その椅子は、座り心地が悪いことなど決してないはずなのに、いつまで経っても落ち着かない。背もたれに背中を預けてみるけれど、どうにも横柄な態度のように思えて、すぐ身体を起こした。最も心地よい位置を求めて何度も玉座に座り直していたセシルだったが、廊下から聞こえてきた衛兵の声にびくりと肩をすくめ、慌ててどっしりと腰掛けた。
王の間に入室して来た臣下の一人が玉座に寄り頭を垂れた。
「ダムシアン王、ギルバート様がお見えです」
「はい」
「陛下」
「あ……うむ」
彼が微かに眉を寄せたことには気づかぬ振りをして、セシルは久々に会う友人を出迎えるために忌々しい椅子から立ち上がった。
「ギルバート、よく来てくれた」
赤い絨毯の中ほどで立ち止まり深く一礼したかつての戦友にセシルは、堅苦しいのはいいから、と笑顔で近寄り、ギルバートの腕を引いた。
「相変わらずだね、セシル」
「来てくれてうれしいよ」
さあ、とセシルは自分の隣の椅子を勧めた。
「『さあ』って、そこは王妃の席じゃないか」
いいから、とセシルはギルバートの肩を押さえて無理やりに座らせた。
「ローザは隣で待ってる。ゆっくりお茶を飲みながら話したい、って」
そうか、と微笑んだギルバートだったが、ちらりと横目で段の下を窺った。セシルはそれを察し、臣下に声をかける。
「すまないが、外してくれ。水入らずで話したいんだ」
「かしこまりました」
職務に忠実な彼は、再び深く頭を垂れて部屋を出て行った。臣下の背中を見送りながら、セシルは小さなため息をついた。
「君は王家に生まれたから振る舞いも板についているけど、僕はなかなか慣れなくて……窮屈なもんだな」
「大丈夫だよ。君なら立派な王になれる。王家に生まれた僕が保証する」
ありがとう、とセシルはギルバートに笑顔を向けた。
「で、手紙では言えないことって」
それなんだが、とギルバートは懐から一枚の紙を取り出した。
「単刀直入に言うよ。我がダムシアン城の復興に融資を頼みたいんだ。自国の予算だけではどうしても足りなくて」
「……あ、ああ。それはもちろん、バロンにできることなら、よろこんで」
ありがとう、と声を弾ませギルバートは両手でセシルの両手をがっちりと握って振った。
「よかった……断られるかもしれないと思っていたんだ。君は、ミストにも相当援助していると聞いたし」
「あ、ああ」
あれはそもそも僕らのせいだし。
セシルは忌まわしい記憶を思い巡らし、目を伏せた。小さな呟きは昂奮したギルバートの耳には届かなかったようで、彼は紙に書いた細かな数字をセシルに指し示しながら、金額の詳細を説明し始めた。
ギルバートの説明に黙ったまま頷いていたセシルだったが、彼が放った言葉にさっと顔色を変えた。
「あまり金をかけるつもりはなかったんだが、大臣たちが以前より強固な城にしたい、と言い張るんだ。まあ、そもそも君の兄さんのしたことだからバロンに助けてもらえればいいかな、とも思ったんだけどね」
「ギ、ギルバート……どうしてそれを……」
「ダムシアンは本来商業国家だ。経済が元通り軌道に乗れば、借財はすぐに返せる」
セシルの将来を慮って月の民フースーヤは、青き星を恐怖に陥れたゴルベーザがセシルの実兄であることは世に伏せるべきだと訴えた。事実を知る人間はここにいる者だけでいい。ゴルベーザの背後にはゼムスというさらに巨大な悪が存在したこと、ゴルベーザは操られていただけで、ゼムスを滅ぼした後の彼の所在は不明であること。月からの帰還後、セシルはミシディアで出迎えたギルバートたちにそう伝えていた。
誰から漏れたのだろう。秘密の漏洩に狼狽し気をとられていたが、彼の言葉の言外の意味に思い至り、セシルは真摯な顔つきで、復興計画を夢中で話し続けるギルバートに向き合った。
「ギルバート。ギルバート!」
「どうしたんだ、大きな声で」
セシルはギルバートの目をじっと見つめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「確かに、彼は僕の兄だ。操られていたとはいえ君の城を攻撃し、果ては君のご両親や……大切なアンナさんまで……兄に代わって謝る。本当に申し訳なかった」
深々と頭を下げたセシルに、ギルバートは目を丸くしてセシルの肩に手を置いた。
「セ、セシル。いきなりどうしたんだ。なんで君が謝るんだよ。君が世界を救ったのに」
「……本当は彼自身が心から詫びなければならないけど、もうここにはいない。だから弟である僕が……」
顔を上げて、とギルバートはセシルの頬に軽く手を添えた。
「彼だって操られていたんだろう。ある意味被害者だ。相当苦しかっただろうに」
「だ、だが……」
「僕は誰も恨んでいないし憎んでもいない。憎しみからは何も生まれない」
「ギルバート……」
ギルバートのやさしさと思いやりに、セシルは目に力を入れて涙がこぼれそうになるのをぐっと堪えた。
「ところで『融資』じゃなくて『援助』ということでいいかな。そうしてもらうと助かるんだが」
セシルの涙が一瞬で乾いた。
ギルバート……このタイミングで! もしかして腹黒?
