「セオドアの生まれた頃にそっくりだ!」
小さなベッドを覗き込んでいたセシルが、昂奮してさらに身を乗り出した。
「月の民の血が強いのよね」
花瓶に花を活けていたローザは、半ばあきらめたように笑った。
「眠っている間に検査はすべて終えた。正真正銘人間の、健康な子どもだ。おまえの身体も元通りだ」
俺は自分の腹に視線を落とし手を当てた。それは以前のように平らで余分な肉は一切なかった。
もういないのか……
目の前にいるのに変な感傷だ。そんな俺の憂いに気づいたらしく、彼は慣れた手つきで赤ん坊を抱き上げ俺に差し出した。
抱け、ということか。当然そうだろう。俺は身体を起こし、恐る恐る赤ん坊を受け取った。日ごろ抱いているセオドアと比べるとうんと軽く、小さな身体はぐにゃ
ぐにゃで、肩によけいな力が入ってしまう。
赤ん坊があくびをして目を開けた。まだ何も映さない薄い青の眸。ますます彼にそっくりだ。何だろう。腕に抱いていると不思議な気持ちが湧き上がってきた。何
とも言えない匂いがする。小さな手を握り、わずかに生えた銀の髪に口付ける。
何て可愛いんだ。生まれたてでこんなに整った美しい子がいるだろうか。何て愛おしいんだ。少し変わった生まれのこの子を、この世のどんな災いからも守ってや
りたい。両親がしてくれたように、あらん限りの愛情を与えてやりたい。ほんの短い間に怒涛のごとく溢れ出てきた母性――できれば使いたくない言葉だ――に俺は
昂奮していた。
「おまえたち、外してくれるか。これも照れくさいだろうからな」
彼は突如セシルたちに退室を促した。察したらしくローザは、またあとで、とセシルと共に部屋を出て行った。
「どうしたんだ」
やっと出せた声はやはり掠れていた。よく気の回る彼は、俺に吸い口で水を飲ませ額の汗を拭いてくれた。
「乳をやらねば」
「は? 乳? 出ないだろ。身体は元通りだって言ったじゃないか」
「初乳といってな、産後初めて出る乳が栄養満点で、抵抗力をつけるため肝心なのだ」
いやいや。それは本で読んだから知っているが、女の身体と違う俺の胸は妊娠中も膨らまず、人工粉乳で育てる、と決めていたのだ。
「わずかでいい。咥えさせてみろ」
俺が赤ん坊を抱いているので動けないのをいいことに、彼はさっさと俺の服の前を肌蹴てしまった。抵抗はあったが、赤ん坊が舌をもごもごとさせいまにも泣き出
しそうに真っ赤になって顔を歪めたため、慌てて乳首をその口に押し当ててみた。
「うわああああ」
こんな小さな身体のどこにそんな力があるというのか、想像以上の吸引力に、思わず変な声が出てしまった。男の俺が平らな胸で授乳している。そんな俯瞰図を想
像すると頭を掻き毟りたくなるような気持ちに駆られた。そんな俺の葛藤も知らず、本能に忠実な赤ん坊は必死に吸い付いているが、乳が出ているかどうか実感がな
い。
赤ん坊に覆いかぶさるように窮屈に背を丸める俺を気遣って、彼はベッドに上がってきて俺の背後に回り、もたれてみろ、と俺の腰を抱き寄せ、左肘の下に立てた
枕を置いてくれた。彼の胸に背中を預ける形になり、楽な体勢になった。
「右も」
彼に言われ、そっと赤ん坊を引き剥がし、右腕に抱き直す。赤ん坊の舌に白いものが付いている。どういう理屈かわからないが、乳は出ているようだ。
「ぐっ……」
右の乳首を吸われる。覚悟はしていても、やはり変な感じだ。大きな声で言えることではないが、乳首を舐められたことも吸われたこともないわけではない。だが
これは、そういった性的昂奮を伴うものとはまるで違い、義務のような儀式のような、とにかく、筆舌しがたい複雑な気分になるのだ。
恐る恐る彼に訴える。
「……乳をやるのはこれっきりにしたい」
