博士の奇妙な愛情

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 白い扉の前で立ち止まり、軽く息を吐いてから丁重にノックした。どうぞ、としゃがれ声の部屋の主から入室を許可されたベイガンは部屋に一歩踏み入るなり、機械油と薬品が入り混じった臭いに顔をしかめ、鼻をつまんだ。
 彼にはよくわからない機械の前に腰掛け、セラミック製のマグでコーヒーを啜っていた部屋の主ルゲイエは、その様子を見て、くかかか、と前歯の抜けた口許を隠しもせず笑い声を上げた。

 ベイガンが、握った拳を口許に当て軽く咳払いするとルゲイエはその下卑た笑いを止め、マグを置いて立ち上がった。白衣の裾をぽんぽんと二回はたくと、後ろ手に回した両手で曲がった腰を支えるようにしながら部屋の奥へと歩を進めた。ベイガンは、首を動かさず目玉だけをきょろきょろ器用に動かし、以前この部屋を訪れたときよりも、魔物の胎児のホルマリン漬け標本の数が増えていることに、いささか眉をひそめながら、ルゲイエの後に続いた。


 部屋の奥にあるステンレス製の「作業台」に寝かされている男の姿に、ベイガンは、ほう、と小さな吐息を漏らした。改めて考えてみれば、竜を象った兜、甲冑を身につけていない竜騎士カインの姿を見るのは初めてだった。
 ごく薄い水色の術着の前合わせからは、細い体躯ながらしっかりとついたしなやかな胸筋が静かに上下している。長い黄金の髪は、今は泥土にまみれ絡みもつれ合っている。きちんと泥を洗い流し上等の豚毛でこしらえたブラシを通せば、見事な輝きを取り戻すだろう。細く通った鼻梁、白い肌は無機質な灯りの許でさらに青白く、常ならば朱を指したように艶やかな唇も色を失い乾いている。睫毛は自らの頬に影を落とすように長く、閉ざされた瞼の向こうの双眸の色は、きっと、彼が飛竜に跨り天(あま)翔る空と同じ色なのだろうとベイガンは考えた。
 再びルゲイエの下卑た笑いにベイガンは我に返り、我に返ったことで自分は意識を失ったままぴくりとも動かないカインに目を奪われていたのだと気づき、再び、コホン、と照れ隠しの咳払いをした。
「男にしておくにはもったいない別嬪じゃのう」
 ルゲイエが、下卑た笑いを止めぬまま、カインの頬の輪郭を撫でるのを、ベイガンは忌々しげに見つめた。ルゲイエがカインに触れるのをそれ以上見たくなかったのでベイガンは、ここに来た目的を伝えるために、話を切り出した。
「負傷の具合は?」
 ベイガンの問いかけにルゲイエはちらりと視線を上げ手をとめ、作業台を離れ、壁際に並べられた書棚に磁石で留められていた一枚の紙を取り外し、今度はカインの足許に立った。メガネの位置をずらし、紙に書かれた内容を一気に読み上げ始めた。
「全身に擦過傷。右第九、十肋骨、左第十二肋骨の骨折。これはたいしたことない。鎖骨骨折。これもたいしたことはないが、より早く治すために白魔法をかけてやった。右大腿部に挫滅症。 これも……」
「つまり、問題ないということですね」
 言葉を遮られたルゲイエは、ちらりとベイガンを見やると、むっとした様子で紙を元の位置に戻した。
「外的にはな」
「外的……では、内的に何か問題が」
「傷はあらかた治っているのに目を覚まさん。血圧は低いが正常値内、脈も正常。あらゆるショックを与えてみたがさっぱりじゃ。精神的な問題ならばわしの専門外じゃ」
 ルゲイエはぶつぶつ言いながら作業台の周りを歩き始めた。
「目を覚ましてもらわんと何も始められん。こやつの気質を知るためにも問診が必要なんじゃ」
 ルゲイエのぼやきを聞きながらベイガンは、分厚いガラスの壁越しに見える隣室に設置してある巨大な装置に目をやった。ひときわ目につくのは、複雑な形のチューブやケーブルが何十本も繋がった高さ五メートル、幅二メートル余りの二つの巨大なカプセルで、その中に満たされた溶液がふつふつと泡を立てていた。ほんの二ヶ月前、ベイガンはルゲイエによる問診を受けた後、あのカプセルの中に入った。「おまえにすばらしい力を与えてやろう」という彼の新しい主の言葉を信じて。カプセルの中は、まるで胎内のように温かくこの上ない安らぎを憶えた。たゆたう小舟のようにカプセルの中でゆらゆらと眠るベイガンには、もう片方のカプセルに入っていたものを知らなかったし、知る必要もなかった。

「これだけの上玉はもったいないからな。できるだけ人型を残したまま造ろうと思ってな。できれば気質を活かして竜と合成したいんじゃが、あいにく飛竜が見つからん。いや、その前に目覚めんことには……」
「その必要はありません。博士」
 ベイガンの言葉にルゲイエは足を止め、片眉を上げた。
「その男カインを、バロンに移します」 
「なんじゃと、バロンに?! というとゴルベーザ様の許へか?」
「改造は必要ない、とのことです」
「なぜじゃ! あの村の負傷者も死者もおまえの好きにしてよい、とおっしゃったではないか」
 つかみかからんばかりの勢いで詰め寄ってくるルゲイエを、主の名を出して一喝するのは簡単だったが、ベイガンはそうせず、辛抱強く説明を続けた。
「当初の予定では、セシルだけ始末するはずだったのです」
「バロンの暗黒騎士だな」
「それが、セシルの友人であるカインがミスト殲滅計画に、それと知らず、加わり……」
「その結果、件の暗黒騎士は生き延び、カインは重傷を負った、と。計画が台無しじゃな」
 ベイガンはむっとして語気を強めた。
「ミスト殲滅計画は遂行されました」
「セシルとやらが生き残ったミストの召還士を連れていると聞いたぞ」
「バロンで、カインはセシルと並び称される男です。セシル抹殺に使えるとゴルベーザ様はお考えです」
 ゴルベーザの名を聞いて、ルゲイエは少し身を引いた。
「だ、だったら、それこそこのルゲイエ様が、美しく強い魔物、いや、魔人を造ってさしあ――」
「ゴルベーザ様は『必要ない』とおっしゃっておいでです」
 ベイガンは、それがどういう効果をもたらすか熟知した上で、もう一度同じ言葉を繰り返した。二の句が継げないルゲイエは、うぐう、と奥歯を食いしばり、作業台の上のカインに視線を落とした。しばらくその美しい顔を眺めていたが、はっと息を呑み、ベイガンを振り返った。
「カインが死んだと報告してくれんか。頼む、ベイガン」
 ベイガンは小柄な老人を見下ろし、ふう、とため息をついた。
「その美しく強い魔人をご覧になった途端、我々が虚偽の報告をしたとおわかりになるでしょう。そんな恐ろしい片棒を担ぐつもりはありません」
 ルゲイエは、それもそうだ、と肩を落としうなだれた。
「それでは、連れて行きます」
 ベイガンが合図の笛を吹くと、部屋の外に待たせていた彼の四人の部下たちが小脇にストレッチャーを抱えてどかどかと入室してきた。彼らがベイガンの指示で、速やかにかつ丁寧にカインを作業台から下ろしていく様子を、ルゲイエは恨めしげに見つめていた。








2008/02/10

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