「あ、ああ。もちろんさ……」
セシルは顔をわずかに引き攣らせながらも彼の申し出に快諾した。ありがとう、と歓喜したギルバートはセシルの首に腕を回しぎゅっと抱きついた。
「あ、金額はこれに書いてあるとおりで頼むよ」
「あ、ああ」
「失礼いたします。陛下!」
部屋の入口で臣下が叫んだ。セシルは、何だ、と顔を上げる。
「ファブールのヤン様がお見えです。お待ちいただきましょうか」
セシルがギルバートに顔を向けると、彼は笑顔のまま頷いた。
「いや、お通ししてくれ」
「かしこまりました」
セシルとギルバートは、王の間に通されたヤンとの久々の再会を喜び合った。
ヤンがその視線を一瞬泳がせたのを察したギルバートは、ローザに会ってくるよ、と切り出した。セシルは隣室への扉まで彼を見送ってからヤンに向き直り、再び握手を求めた。
「聞いたよ。即位するんだって。おめでとう。ヤンなら立派な国王になれるよ」
握手を解きながらヤンは額の汗を拭った。
「いやはや、陛下に頼まれて、致し方なく、なのだが」
僕も頼もしいよ、とセシルはヤンに笑顔を向けて隣の椅子への着席を促した。
「そこはローザ殿のお席では……」
いいから、とセシルはヤンの肩を押して彼を無理やり座らせた。
「ローザは隣で待ってる。いまギルバートとお茶を飲んでいるから、後で顔を出してやって欲しいんだ」
了解した、とヤンは実直に頷いた。
「で、今日は? その報告?」
そのことだが、とヤンはわずかに眉を寄せた。
「来月に戴冠式があるのですが、お恥ずかしい話……ファブール城の修復に予算を使い果たしてしまい……ですから、私は、それに応じた簡素な式で、とお願い申し上げたのですが、陛下は首を縦に振ってくださらんので……」
歯切れの悪いヤンの言葉に、嫌な予感がふつふつと湧き上がる。
突然ヤンが深々と頭を下げてきた。
「面目ない! セシル殿、ファブールにご援助いただけないものか」
やっぱり……
セシルはヤンに気づかれないように小さな息を吐いた。
「あ、ああ、もちろん。バロンにできることなら、よろこんで……」
「かたじけない!」
ヤンは両手でセシルの手を取り、がっちりと握り揺さぶった。
「そもそもは、限られた額をきちんと振り分けず、城の修復に使い果たしてしまった我が国の不徳のいたすところ。面目ない」
「顔を上げてくれ、ヤン……」
そもそも城を攻撃したのは兄さんだしなあ……ああ、カインもいたっけ……
思わず、はあ、と大きなため息をついてしまい、セシルは慌ててそのまま、あーあー、と喉の調子を整える発声練習のような声を上げた。
「セシル殿?」
「すまない、ちょっと喉が……」
「大丈夫ですか」
「失礼いたします。陛下!」
部屋の入口で臣下が叫んだ。セシルは咳払いをして、何だ、と顔を向けた。
「エブラーナ王、エッジ様がお見えです。お待ちいただきましょうか」
セシルがヤンに顔を向けると、彼は黙ったまま頷いた。
「いや、お通ししてくれ」
「かしこまりました」
セシルとヤンは、王の間に通されたエッジとの久々の再会を喜び合った。
エッジがその視線を一瞬泳がせたのを察したヤンは、ローザ殿に会ってきます、と切り出したが、セシルは、ここにいていいよ、と返した。
「おい、ヤンが気を利かしてるじゃねえか」
「あちらの扉でいいんですな」
ヤンが隣室への扉を指差したので、セシルは笑顔で頷いて、後で行くよ、と言い足した。
ヤンの背中を見送ってからセシルはエッジに向き直り、隣の椅子を勧めた。エッジは王妃の椅子にどさりと腰掛け、いい椅子だな、と上下に跳ねてクッションを確かめた。
「相変わらずだな、エッジ」
「何だよ、憂鬱そうな顔して。ヤンに無心でもされたか」
やたら勘がいいのも相変わらずだな……
セシルは小さなため息をつき首を横に振って、無心じゃないよ、と呟いた。
「ヤンの前にはギルバートが来て……そういうことだ」
「あいつもか」
エッジはけらけらと笑い、そりゃそんな顔したくなるわな、と軽口を叩いた。セシルがむっと口を尖らせる。
「そもそも……彼がしでかしたことだから……僕に責任がないわけでもないし」
「彼って?」
「僕の兄さん」
「まだそんなこと言ってんのか。おまえは世界を救ったんだ。世間はおまえに感謝こそすれ責任を追及する筋合いなんてないだろ」
「それが……ギルバートは知っていたんだ。ヤンも知っているかもしれない」
「何を」