「もう出んだろう」
意外にあっさりと彼は言い放った。どういうわけか、いまの授乳で俺の身体は母体――好まない言い方だ――の務めを果たし終えたらしい。
俺の乳首を咥えたまま満足して眠ってしまった赤ん坊をそっと引き剥がす。何か忘れているような。少し考えてすぐに思い出した。ゲップをさせなければ。そっと
縦に抱き直し肩に乗せるようにして背中を支えてやる。彼が「下から上へ」と言うので、そのようにさすり上げる。しばらくして小さな身体に似つかわしくない空気
を吐き出す音が出たので、慎重にベッドに寝かせた。
一気に疲れが出た気がして、大きく息を吐き出した。ともあれ、俺の最初で最後の授乳は無事終わった。初めての授乳に感動するどころか戸惑いしか憶えないこと
に、俺は密かに安堵した。「妊娠しようが出産しようが、俺は男なのだ」と、ほんの少し心にわだかまっていたもやもやを払拭するには、馬鹿馬鹿しくもあるが、効
果的な役目を果たしてくれた。
胸許を掻き合わせながら、彼に尋ねた。
「名まえは?」
「セオドール」
「やっぱりそれか。紛らわしいな。『ジュニア』でも付けるか、それとも『二世』とか」
「『神様の贈り物』だからな。この子こそ、その名にふさわしい」
「……そうだな」
俺は「ゴルベーザ」かそれをもじった呼び方をしているから、実際に問題は少ない。
「セオドール」
呼びかけながら柔らかな頬に軽く指を滑らせてみる。口許がピクッと動き、目尻が下がってニタッと笑った。
「笑った。聞こえてるみたいだ」
「笑っているわけではない。神経の反射、生理的なものだ」
「そうなのか……でもなんかいいな」
どう見ても笑っているようにしか見えない。たとえ顔の筋肉を引き攣らせているだけでも、それが微笑に見えることで親の庇護欲をかきたてる赤ん坊の不思議なメ
カニズムに、すごいな、と感心した。
「疲れただろう。少し休め」
セオドールに魅入って側を離れない俺の頭を軽く撫で、彼はベッドを降りようとしたが、俺はそれを押しとどめた。
「このままがいい」
少し身体をずらして肩口に頭を預け、すっぽりと包まれるように位置を整える。彼は俺の腹の前で緩く手を組み、肩に顎を乗せてきた。
「痛むところはないか」
「大丈夫だ。それより腹が減った」
俺の腹は痛みはもちろん傷痕も縫合痕も無かった。どうやって取り出したんだろう。最新の技術らしいが何度説明されても理解し難いので、無事に生まれて無事身
体が元通りになればいい、とあまり頓着無かった。
彼は長い腕を伸ばし、傍らに置かれたワゴンから紙袋を取り上げ中身を俺に手渡した。それは行列に並ばなければ買えない町の人気店のパンで、俺は目を輝かせ
た。
「まさか並んだ?」
「セシルに頼んだ」
やっぱり、と俺は好物を頬張りながら、特権を使ってしまい他の客に申し訳ないという気持ちとこの美味さには代えられないという気持ちのせめぎ合いに、しばし
意識が向かった。その間、彼はのんびりと俺の髪を弄び、器用に編み込み始めた。
二つ食べ終える頃、一つに編んだ髪が胸の前に垂らされたのを見て、俺は母親のことを思い出した。彼女も床に就いているときは、白い寝間着に身を包みこんな風
に髪を編んでいた。子を成してから、母親を思い出すことが増えた。これが、親になって親のことがわかる、ということか。彼はどうなのだろう。首を動かして彼の
横顔を仰ぎ見る。
「明朝帰れるぞ」
「よかった」
「科学者はお役御免だ。何かあったら、今後はバロンの侍医が診てくれる」
「そりゃあそうだ」
「専門外と言いつつ、よくやってくれた。報酬を弾もう」
「もう専門外じゃないけどな」
