦いに明け暮れた日々、死と背中合わせの日常がもたらした焼き切れるような欲望が、想い出にしたはずなのに、セシルの胸に蘇る。
顔にかかる長い髪を頭を振って払い、カインは口の端を上げ、ふっと息を吐いた。
「とんだ買い被りだな。俺がこの五年間、貞節を捧げてきたとでも思ってるのか」
「な、何……」
うろたえるセシルに、カインはまた高い笑い声を上げた。
「だ、だって、おまえは、まだ忘れら――」
「同じだ」
カインは嘆息して俯き、片手で顔を覆った。
「誰と寝ようと何人と寝ようと同じだ。彼でなければ同じことだ」
「カイン……」
「自分を鍛えながら時が経つのをずっと待った。時間さえ経てばと思っていた。だが……」
カインは唾を飲み込み、震える声で言葉を続けた。
「五年経っても正気じゃいられない。きっと何年経っても同じことだ」
2008/12/14