「僕の兄さんだってことをさ。誰が漏らしたんだろう……」
肘掛で頬杖をつき、セシルはちらりとエッジを窺い見た。
「おいおい、俺を疑ってんのかよ。俺は言っちゃあいないぞ」
「二人とも一緒に戦った仲だから、別にいいけど」
セシルは上体を起こして椅子に座り直し、エッジに身体を向けた。
「で、今日は?」
「あいつは?」
「どいつ」
「あれだよ、幼馴染」
「……まだ帰らない。ずっと帰らないかもしれない」
「あの何とかの山からか。えらくストイックだな」
エッジは背もたれから身体を起こし、両膝を軽く叩きながら部屋の天井をぐるりと見回した。
「こんな立派なところでひとり、っていうのも気が重いな」
「ああ、正直途方にくれてる。何ヶ月経っても慣れない」
「気心の知れた側近は必要だぜ。口うるさいけど、俺にはじいがいる。呼び戻せばいいだろ。おまえも」
セシルは首を横に振った。
「まだ無理だろ。傷が癒えていないはずだ」
「傷ねえ……」
俯いたはエッジは左右の膝に乗せた両肘に上半身を預け、両手を擦り合わせながらセシルの顔を見上げた。
「おまえはどうよ、傷」
「ぼ、僕は傷なんて……毎日忙しいし、憶えることがまだまだたくさんあるし……」
そうか、とエッジは自分の腿をぽんと叩いて、再び背もたれに背中を預けた。
「今日はな、おまえの顔、見に来たんだ。俺にも憶えがある。がたっと来る時期なんだよ。おまえは人のいい成り上がりだから、余計きついだろうし、な」
にやりと白い歯を見せて微笑んでくる、口の悪さで思いやりの気持ちをごまかしたつもりのエッジの言葉に、セシルは胸が熱くなった。
「エッジ……ありが――」
「ところで、今月ミストに送る物資を奮発し過ぎて、肝心の城の修復費の割賦がやばいんだ。頼むわ」
エッジ、おまえもか!
このタイミングでそれを言うのか? それがついでの用件なのか?
両手を合わせて頭を下げるエッジに、胸の温かみも吹っ飛んだ。セシルは嘆息し、恨めしい目つきでエッジを睨む。
「それもミスト、って、かっこつけて……」
エッジはもじもじと服の裾を引っ張りながら頬を染めた。
「そ、そりゃよお、わかるだろ、おまえも……惚れた女の前ではびしっと決めたいじゃねえか」
セシルは、相変わらずのエッジの様子に苦笑いを浮かべ、やれやれ、と大げさに肩をすくめた。
「バロンにできることならよろこんでさせてもらうよ」
「助かるぜ!」
首にしがみつき頬に接吻しかねない勢いのエッジをなんとか引き剥がし、セシルは、お茶にしよう、と隣室への扉を指差した。
「会っていくだろ。ローザに」
「もちろん」
「お先にどうぞ。後で行くから」
エッジの背中を見送って玉座に深く座り直し、セシルはため息をついた。
「側近か……」
いまごろどうしているのだろう。雨風はどうやって凌いでいるのだろう。元々食にうるさくはなかったが、きちんと食べているのだろうか。繰り返される一人寝の夜は、寂しくないのだろうか。
心配してもきりがない。もういい大人なのだ。彼には彼のやり方がある。彼には彼の道がある。
幼馴染の親友に想いを馳せていたセシルは、頭を振り睫毛をを何度も瞬かせ、隣室へ行こうと腰を上げた。
「失礼いたします。陛下!」
「何だ」
部屋の入口で自分を呼ぶ臣下に、セシルは煩わしそうに顔を向けた。
「財政担当大臣が予算についてお話があるそうです。お通ししてもよろしいでしょうか」
「財政」と聞いてセシルの背筋がピンと伸びた。
「あ、後にしてくれ」
「それが、至急お目通り願いたいと……」
ああ、とセシルは頭を抱えた。短い時間に三国への援助を受諾したのだ。予算割り振りの裁量権は国王にあるとはいえ、担当者にぐちぐちと嫌味を言われることは間違いない。
こんなとき気心の知れた側近がいれば、自分に代わって応対してくれるのだろうか……
彼が? まさか……
「してくれそうにないよな……」
「は? 何か」
セシルは覚悟を決めた。嫌なことはさっさと済ませ、早く皆に合流して楽しく和やかなときを過ごそう。
「何でもない。通してくれ」
「かしこまりました」
臣下の背中を見送りながらセシルは、もっと修養しなければ、と武人が為政者になることの難しさに決意を新たにした。大臣への言い訳とも言える弁明を頭の中で箇条書きにしながら、肘掛に両腕を預けゆったりと玉座に腰掛けて、臣下と入れ違いに入室した大臣が赤い絨毯の中ほどで深々と頭を下げるのを堂々と見守った。
2009/01/18