俺の手術に至るまで、件の男は哺乳類から類人猿、人間へと実験を繰り返し、そのほとんどを成功させていた。冗談交じりに「これで食っていけるかも」とも言っ
ていた。
「そうだな。報酬の代わりに装置を払い下げてやるか」
「……」
考えを先読みされてしまい何か言い返したかったが、予定の報酬とあの複雑な装置のどっちが高額だとか、対価はわかりっこないので黙っていた。
セオドールが微かな泣き声を上げた。慌てて抱き上げようとすると、彼に押しとどめられた。
「大丈夫だ。放っておいてもいいのかどうか、見極められねば身体がもたんぞ」
「そんなものか……」
彼の言うとおり、俺たちの息子は少しふにゃふにゃ泣いただけで、またすぐおとなしくなった。か弱い存在なのだから仕方ないとはいえ、つい構いたくなる。なか
なか難しいな、と俺はため息をついた。それに比べ、初めて親になるのは同じなのに、彼のこの余裕はどこからくるんだ。
「なんか余裕だな」
「そうでもないぞ」
「まさか隠し子とかいないよな」
「……」
「そこで黙ると冗談にならないだろ!」
彼が喉の奥でくぐもった笑いを漏らしたので、俺も笑いながら彼の喉許にぐりぐりと頭を押し付けた。彼の吐いた息が耳をくすぐる。
「本当に感謝している。心から」
「ま、確かに、お安い御用、ではなかったな」
真摯な感謝の言葉に照れてしまい、俺は茶化すように言った。身体を捻り彼と目を合わせる。薄い青の眸は穏やかに細められ慈愛に満ちているのにわずかに綻んだ
唇は色っぽくて挑発的で、背中がぞくりと震えた。俺は目を閉じ首を伸ばし、抗えない力に吸い寄せられるように彼に唇を重ねた。
キスも久々だった。たとえ挨拶の代わりでも、親愛を示すためだけでもうっかり深いものになって彼の情欲を煽ってはいけないから慎んでいた。いまだってそう
だ。さすがにこんなところで盛り上がるつもりはなかったから、舌は使わずに、チュと甘い音を立てて何度も何度も唇を吸い合った――ああ、これ以上はだめだ。大
きな手に頬を首を肩を撫でられ、久々の感覚に身体の芯が熱くなってくる。このまま流されてしまいたい。もう少しだけ。そんな誘惑に駆られ口を開けたところで、
扉をノックする音が響いた。
慌てて彼の腕の中から抜け出そうとしたが、案の定、そうさせてくれない。
「ちょ、離してくれ」
「断る」
うなじに口付けられ甘く噛まれ、俺はさらにもがいた。
「離せって!」
「どうぞ」
彼はさっさと来訪者に返事をしてしまった。
「お目覚めだと――失礼。ご気分はいかがですか」
扉を開けた科学者の男が入室をためらったのはほんの一瞬で、何も目に入らないかのように振舞った。男の後ろにはセシルとローザの姿も見える。セシルは、また
か、と言いたげににやにや笑い、ローザは、ほどほどにね、と言いたげに口許に笑みを湛えている。最悪だ。穴があったら入りたい。
「……問題ない」
こうなれば仕方ない。恥ずかしがっている姿を見せるほうが恥ずかしいと考え、俺は努めて「平常心」を装った。
「引継ぎの書類は、陛下自らお持ちいただけるそうで、恐れ多くも、お願いしました」
「悪いな」
「構わないさ。ついでなんだから」
「ねえ、カイン。しばらくうちに来ない? もちろんお義兄様も。ベテランの乳母もいるから、いろいろ教えてもらえるし。器用なお義兄様なら相当おできになるで
しょうけどやっぱり一人ではたいへんよ。それに――」
「ロ、ローザ」
俺は彼女の話を遮った。彼女が怪訝そうに眉を寄せる。
「それは普通、女が、身体が回復するまで休養が必要だからで、俺はこの通り元気だし――」
「この通り?」
ローザの眸が妖しく光った。ように見えた。
そう、俺はこの通り、彼にぴったり寄り添っていちゃいちゃと戯れていたがそれがどうした――と言えたら! 必死に抑えていた羞恥が一気に噴き出して、たぶん
俺の顔は真っ赤になったと思う。助け舟を求めて、シーツの下で彼の太腿を素早く叩く。
動揺している俺をよそに、彼は弟に向かってのんびりと言った。
「もちろん手伝いはありがたい。週に何度か遣してくれ。うんと年寄りがいい」
意に介さずといったさまは少し憎らしかったが、的確な言葉はさすがで、ありがたかった。
セシルが頷きながら妻に目を向ける。彼女は何か言いたげだったが、肩を竦め頷いて引き下がった。
「では今日はこれで。明日から通常の生活に戻れますが、無理なさらずに」
「僕らも帰ろう」
ローザは頷き、またね、と俺たちに小さく手を振りながら微笑んだ。
国王夫妻のために開けた扉を押さえていた科学者が顔を上げた。
「ご主人。確かに『元通り』とは言いましたが、さすがに今日一日は堪えてくださいよ」
「……」
「兄さん、一日くらい。僕なんて、生まれてから二ヶ月も我慢したよ!」
「んもう、余計なこと言わないで!」
どん、と妻に背中を叩かれたセシルの横顔が歪んだ。結構な力だったらしい。
三人が出て行った後、静かになった部屋で彼が大きく息をついた。
「皆、私を性欲の化け物とでも思っているのか。二ヶ月どころか、何ヶ月我慢していると思っているのだ」
つむじを曲げた彼に、俺は思わず笑ってしまった。
「こんなところ、見せるからだ。『離せ』って言っただろ」
「……そうか。それは誤解を生んだな」
そう言いながらベッドを降りようとした彼の肘を引いた。
「もう誰も来ないだろうから、これでいい」
俺は再び後ろから包まれるように背中を彼に預けて、広い胸の中におさまった。彼の手を取り指を絡めて腹の前で繋ぐ。
「ひとがいないと甘えるのだな」
「前からだろ」
俺は首を捻って彼を見上げて言った。
「意外だ」
彼は片眉だけを上げ、声に出さずに「何がだ」と訴える。
「もっとこう、めろめろのでれでれで、猫撫で声出してくっついて離れないんじゃないかと思ってたから、意外にあっさりしてて」
「おまえが目を覚ます前に済ませた」
まるで食事か何かのように言う。首を傾げる俺に、彼は低く穏やかな声で言い添えた。
「臍帯を切り沐浴させ、検査に付き添い、終えてからは産着を着せ抱いてあやし、オムツを換えミルクを作り飲ませ寝かしつけた」
そうだったのか。いまはひと息ついている、というところか。この塔には産婆はもちろん女中もいないので、すべて自分たちでやらねばならないのだった。
「身体は一つだからな。起きているほうを優先させている」
「……一緒にするな」
二人とも起きているときはどうするんだ、と言いかけたが、大人げないのでやめた。彼が俺をこれからもこれまで以上大切に思っていることは疑いようがなくて、
俺はだらしなく緩む頬を彼の胸に押し付けて目を閉じた。大きな手が腕を肩を髪を撫でてくれる。身も心も温かさに包まれて、俺はしみじみとしあわせを噛み締め
た。
セオドールがまたふにゃっと泣いた。俺は、言われたとおり、素知らぬ顔をしていたが、彼は俺を押しやってベッドから降りた。
「オムツを換えるぞ。見ていなさい」
「はい」
思わず従順な返事をしてしまった。
何故わかるんだ? さっきとどう違うんだ?
俺の「親の道」は長く険しい。それでも、肩肘張らず彼に教わりながら、いや、彼と一緒にやっていけば、自ずと「親」になっていくだろう。
手際よく汚れたオムツを外した彼と交代したところで、セオドールに小便をひっかけられた。温かい尿が手にかかってもそれを汚いと思うことはなく、思わぬハプ
ニングに笑っている自分が少しだけ誇らしかった。
2016/08/08